2013年12月21日土曜日

水・森・土・人 よもやま通信 第2部 第10号「リンゴと言えばカシミール、安全な野菜と言えばオラたちの村!」

 

目次

1.収穫が続く、モヤモヤも続く
2.山奥の農村から、海沿いの農村へ
3.資源は巡る
4.さぁ、オラたちの村で始めよう
5.年を経て、見えてきた変化
6.ブドウと言えば、ハイデラバード。身体に良い野菜と言えば・・?
7.産めよ殖やせよ・・・そのためには?
8.ようやく一つに繋がった!資源は巡る、オラたちの村で。
9.熱意に加えて、実現させるために必要なコト

思えば今年も天候に悩まされた1年だった。雨が降り始めたかと思えばすぐに止み、
雨が降るかと思えばサイクロンとなり、そして次々に襲ってくる巨大低気圧。

それでもなんとか切り抜け、穏やかな晴天を仰ぐ日が戻って幾日。
12月の今、黄金に輝く田んぼでは、稲穂が頭を垂れている。



1.収穫が続く、モヤモヤも続く

今年の3月頃から、B村の人たちは従来の農業とは違った方法で、田んぼや畑、キッチン・ガーデンで栽培を行ってきている。
従来の方法と言うのは、畑でもトウガラシと豆だけ、あるいは茄子だけ、と数種類の作物を長くて2・3か月栽培する、あるいは、複数の豆や雑穀の種を一度にばら撒き、できたものから収穫していくというもので、それがB村の人たちにとっての「農業」だった。

筆者たちソムニード(現ムラのミライ)・スタッフや農業専門家は、村のオッチャン・オバチャンたちのこうした従来の農業に、「農地をデザインする」という意識変化を促し、そして実践してきた。これまでのオッチャン・オバチャンたちの奮闘は、「よもやま通信2」のバックナンバーをご一読いただきたい。

さて、8月頃から、畑ではトウモロコシや茄子、ゴーヤや瓜系の野菜など一人のモデル農家(農地デザインに基づく新しい農業に挑戦する農家)の農地から、何種類もの野菜が収穫できている。

「売って得た収入の1割を、流域管理委員会に納めよう」
そう村のリーダーたちが言い出したのは、9月頃。

「畑や田んぼで使う水や土は、山で作られる。いわば、みんなで作りだして管理してきている土とか水だから、収入の一部を流域委員会に入れて、みんなの活動に使おう」と言うのが、その理由だった。

村の他のオッチャン・オバチャンたちも「そうだ」と言って、毎月末に、その月のモニタリング・シートから確認して、売り上げの1割を流域委員会の共同資金に入れてきた。

ラマラジュさん筆者も、村での研修中にそのような話を聞いて「そうだよな」とは思いつつも、「腹の底から、そうだと信じてやっている訳ではない」と感じていた。



B村の人たちには、流域管理という言葉が体に染みついていて、「何かあった時のために」共同資金を作っていかねばならない、という考えには、もう疑問の余地をもたなくなっている。
ただ、その「何かあった時」というのが、具体的にあるようでない。
「オラ、そこからローンを借りて、肥料を買いたいなぁ」
と、つぶやく声は以前から出てくるが、堅実なリーダーである青年モハーンが、「ある程度、口座に残しておかないとダメ」と言って、なかなかローンの貸し出しを行わない。そして、他の村人たちもやっぱり「そうだよな」と、共同資金からはほとんど借りずに、高利貸しや政府のローンを利用している。
「でも、やっぱり農業でも、流域委員会の共同資金からもっとローンを借りられるようになりたいなぁ」
「どうすればええかなぁ・・もっと資金を増やして・・」
ずっと悶々としているB村のオッチャン達を見て、筆者たちは提案した。
「そういう活動をしている、農民組合を見に行きますか?」
「どこ!?コルカタ?」と、去年の視察研修を思い出す1人のオッチャン。
「いえ、今年はすぐ南の州、タミル・ナードゥ州です」と、ラマラジュさんが大声で行き先を発表するや、
「おぉ、ビーチだビーチだ」と、ほとんどが海を見たことのないB村の人たちは大喜び。
G村でも同じような場面が展開され、かくして、B村G村のオッチャン・オバチャン合計20名が、約1200キロの道程を、電車を乗り継ぎながら1昼夜かけて、900人以上が加入しているという農民組合へ向かった。


