2022年10月31日月曜日

事実質問で話を聴かれた子どもたち

普段は少ない「事実で話を聴く」ケース

メタファシリテーション®講座に参加した皆さんのなかで、特に初めて対話練習をした際に、「だいたいは〜」とか「いつもは〜」、「みなさんは〜」「○○は好きですか?」という、事実は聞けない質問を無意識に連発してしまった記憶のある方は多いことでしょう。

YouTube、テレビ、ラジオにアクセスすれば、相手の「考え」を聞いているインタビューや、出演者のやりとりにあふれています。一度試しに「事実で話を聞くスイッチ」を入れて、耳から入ってくる情報を注意して聴いてみてください。「事実」を聞いている質問がどれだけあるでしょう?そして「事実」でこたえているケースもかなり少ないことに気づかれると思います。

「事実で話を聞くスイッチは通常オフになっている」という理解でいると、「ここは詳しく聞きたい」という場面で、スイッチを入れねば〜と切り替えることができます。
ただスイッチを入れたからといって、すぐ事実だけで聞けるかというと、そういうわけではないのは講座に参加された皆さんはよくご存知で、やはり日々の練習次第にはなるのですが…。


「事実」を聞かれることに慣れた子どもは...

さて、講座などで繰り返し「事実を聞く質問(以下、事実質問)」について話している私ですが、家にいるときも、常に「事実質問スイッチ」をオンにしているわけではありません。
とはいえ、子どもの話を聴くときはなるべく家にいてもスイッチをオンにしようとは心がけています。

来年15歳になる息子は、生まれたときからかなり長い時間、親から「事実質問」で話を聞かれ続け、聞かれることにも、答えることに慣れています。おまけに彼は、ムラのミライの認定トレーナーたちからも、言葉を覚え始めた時から、事実質問でたくさん話を聞いてもらって育っています。小さな頃は各地の出張に連れて行っていましたから、各地の研修先で、研修参加者からもあれこれと事実質問で話を聞いてもらってきました。

ある日、「事実質問スイッチ」を完全オフにした私(親)は、息子に「期末テストどうだった?」と聞いてしまいました。「あ、しまった!」とすぐに気づきましたが、時すでに遅し。ため息混じりの息子から逆に聞かれたのは次のような質問でした。

・「何日間か期末テストはあったけど、いつの試験のことを聞きたいの?今日の試験のこと?」
・「今日も何科目か試験あったけど、どの科目のこと?」
・「その科目の前回の期末テストと今回のテストの点数の違いが聞きたいの?」

私の「どうだった?」という質問では、「期末テストの何が知りたいのか?」が明確でなかったことがわかり、おまけに…
・「◯◯というサイトを見るとテスト結果がわかるけど、もうそのサイトみた?」
と、これまでに私が彼のテスト結果を知るためにやってみたことがあるかどうか(経験)を
も確認されました。

それらの質問に息子が答えたり、私が学校のサイトを見たりしているうちに、息子の期末テストの結果はわかりました。
私の「どうだった?」にしばらく付き合った後、息子は「過去はもう振り返らない、前しか見ない。」と言い残し、自分の部屋に入っていきました。


「どうだった?」質問に慣れると...

「何も考えずに期末テストどうだった?」と聞いていたことを、みるみる質問した人(私)に気づかせていくこの質問の数々。期末テストの結果はともかく、さすがこれまで事実質問で聞かれ続けているだけあるなあ〜と感心してしまったのでした。

私が14、15歳だった頃、「期末テストどうだった?」と親に聞かれれば、真っ先に親を心配させないように、細かくテストのことを聞かれないように、という類のことを一瞬で考え、「まあまあがんばったよ」と当たり障りのないように答えていたかと思います。

その「一瞬で考える」作業は、期末テスト以外でも、「最近友だちとどう?うまくやってる?」「体の調子はどう?」「最近、部活はどう?」「進路どうするの?」「新しい担任の先生どう?」「○○検定どうだった?」「体育祭どうだった?」「今日のご飯どうだった?」などなど、「どう?」と聞かれる度に繰り返され、反射神経のようになってきます。相手のことを忖度した回答を一瞬で考えて、当たり障りのないように答える、これを繰り返すと、どうなるでしょう。

そうです、習慣になってしまい、相手への忖度なしで返事ができなくなっていくのです。反射神経が鍛えられ、「どう?」と聞かれたら一瞬で、相手が期待することを考えて答える癖がついてくると、恐ろしいことに相手の忖度した答えが、自分の「答え」のように思えてきてしまうのです。一つ一つのやりとりは、大したダメージを与えませんが、何年も繰り返されれば、忖度に疲れてしまい、「誰とも話したくない」「誰も私のことは聞いてくれない」「忖度する直前の自分の答えがわからいない」となっていきます。


