2022年11月30日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(3)

 「貧困」を訴えた寄付金集め

何事をなすにも、先立つものがなければなりません。私の場合は、「やるぞ」と宣言してから「先立つもの」を集め始めたので、これはいわゆる「泥縄」というやつですね。1993年4月からCSSSへの支援を始めて、その年は、私の記憶では400万円ほど集まったような気がします。初年度の勢いというやつでしょうか。しかし、一度は寄付してくれても、それを会費という形で継続的にしてくれるかどうかは、全く別です。その次の年にこの勢いが続くかどうか、まぁなんとかなるだろうと希望的観測に頼るしかない日々が始まったわけです。

で、どうやって寄付を集めたか、当時は真面目に「貧困」を訴えました。現在は、不真面目になったわけではありませんが、「貧困」は訴えません。今から思えば、この「貧困を訴える」、から「貧困を訴えない」、までの変化の間にメタファシリテーション(R)が生まれ、そしてこの変化に象徴される私の現場に対する見方、立ち位置の変化をメタファシリテーションが決定的に促したと言えます。


「貧困なので〜できない」という魔法の話法

さて、この「貧困」という言葉は、ある意味魔法の言葉で、この言葉を使うとネガティブな状況が説得力を持って説明できます。例えば、「貧困なので医者にかかれない」、「貧困なので子どもを学校にやれない」、「貧困なので満足に食べられない」、「貧困なので土地を開墾できない」などなど、こうして「貧困なので」に「ない」、「…できない」と続けると、その表現の簡明直截さからなんとなく納得させられてしまいます。

この魔法の話法に、「パタパトナム郡のアウトカーストの村は」とか「スリカクラム県の山岳少数民族の村は」というような文節を頭に付ければ、なかなか反駁し難い説得力を持つようになります。私も当時、このような話法に説得され、納得してもいました。


インド現地NGOの受け売り

ところで、CSSSはどのような話法を使って、というかどのような理屈で対象となる人々を決め活動をしているのかをここでちょっと紹介しておきましょう。なぜなら、有体に言ってしまえば、私が当時日本向けに語ることは、この受け売りに過ぎなかったからです。

で、彼らがどのような人々を支援するかというと、「経済的に搾取され、社会的に抑圧されている人々」ということになります。これが誰なのかというと、山岳少数民族とアウトカースト(有名なインドのヒンドゥー教の秩序、カーストにも入れない、カースト外の人々、つまり人間ではない人々ということになります)。

山岳少数民族もカースト外ということでは、アウトカーストと同じ扱いをヒンドゥー教の社会では受け、徹底的な差別の対象となります。都会ではいざ知らず、農村部ではこの区別はあまりにも明らかです。
明らかというのは、村ではカーストによって住む区画がはっきり分かれているからです。もちろん、アウトカーストだけの村もあります。また、山岳少数民族は、山岳という形容詞がついているだけに、まさに山の民です。ですから、彼らも住む場所によってそのアイデンティティーがはっきりと分かる仕組みになっています。


支援の根拠は「村人は搾取されていて、貧しいから」だけ

では、経済的には彼らがどんなステータスだったかというと、ざっくり言えば「土地なし」農民です。「土地なし」と言っても、文字通り自前の耕す土地がないということではなく、平地の水田を持っていないという意味です。山岳少数民族は、当然ながら山中に集落を散在させています。アウトカーストの集落も、山際の傾斜地にあることが多く、広い水田を有することは困難な位置にあります。それでも、彼らが僅かばかりの土地を自前で耕せるようになるまでには、困難な戦いを経なければなりませんでした。

1970年代、インディラ・ガンジー首相は、「全ての土地なし農民に土地を」というスローガンのもとに、土地なし農民に政府所有の未開墾地のパッタ(耕作権)を付与するという政策を打ち出しました。その土地なし農民の多くが少数民族でありアウトカーストであることは言うまでもありません。ただし、彼らが自分たちの権利を主張し、パッタを得るというのは、それまであらゆる差別と抑圧を受けていた彼らにとって容易なことではありませんでした。

その彼らの権利獲得闘争を支援したのが、CSSSのようなNGOでした。その支援から始め、やがて支援の内容は識字教育、農業支援、収入向上などへ移っていきました。私が支援に入ったのは、このような活動を彼らが始めて十数年経ってからです。私としては、特に何をしたいとも何をすべきだとも考えがないものですから、それを踏襲した形で支援を始めるしかなかったわけです。その根拠といえば、彼らが差別されていて貧しいという以外にはありませんでした。そしてその貧しさは、ある意味、実にわかりやすく目にすることができたのです。


「貧しい」村の老人が1日に使えるお金

ある村に、目の見えない初老の男性がいました。その村を訪ねた時、私を取り囲んで座った村人の中に彼がいて、他の村人たちが、彼は目が見えなくとも札をさわればそれがいくらかわかると言うのです。