2.山奥の農村から、海沿いの農村へ

村人20名にソムニード・スタッフ5名という大所帯な一行をまず迎えてくれたのは、
タミル・ナードゥ州の州都はチェンナイ市に拠点をもつジャヤチャンドランさん
筆者がジャヤチャンドラさんに「今、村でこんな話になってます・・」と共同資金の話をした際に、今回の視察先を提案してくれたのだ。
視察先は、Kazhi Kadaimadai Farmers Federation(KKFF)という農民組合で、チェンナイから更に260キロ南下した海岸沿いの町に事務所を持つ。
B村G村からの参加者20名は、3日間、KKFFのスタッフや組合員である農民たちから、活動について話を聞き、農地を見せてもらい、液肥の作り方や種もみの選定など実践してもらった。
「ところで、お前さんたちはほとんどが30代くらいのようだが、意図があってそのような参加者編成になったのかな?」と、KKFFの理事メンバーの一人が、参加者たちに訊いてきた。
確かに、そこに集まってきている8名ほどのKKFFの理事メンバーの全員が50代以上であり、こちら側より明らかに年齢層が高い。理事メンバーだけでなく、毎日、行く先々で出会うKKFF組合メンバー(農民)のほとんどが、50代・60代だった。
KKFFは現在どこからも資金サポートを受けず、KKFF運営スタッフ(農民ではなく事務管理専門として係わっている人たち)の給料も、組合の財政で賄っている。
そのためにも、稲の種もみを組合員の農民から買い取り、製品化して販売したり、自然災害で作物が被害を受けた時に保障が受けられる農作物保険事業を進めたりしている。そして、組合員たちは自分の暮らす集落内で、さらに小さな農民グループをつくり、そのグループ内で農業用ローンの貸し借りを行っていた。
こうした収入の安定化、農業のセーフティ・ネットを初めて見聞きしたB村G村の人たちは、毎日興奮してフィールドを回り、お腹いっぱいにタミル料理を食べ、自分たちの村のことを思っていた。



3.資源は巡る

そしてKKFF視察研修の最終日の午後、村の人たちはある農地へと案内された。
そこは、約0.5エーカーの土地で、半分ほどは池になっている。残り半分の土地は更に2つに区切られ、一方では畑の中をシチメンチョウやニワトリ、アヒルがガーガーと鳴きながら歩き回り、残り一方の場所では牛が寝そべり、地面から1メートルほど床を高くした小屋でヤギが飼育されていた。
もう60に差し掛かろうかという男性の農場主が現れ、穏やかに村人たちに聞いた。
「お前さんたちの村では、2エーカーというと、一年でいくらの収入が得られるかの?」
「え~っと、田んぼで2エーカーだと、大体2~3万ルピーです」
「そうかいの。ワシのこの土地は、面積どれくらいだと思う?」
「0.5エーカーくらい?」
「そうじゃな。この農地からはな・・・・、最低でも20万ルピーは収入があるぞ」
「ウソだ~!」「ありえない!」と思わず口々に反応する村のオッチャンたち。
「ほほ、この池では魚を養殖しておるし、畑では野菜が採れる、ヤギも産めよ殖やせよで売れていくし、シチメンチョウやニワトリは卵を産むし、肉も売れる」
ラマラジュさんが、B・G村の人たちに一つひとつお金に換算して計算させていくと、やっぱり20万ルピーは軽く超える。
「しかもな、この牛が食べるワラはどこから採れると思う?」と、またもやB・G村の人たちに問いかける農場主。
「田んぼですよね?」と神妙に答えるG村のオッチャン。
「そうじゃ。そしてこの牛の尿は、液肥になってまた田んぼに戻る。そして牛の糞は、池の魚の餌にもなる。池の底にたまった糞は、パイプで汲み上げて、また農地に戻す。分かるかいの?全てが循環しておるのよ。ここでは、何も無駄になっておらん」
「ほおぉ」「へぇぇ」「これが、よく話に聞くIFSか」と、村の人もラマラジュさんも筆者もヒロアキも、全員が感嘆の声を一様に漏らした。
IFSとはIntegrated Farming Systemのことで、作物の栽培、畜産、養殖など農業に関連する生産活動を統合して実施する農業形態のことを言う。つまり、この農場主が行っているように、家畜の排せつ物が肥料となり、その肥料で作物を育て、作物の残りの部分がまた家畜の餌になる、というように、限られた狭い土地の中で資源が循環して利用され、生産活動が行われるのだ。
さらにこの農場主は、「これとあれと・・これら5種類の葉を牛の尿に15日間浸け込んでおくと、天然の農薬になる。作物に虫が付いたら、これを水で薄めて振りかけたらええ」と、村のオッチャン・オバチャンたちに葉っぱを取らせて、自然農薬の作り方も教えてくれた。
目を爛々とさせて、話に聞き入る村の人たち。
そして最後に農場主が言った。
「お前さんたちは、ワシより若い。息子みたいな歳やな。わざわざアーンドラ・プラデシュ州の山奥から来たというお前さんたち20名の中で、今ワシが話したこと見せたことを、何人が村に帰ってからやってくれるかの?」
思わずお互いに顔を見合せる村の人たち。
「4人くらい、今ここで、『オレがやったる』と言うてくれたら、ワシは嬉しい」
すると、真っ先にB村のオッチャンたちが手を挙げた。
「ホホ、頑張ってくれや」
この時オッチャン達が手を挙げたのは、単なるその場の勢いではなかったことが、この後、自分たちの村に帰ってから判明する。