事実質問で鍛えられる、子どもの「相手と分かり合う力」

周りの複数の大人から、「どう?」と聞かれ続けてきた10代の頃の私とは対象的に、事実質問で聞かれ続けてきた息子のような子どもは、相手が細分化せずに、ぼんやり聞いてくる質問にも、事実で答える、質問を確認する、クセがついているようです。

それは言葉を覚え始める年齢から始まるようで、事実で話を聞く訓練を重ねてきた人たちの周りの子どもたちにも共通しているようです。そうした子どもたちに、ついうっかりと「どう?」「なんで?」「みんなもそう?」「すぐ○○するね」などと言ってしまったとき、認定トレーナーや訓練を繰り返してきた講座参加者の周りにいる子どもたちは、私と同じような目に合い、子どものほうから質問されてしまうのです。
・「調子、どう?」というのは、今の状態?それとも朝学校に出かける前のこと?
・「宿題終わった?」と聞いてきたけど、今日は何と何が宿題にあって、そのうち今の時点で、何が終わって、何が終わってないかを聞いてくれたら答えるよ。
・「みんなもそう?」というけど、「みんな」ではないよ、Aさんと、Bさんだけだよ、
・「すぐ帰るね」って、「何時くらいに帰れそうってこと?」
という具合です。

どの子も、相手と事実で分かり合う癖がついています。まだ私の実体験と、認定トレーナーや講座受講者の声がちらほら聞こえてきただけの状態ですから、そういう子どもの数は多くはないのですが、大人の事実を聞く訓練の成果が、子どもからもわかります。


自分で考え、自分で解決策をみつける練習

「どうだった?」以外にも、「なんで?」「〜が好きなの?」「毎日〜しているんだね」「あなたの考えは?」「今の気持ちは?」といった「考え」や「感情」を聞く質問を繰り返しされても、子どもは、大人に忖度して答えることはできるようになっても、それらに的確に答えられるようにはなりません。

一方で、大人に事実で聞かれてきた機会が多い子どもは、生まれながら性格や能力といった部分に大きく頼ることなく、毎日の繰り返しで、知らず知らずのうちに、相手と事実で共通理解を得る力が鍛えられていきます。これは大人が事実を聞く質問で自らのメタ認知を鍛えているのと同時に、子どものメタ認知力も鍛えられている、と言えるのではないかと思います。

大人の質問に答える、子どもも質問する、大人もそれに答える、というこの対話の時間の長さが、そのまま信頼関係につながります。大人から聞かれる事実質問に答えていくうちに、子どもが自然とそのときの考えも感情も的確に伝えられるようになっていきます。

この普段からの積み重ねは、やがて子どもが何らかの問題に直面したときに、問題が生じた背景を事実で細分化し、細分化した部分のどこに解決策があるのか、自分で考え、周りの人からの助言を求めてゆくことにつながると思います。


子どもの話が聴ける大人を増やしたい

ムラのミライでは、大人も子どもも圧倒的に一般的な質問にあふれた環境のなかで、1人でも多くの大人が、子どもの話を事実で「聴ける」ようになるにはどんな方法がよいのか、試行錯誤が続いています。

そんな試行錯誤の一つが、コープともしびボランティア振興財団に助成いただいた「子どもの話を聴く技術 体験プログラム」です。
学童保育や子どもの居場所、スポーツクラブなど、子どもと接することが多い人にこそ、この「聴く」技術を身につけてほしいと思っています。90分の講座(オンラインと対面)、個別フォローアップ(事実だけで話を聞いてもらう体験もできます)、動画(マイクロラーニング)をセットになったプログラムです。この体験プログラムは、兵庫県の子ども支援者の方限定ではありますが、11月、12月にはオンラインで全国の子ども支援者の方たちを対象にした講座も予定しています。

引き続き、講座の様子や受講された方たちの声、事実質問をされた子どもたちのお話などもご報告していきますので、お楽しみに。 

原康子(ムラのミライ研修事業チーフ)

イラスト:Moto

2022年10月12日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(1)

ムラのミライは、来年2023年で30周年を迎えます。
正確に言えば、ムラのミライという名前に団体名が変わったのが2014年ですから、ムラのミライとしては来年で7周年、ちょうど人間の年齢でいえば、初等教育を受け始める頃の年齢に達した、そんなところでしょうか。
でも、それ以前の活動がなければ、現在のムラのミライもないわけで、そしてムラのミライが営々と培ってきたメタファシリテーションという技法も、その前史を含めるとざっと30年近い歴史があるわけで、やはりムラのミライは、団体として何度も変身を繰り返しつつ30年間活動を積み重ねてきたといえます。

というわけで、この30年という節目に、ムラのミライがどのように活動を始め、どのようにメタファシリテーションを生み出し、育ててきたかということをここで当事者の一人である私が振り返ってみるのも、創立者としての私の責任であり、また団体にとっても必要なことかと思います。