そこで早速私は試してみることにしました。当時インドでは額面の低い方から順に、1ルピー札、2ルピー札、5ルピー札、10ルピー札、20ルピー札、50ルピー札、100ルピー札とありました。私は1ルピーから渡して試したのですが、20ルピーまでは見事に彼は当てることができました。ところが、50ルピー札と100ルピー札は彼には当てることができませんでした。彼が日頃この額面の札を手にしたことがないのは、明らかです。単純に今の日本と比較はできませんが、言ってみれば5000円、10000円札は触ったことがないと言ったところでしょうか。

ちなみに現在のインドでは、1ルピーから20ルピーまでは硬貨になり、500ルピー、1000ルピーが流通しています。この30年のインドの目覚ましい経済発展を反映していますね。

また、その頃、私は村人たちに、買い物には一回いくら遣う?と愚にもつかない質問をしていました。今だったら、うちの職員がこんな質問をしたら怒られますよ。でも当時は大真面目でした。で、このへなちょこ質問に一様に返ってきた答えが5ルピーだというもの。今思えば、彼らの感覚としての1日の可処分所得だったんでしょうね。

当時彼らが農閑期に道路工事などの賃仕事をしてもらう日当が10ルピー程度でした。もし一月休みなく賃仕事をしても、月に300ルピーにしかなりません。当時CSSSの幹部職員が、月に3000ルピーの給料を貰っていたので、少なくとも現金収入という面では、村人はまさに貧乏でした。


上から目線の支援「貧しい人たちの自立を促す」

というわけで、最初のうちは、何の疑問も抱かずに、溜池を掘ったりヤギを配ったりしていたわけです。しかも彼らの「自立を促す」とか言ってね。今から思うと何という上から目線、傲慢さと恥ずかしくて穴があったら入りたいと思うのですが、何度も言うけど当時は大真面目でした。

でも、こんなことを続けているうちに、すぐに苦しくなってきたのは、資金繰りだけではありません。実は私は視界の効かないモヤの中にいたと気づくのですが、その話は次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

2022年11月14日月曜日

メタファシリテーションのできるまで(2)

徒手空拳という言葉があります。1992年10月に南インドのアーンドラプラデシュ州ビシャカパトナム市の空港に降り立った私がまさにそれでした。

コトバンクで「徒手空拳」という言葉の意味を引いてみると、
-手に何も持たないこと。また、自分の身一つだけで頼むべきもののないこと
とあります。
我が身に引き比べれば、要するに金もなければ頼れる組織なり権威なりもない、という状態でしょうか。これが、後にムラのミライとなるNGOをこれから立ち上げようという時の私でした。

ビシャカパトナムの空港には、ラマ・ラージュが一番上の娘さんと一緒に迎えに来てくれていました。

ラマとは、彼が1981年にアジア保健研修所の研修生として来日して以来の付き合いです。1976年以来、アーンドラプラデシュ州の北東端、スリカクラム県の3つの郡でNGOを立ち上げて、主に少数民族とアウトカーストを対象とした支援活動をしていました。
ラマたちの団体は、当時、旧西ドイツの資金提供団体から資金を供与されていましたが、1989年の東西ドイツの統合により、資金提供団体が当面の支援先を旧東ドイツにシフトしたため資金が途絶えてしまった、そんな状況にありました。

そのことを伝え聞いた私が、ラマに支援を申し出、とりあえず何ができるか相談するためのこのインド訪問でした。この時私は、ラマたちの当座の足しにと思って20万円ほどの現金を持参していました。当時の私の月収の半分程度の金額です。この金額で何ができるかと言えば、おそらくCSSS(これが、ラマが当時主宰していたNGOの名前です)のスタッフ15人の1ヶ月分の給料を賄えるほどの額でしたでしょうか。

とにかく、空港で「やあやあ」と言ってラマと握手をした時が、ドラマチックに言えば、のちにムラのミライとなるNGOの誕生の瞬間です。

この稿は、私のフィールド(途上国の現場)との関わりを通してメタファシリテーションの成り立ちを書くことを目的としているので、なるべくそれに直接関わらないことは書かないようにしているのですが、この時空港に降り立つまでも、そしてその後も家族をはじめ多くの方たちに多くの支援をいただいたことで、現在までなんとかやってこられたことをここで断っておかねばなりません。特に、草創期からの10年ほどは、筆舌に尽くし難い支援をしてくださった方たちがいます。あえてここではお名前はあげませんが、今でも感謝の念に堪えません。ただ、草創期から10年ほどは、頼りない私をなんとかしなければという、いわば私個人を支えていただいたという意味合いが大きかったのですが、今ムラのミライはこのバナーの下に集い活動する人全てのものになっている、言い換えれば私は完全にその中の1人に加えてもらっているという状態になっています。この30年ほどの成果として特筆すべきことはいくつかあると思いますが、私としては、このような団体に育ったことがある意味一番誇らしいことです。