4.さあ、オラたちの村で始めよう

タミル・ナードゥ州から戻って3日と経たずに、視察研修の振り返り研修を依頼してきたB村からの参加者たち。
村に帰ったその日の夜には、すでに村人ほぼ全員に見聞きしたことを説明したと言うのだから、筆者たちもその熱意には驚かざるを得ない。
液肥や自然農薬の作り方や農民組合の活動内容のポイントを、一つずつ思い出しては書き出していき、「村全体でこれから実践していくこと」「個人で実践していくこと」について考え始めた。

11月下旬のある日。B村の裏手に立つ大きなタマリンドの木の下で、ビニールシートが広げられ、木の棒を組み合わせたシンプルな三脚台には、ミニ黒板が乗せられた。
各世帯から1人ずつ、30人弱が次々に集まり、ビニールシートの上に車座になる。20代から40代がほとんどで、50代から60代が5人といない。10名ほど、オバチャンや矍鑠(カクシャク)としたオバアチャンたちも参加している。
「今日からオレ達が受ける研修は、これからのオレ達の村のこと、山や畑や田んぼ、そしてどういう暮らしをしていくか、ということについて考えていくためだ」
6名いる青年リーダー達の一人、ドゥルガ・ラオが自ずと集まった人たちに話し出した。
「だから、今日1日だけでなく、この研修が終わるまで毎回、全員が参加すること。いいね?」
そして、別の青年リーダー・アナンドが話し出す。
「この前、僕たち10人がタミル・ナードゥ州に視察に行ったことは話しましたよね?何を見て来たのか、みんなもまだ覚えていると思う。この視察研修で学んだことも基にして、これからの村での暮らしを考えていこう」
神妙な面持ちで聞き入っている30人の村の人たち。
「それでは、ラマラジュさんにキョーコさん、研修をお願いします」
2007年に彼らと活動を始めて以来、こんな風に研修が始まったのは、初めての事だった。

「素晴らしいですね、みなさん。ドゥルガ・ラオにアナンド、説明をありがとう」と、ラマラジュさんも、嬉しくて興奮した状態である。
「それではもう一度、アナンド達が視察研修から何を学んだのか、視察に行っていない人で誰か私たちに話してくれませんか?」
と、ラマラジュさんが尋ねると、何人かの村人たちが次々と、その内容を自分の言葉で説明した。
そして、「自分も家畜を殖やす」「村全体で、種の収集と保管、販売をする」等々、すでに話し合ったという計画案を、筆者たちに共有してくれた。
そして、オッチャン・オバチャンたちの熱いやる気を損なわず、何が本当に必要なのかをあぶりだしていくために、自分たちの現状を客観的に見つめて分析する作業を筆者たちは手助けしていった。