ムラのミライの30年を振り返ってみますと、ざっと3つの時期に分けられるかと思います。最初の時期が、いわば草創期。1993年から2003年までです。

この時期は、団体としては個人商店のような状態から組織としての体を漸く成せるようになったという時期であり、また私が、のちに中田豊一が方法論化したメタファシリテーションを現場での個人の技法として形成しつつあった時期です。組織としての体をなすというと少し大げさかなと思わないでもありませんが、この時期の終わり頃、1999年に「特定非営利活動法人」として法人化しましたので、一応団体として社会的に人格を認められた、法人として賃貸契約を結んだり、銀行の口座を開くことができたり、と、その程度のことができるようになりました。

この間、給与を取るような専従職員は私を含めて誰もおらず、今思えば、どうやって生活していたのか、活動を維持していたのか、よく分からないという時期です。2000年に初めてインドのプロジェクトのための現地駐在員を置くことができましたが、その給与といえばインドルピーで6,000ルピー(日本円にすると当時20,000円くらいでしょうか)。日本円では給与を出せなかったというところがミソですが、ともあれ記念すべき最初の専従職員の誕生でした。

第二期といえるのが、2002年から2014年まで、ODA(政府開発援助)からさまざまな形で資金を得つつ、ささやかながらも組織として発展した時期です。専従職員も増え、給与も日本円!で払えるようになりました。銀行から団体として借金ができるようになり、またその返済に苦労したりもしました。

この時期は、メタファシリテーションが方法論として中田豊一によって確立された時期でもあります。また、私と中田豊一と2人でフィールドワークをする機会も多く、方法論の確立とともにその発展も同時に進んだ時期でした。私が経験するフィールドも、ムラのミライ(当時はソムニードといいましたが)のプロジェクトだけではなく、数十億円規模の円借款プロジェクトやJICAのいわゆる技プロ(技術協力プロジェクト)に専門家として関わることで、知見を広げることができたこと、そしてメタファシリテーションの汎用性を確かめることもできました。実際、この時期の中田とともにした現場での経験がなければ、「途上国の人々との話し方」が2010年の時点で書けたかどうか、分かりません。

この時期は、「援助」という活動に対する考え方が決定的に変わった時期でもあります。最初の10年間は、「貧しい人々」を助けるという立場で活動をしていました。どんな活動かというと、モノを配る活動です。水がないと言われれば井戸を掘る、学校に行けない子がいると言われれば識字教室を開催する、ため池が必要だと言われればため池を掘る、などの活動です。しかし、私の現場での技術が向上するにつれて、のちにメタファシリテーションと呼ばれるようになる技法が開発されるにつれて、途上国の現場に対する見方、立ち位置も随分と変わっていきました。そして、「助ける、援助する」という立場から、「援助される」側の人々と共に共通の課題を解決するというものに変わっていきました。


第三期を特徴づけるのは、メタファシリテーションの系統的な普及の始まりと日本国内でのプロジェクトの開始、そして西アフリカへの進出です。

メタファシリテーションの講座は、2006年頃に中田が希望者に対して始め、メタファシリテーションの体系化とともにその教授法も発展させてきたものでした。その後、国際協力に関係する人々を超え、医療、教育など様々な分野の人々からも受講が増えるに従って、ムラのミライのスタッフや、中田に師事した人々の中からも講師として講座を担当するようになりました。その過程で、教授法、教材、課程も順次整備され、検定制度、認定講師制度も整備され、さらにはメタファシリテーションそのものも商標登録されるなど、望めば誰でも受講できる環境が整いました。

このメタファシリテーションの普及と一体となって、日本国内でのプロジェクトにも積極的に取り組むようになりました。高山に本部事務局があった時期にも、当時の国内スタッフの努力によって、地元で取り組む様々な試みがなされていました。企業とのコラボも行われ、その結果として「まちづくりスポット」というNPOが誕生し活躍しています。

これに対して、2016年以降の国内での取り組みは、プロジェクトの中に必ずメタファシリテーションの研修を取り入れていることです。また、メタファシリテーションの研修そのものをプロジェクトの目的として行うものもあります。その場合は、地域医療など個別のテーマを取り上げ、その従事者の現場で活かせる技術としてメタファシリテーションをトレーニングするという形式をとっています。

海外事業としては、2012年以降、西アフリカでの展開を目指して中田、和田が現地での調査を進め、信頼できるパートナーとなりうる現地NGOと出会えたことでセネガルでの事業展開を決めました。アフリカで新たに事業展開をしようとした第一の理由は、アジア(南アジア、東南アジア)とは全く異なる環境でのメタファシリテーションの汎用性の確認、第二は、これまで行ってきたマイクロウォーターシェッド(小規模水利系)のマネージメント、そして最後に土壌、水の保全を通した気候変動への取り組みの3点でした。

以上、駆け足でこの30年を振り返ってみましたが、この三つの時期にメタファシリテーションがどのように生まれ、そして現在のようなものとなったかを、これからその背景を説明しながらお話ししていこうと思います。

まず次回は、1992年10月に南インドのとある地方都市の空港に私が降り立ったところから。
           
和田信明(ムラのミライ海外事業統括)