少し脱線してしまいました。さて、空港で久しぶりにラマと再開した後、早速ビシャカパトナムから車で当時6時間強の道のりのパタパトナムに向かいました。CSSSの事務所はパタパトナムという町にあり、パタパトナムは、同じパタパトナムという名のスリカクラム県にある郡の一つの役所があるところです。日本では、郡は地理的な区分以上の意味はありませんが、インドでは行政単位の一つとして機能し、議会もあります。

事務所では、集まっていたスタッフたちを紹介され(ほとんどのメンバーは、前回1986年に訪れた時とほとんど変わっていなかったため、旧知でしたが)、行われている事業(プロジェクト)、背景となる状況についての説明を受けました。今となっては、何が説明されたのか、それに対して何を質問したのか、全く覚えていません。今から思えば、何か核心をつくような質問ができたとは到底思えません。端的に言えば、ふんふんと頷く以外のことをしていたとも思えません。その後、CSSSが事業をおこなっている村々を訪れ、村人たちの集会に参加させてもらって(というより、日本からゲストが来ているから集まってくれと動員をかけられて村人たちは集まっているわけですが)、村人の話を聞くということをしました。この時もふんふんと頷くだけで、質問をしろと言われても、何を聞いたらいいのか、おそらく質問を促されて何か聞いたのでしょうが、何を聞いたのか全く覚えていません。

それよりも、この時、CSSSのスタッフと会い、村人の集会に参加し、いわば「実物」を目にしたことで、これからこの人たちを支援していくのかというプレッシャーを、多大な実感を伴って感じたことでした。そもそも私は能天気な人間で、稼いだ金は遣ってしまうので貯金というものはほとんどなく、ラマたちへの支援のために手を挙げた時も何か資金的な成算があったわけではありません。これを客観的に言えば要するに私は「お調子者」の類でしかなかったわけです。

その「お調子者」としては、なんとかするしかないわけで、とりあえず翌年の4月に「本格的な」支援を立ち上げることを約束し、半年ほどの猶予をもらって帰国しました。ただ、半年ほどの猶予をもらったところで何をすればいいのか分からず、とりあえず考えたのが、団体の名前を考えること、団体専用の電話を契約すること(まだ携帯とかスマホとかない時代です)、ファックス(!)機能付きの電話機を購入すること、そして会員を募集して少しは定期的な資金調達をしたいので会員管理にはコンピューターが必要だろうということで、コンピューターを買うこと、の三つでした。

一つめの団体名ですが、いろいろ考えた末、面倒くさくなって「サンガムの会」という名前にしました。「サンガム」というのはサンスクリット語からの派生語で、あえて日本語にすれば「組合」でしょうか。ラマたちは、対象とする村人たちを村ごとの「サンガム」に組織し、サンガムを受け皿としてさまざまなプロジェクトを行なっていました。この「サンガム方式」は別にCSSSの独自のものではなく、当時のインドのNGOはどこでも採用していると言えるほどのものです。ただ、後になって気づいたことですが、日本語での「サンガム」という語感は、「ガンダム」とか、当時社会を騒がせていた「オーム」とか、国際協力をやろうというNGOの名前としては決してプラスに働いていたとは言い難い響きを与えていたということと、現地で自分の団体名(まだ団体などと呼べるようなものではありませんでしたが)を言うと、まさに現地のサンガムと紛らわしいという、これは困ったという問題も発生しました。

二つめの新しい電話の契約とファックス機能付きの電話機の購入は、自分の手持ちの資金でも無理なくできることでした。ただし、パタパトナムのCSSSとの連絡では使えません。そもそも、理論的には直通の国際電話はかけられるはずでしたが、実際にそれを試みてみて通じたことがありません。ファックスは、当然ながら直接送ることはできなかったので、ビシャカパトナムにあるCSSSの友好団体宛に送って、それをわざわざ往復12時間をかけて取りに来てもらうことしかできませんでした。結局、最も確かな通信手段は航空便で、往復に最低2週間はかかります。本当に緊急の場合は国際電報(!)。電報という言葉も今はほとんど死語になっていますかね。

三つめのコンピューターは……これが、一番お金がかかりました。何せ、最も安いノートパソコンと最も安いプリンタで30万円ほどしましたから。しかも、今では想像し難いでしょうが、コンピューターにハードディスクもなく、デスクトップメモリも1M Bもなく、操作も全てMS-DOSのコマンドを打ち込むという、これも今思えば隔世の感がありますね。

で、これだけ準備してあとは何をすればいいのか、当時の私にはさっぱり分かりませんでした。それで私が始めたのは、親戚、知人みんなに支援を要請する手紙を書きまくることです。平たく言えば、ぜひ寄付してくださいという手紙です。その手紙の中で、当時私が理解している限りの現地での状況を訴えたのですが、その「理解している限り」という現地への私の認識の仕方が、すぐに私を悩ませることになります。その話は、次の回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)