5.年を経て、見えてきた変化

「今も、村の中には牛やヤギ、鶏などの家畜がいますね。その餌はどこから採ってきますか?」

「牛の食べる草は、田んぼや山の麓で、ヤギは山の中かなぁ」と答える村のオッチャン。
更にやり取りを続けて、まずは全員の意識を山の中の、石垣と小川に向けていく。
そして、青年リーダーたちが筆者たちのサポートとなって、2009年から石垣など今までに山の中や麓で施してきた保水土対策について、周辺の農地等で生じた「良い変化」と「トラブル」について、個別に聞いて書き出していった。
土に厚みが出た、根菜類のサイズが大きくなった、果実が生りやすくなった、乾季でも土中が湿り続けている、作物のサイズが大きくなったので収入が増えた、等々の共通の「良い変化」が
見えてくる。
さらに、「崩れやすい石垣」と「崩れない石垣」が浮き彫りになった。
「どういう時に、崩れていますか?」と筆者が尋ねると、
「ヤギの放牧に来た後に、崩れているのよ」とオバチャンが言う。
「ヤギの放牧に来る場所は、決まっているのですか?」
「大抵は決まっているよ」
「その場所の石垣全部が、放牧の時には必ず崩れるのですか?」
「そうじゃないよ」とオッチャンが言う。
「崩れているのとそうじゃないのと、何か違う点はありますか?」
しばらく遠い目をして考えているオッチャン達。
「もう、みんなちゃんと見てないんだから!」と怒り出すオバチャン。「幅が狭い石垣が、壊れるのよ。ヤギが上に乗って、木の葉っぱをむしゃむしゃ食べるでしょ。だからその時の勢いに耐えられないの。幅がある石垣は、何匹乗っても崩れていないじゃない」と、大声で言う。
すると、「あぁそうだそうだ、だから、オレは少し広めに直したんだ」と、何人かのオッチャンたちが同意した。
石垣を作った当初は、まだそこは何も植物が無いからヤギも来ないし、こうした状況は発生しない。4年が経った今、土ができ、ヤギが食べに来られるだけの植物が育って初めて、遭遇している状況なのだ。
そして自然と、「新しく石垣を作る時は、少し広めに幅をもたせる」という共通認識が生まれる。同様に、この4年間の山や川での変化について細かく書き出していった。

 

6.ブドウと言えば、ハイデラバード。身体に良い野菜と言えば・・?

「この川の水は、あなたたちの田んぼに来ますよね?」とラマラジュさんが尋ね、同意する村人たちに、更に質問する。
「何人が、今までと少し方法を変えた稲作をしていますか?」
4人が手を挙げる。
「ワシの田んぼではな」と、初老の村人が話し出した。「1本か2本のまだ若いナヨナヨした稲の苗を、25センチ間隔で植えただろ。しばらくは、地面にヘナ~っと横たわっとる訳よ。ワシ自身も、あぁダメだった、と思ったものよ。周りの村からも、田んぼに出るたびに笑われたしな。
そしたら1週間か10日ほど経つと、ピンと立っておる。あの時はぁ、心の底からホッとしたよ。
そしたら後はグングン伸びて、今は他の村のヤツよりも、ワシの稲穂は実をつけているわい。」
と、通称「SRI」と呼ばれる稲作方法に転換した村人ソンブルが、自慢気に話した。
しかも、ソンブルは、同じ田んぼの面積で去年は15キロの種もみを買っていたが、今年は1キロで済んだことや、化学肥料を減らし堆肥を使うことで、更に支出が減ったことを、具体的に金額を挙げて披露した。
「他の人たちも、今までとは違う農業に挑戦しましたよね?」と水を向けると、
「畑では・・」「キッチン・ガーデンでは・・」「果樹園では・・」と、具体的に栽培作物の種類や収穫量、その販売による収入など、モニタリング・シートを見ながら数字を書き出していって、変化を目に見える形にした。


「私の畑では、もう毎日毎日、色んな野菜が採れて、妻も子どもたちも大喜びですよ。特に妻は、『市場に野菜を買いに行く時間が省けた』と言っていますが、そうなんですよね。
1時間も歩いて市場に行かなくて良いので、私たち夫婦で畑で作業する時間がさらに持てるようになって、しかも良い野菜がたくさん採れるようになっているんです」
と、3人の子どもを持つオッチャンが話すと、他にも同様に「市場に野菜を買いにいくことが減った」という村人が、続々と出てきた。
「ナイックさん」と、このオッチャンに呼びかけ、「あなたの畑では、農薬や化学肥料を使っていますか?」と尋ねた。
「いいえ、今年は無農薬で、堆肥のみを使いました。あ、そうそう、この前は、視察研修に行ったチランジービーさんが、5種類の葉っぱで自然農薬を作ったと聞いて、それを買って使いました。いやぁ、良く効きますね、アレは。」
チランジービーが嬉しそうに「まだあるよ」と、他の村人たちにもPRする。
「ところで、市場で売っている野菜は、無農薬ですか?」と聞くと、
「わからない」と言うのが、B村の人たちの第一声。
「でも、使っているのがほとんどだと思う。だって、害虫にやられずに、たくさん販売しようとか、良い値で買い取ってもらおうとか考えると、農薬に頼ってしまう」と、別のオッチャンが答える。
「じゃぁ、ナイックさんのお家では、今年は農薬が付いていない野菜を食べられたのですね。良いですねぇ。」と言うと、
「そうだ、私たち家族は、健康に良い野菜を食べれているんですよね」と、さらにナイックの顔が明るくなった。
この時、他のオッチャン・オバチャンたちも、ハッとした表情に変わった。
「ブドウと言えば、どこを思い浮かべますか?」と、突如、尋ねてみた。
「ハイデラバード」と、特産地を言う村の人たち。
「牛やヤギと言えば?」「シータンペータ村」、「ターメリックと言えば?」「パーラッケミディ村」、「ホウキ草と言えば?」「ゴディヤパドゥ村」と、続けていき・・・
「安全な野菜と言えば?」
「・・・・・オレたちの村、ブータラグダ村、にしたい!」と一斉に声を上げるオッチャンたち。
こうしたやり取りの後、従来型の農業から少し方法を変えた新しい農業を実践する農地が、B村で今年は27か所なのが、来年は候補として54か所が上がった。


 

7.産めよ殖やせよ・・・そのためには?

「最初に、個々人で家畜を殖やしたいと言っていましたよね?」と、村の人たちの計画案に戻っていく。
「今、2013年に、この村には何世帯の人が、何の家畜を、何頭飼っていますか?」と筆者が尋ねると、頼もしや、青年リーダーの一人、ラメーシュが前に出てきて助けてくれる。
農耕用の牛、乳牛、ヤギ、ヒツジ、鶏、の5種類の家畜がいるのだが、それぞれ飼っている世帯数と合計の家畜数をその場で聞き、模造紙に書き出した。
「次に、来年2014年に、誰が何の家畜を飼おうと思っていますか?」
そしてラメーシュは、なんと7年先の 2020年の予測まで聞きだした。
来年についてだけでも見てみると、農耕用の牛で約1.5倍の30頭、乳牛は約3倍の14頭、ヤギやヒツジ、鶏も約2倍と、大層な数にまで増える。
「今いる牛やヤギに対して、1年中、餌は与えられていますか?餌の収集に困る時はないですか?」と筆者が訊いてみる。答えは予想通り、
「いや、あります」と、ある青年が答える。「特に稲作が始まると、あぜ道とか通れないので、牛の餌を確保するのに毎年苦労しています」
すると、期待通り、
「そうだよ。今でさえ苦労しているのに、こんなに一度に家畜が増えちゃったら、何食わせるんだよ。腹を空かせっぱなしだと田んぼも耕せないよ」
「家畜を殖やすには、餌も確保しないと飼えないよ!」と、大事な部分に村人たちが気付く。


8.ようやく一つに繋がった!資源は巡る、オラたちの村で。

「ところで、牛を増やして何をするのですか?」と質問する。
「田んぼを耕したり、フンをたい肥作りに使ったり、尿を液肥や自然農薬にするのです。堆肥や液肥は、自分で使う以外にも、販売できますし」と、異口同音に村の人たちが答えた。
「あなたが飼っている牛の食べるワラは、どこから採れますか?」と、更に質問する。
「ボクの田んぼです」
「田んぼの水は、どこから来ますか?」
「xx川から引いているから、デワダ山の上からです」
このやり取りから、村の人たちは、農薬も化学肥料も使わずに稲作するためには牛が必要で、そのためにも、十分な水を確保する必要があり、だから山での保水土対策を続けていかねばならない、とまるでパズルのピースを組み合わせていくように、考えを固めていった。

山で作り出される水や土、生育する植物、これらをベースにして自分たちや家畜の食べるモノを生産し、さらに家畜の排せつ物や植物の一部が、土や水に還元される―――。
タミル・ナードゥ州で見た農地は、0.5エーカーという小さな土地で個人が営む循環型の農業だった。
今、B村の人たちの目の前におぼろげに浮かんできているのは、村全体で営む循環型の暮らしである。
自然と、青年リーダーたちが再び村人たちを車座にさせて、話し込んでいく。


6人の青年リーダーたちが一列に座り、彼らが他の村人たちからアイデアを聞き出していく。他の村人たちの意見に頭から否定しないで、常に、山頂から川下までの流域管理の考えに沿って、可能性を探っていく。
B村を含めた広域村落の村長(=サルパンチ)となったモハーンは、鳴り続ける携帯電話に忙しそうに対応しながら、要所要所で「自然資源は、村の共通の財産だ」と、強調し続けた。
森と土と水と人、そして家畜に農業、全てが関わり合い、切り離せない資源の循環。
やがて、B村をどんな村にしたいのか、どんな生活を営んでいきたいのか、という話に辿りつく。
【安全な水と土で安全な野菜を作りだす村、そして、高利貸しなど外部からの融資に頼らなくても自活していける村】

それが、ブータラグダ村の人たちが目指す村であり、描き出す暮らしとなった。
それに到達するための具体的な活動も、当然のごとく話し合われた。
堆肥作りを拡大したり自然農薬を醸造し利用したり、まだ未着手の山で土留めを行ったり田んぼに小さな貯水池を併設したり、牛・ヤギ・羊のエサ場づくりをしたり、という流域管理の活動や、そして、個々人の農産物は村の流域管理委員会が買い取って委員会が販売したり、融資を行い利子を貯めていったり、農作物保険を勉強して実施したりすることで、共同資金を増やしていき、自分たちの投資に必要なお金は村で作り出す、という具合にだ。
「ブータラグダ村を、モデル村にしてみせる」と、鼻息は荒い。
筆者たちは、その様子をただ見守っていた。時には、声を荒げるオッチャンもいたし、席を外すオバチャンもいた。
話し合っていたのは1時間半くらいか。
6人の青年リーダーたちは、2007年・08年から研修に参加し続けて、徐々に台頭してきた村の青年たちである。その頃は「研修に行くよりも畑を耕す」と言っていたオッチャン達も、今では研修に加わり、そしてこの場で「どんな農業をしたいのか」「どうしたら農業で食っていけるのか」と、声を大にして意見を言っている。
リーダー達だけではない、村全体が階段をひとつ上がったような、そんな光景だった。


9.熱意に加えて、実現させるために必要なコト

「お待たせいたしました。これから何をしていくか、話がまとまりました」と、アナンドが筆者たちにそのリストを見せてくれる。
「なるほど。では、これをさらに具体化していくために、何年にどの活動を完成させますか?」
と、村人たちに質問した。
また白熱する議論。
そして、例えば田んぼに併設する貯水池は2014年から2018年にかけて、各年に何個ずつ、と言う具合に、2014年から2020年にかけて活動を割り振っていった。
ここでいう2020年というのは、感覚でしかない。だけど、これくらい「長期間」の先には、必ずや描く村の姿、そして望む暮らしを全員ができる、できていたい、というゴールを自分たちで設定したのだ。
この村の人たちが描いたゴール先の姿は、ソムニードが事業の長期的な目標として考えていることやその指標として捉えていることと、ほぼ合致する。
ソムニードは、事業を始める際に、事業タイトルも活動内容も言わなければ、研修の参加対象者も限定しない。一歩ずつ、時には立ち止まりながら、時には後戻りしながらも村の人たちと進んでいくと、必ず、お互いの歩みが一致するのだ。

「この後、何をしますか?」と、ワザと他の村で研修を行っているB村の指導員に、ラマラジュさんが尋ねた。
「アクション・プラン作りです」と、胸を張って答える青年。
この事業が2015年8月に終わることも、全ての活動に対して事業から資金サポートが出ないことも、承知済みのB村の人たち。
フェーズ1が終わる2010年にもやろうと思ってまだできていなかった、「財源」を含めたアクション・プラン作りに、これから取り組まなければならない。
冷や汗あぶら汗を流しながらの研修の日は、まだまだ続く。



<注意書き>

 ラマラジュさん:ソムニード・インディアの名ファシリテーター。よもやま通信第1部からおなじみ、事業に欠かせないスタッフの一人。

 キョーコ:前川香子。この通信の筆者で、プロジェクト・マネージャーを務める。

 ジャヤチャンドラン氏: マイクロ・クレジットおよび住民組織に関する専門家。ソムニードとの付き合いは長く、特に2004年からのビシャカパトナム市内スラムに暮らす女性たちによる「オバチャン銀行」の事業では、スラムのオバチャンたちを手厳しく指導してきた。

 ヒロアキ:今年6月末からインドに赴任してきた新人駐在員、實方博章。ヒーローのニックネームで、村の人たちにも人気者。