2022年10月12日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(1)

ムラのミライは、来年2023年で30周年を迎えます。
正確に言えば、ムラのミライという名前に団体名が変わったのが2014年ですから、ムラのミライとしては来年で7周年、ちょうど人間の年齢でいえば、初等教育を受け始める頃の年齢に達した、そんなところでしょうか。
でも、それ以前の活動がなければ、現在のムラのミライもないわけで、そしてムラのミライが営々と培ってきたメタファシリテーションという技法も、その前史を含めるとざっと30年近い歴史があるわけで、やはりムラのミライは、団体として何度も変身を繰り返しつつ30年間活動を積み重ねてきたといえます。

というわけで、この30年という節目に、ムラのミライがどのように活動を始め、どのようにメタファシリテーションを生み出し、育ててきたかということをここで当事者の一人である私が振り返ってみるのも、創立者としての私の責任であり、また団体にとっても必要なことかと思います。

ムラのミライの30年を振り返ってみますと、ざっと3つの時期に分けられるかと思います。最初の時期が、いわば草創期。1993年から2003年までです。

この時期は、団体としては個人商店のような状態から組織としての体を漸く成せるようになったという時期であり、また私が、のちに中田豊一が方法論化したメタファシリテーションを現場での個人の技法として形成しつつあった時期です。組織としての体をなすというと少し大げさかなと思わないでもありませんが、この時期の終わり頃、1999年に「特定非営利活動法人」として法人化しましたので、一応団体として社会的に人格を認められた、法人として賃貸契約を結んだり、銀行の口座を開くことができたり、と、その程度のことができるようになりました。

この間、給与を取るような専従職員は私を含めて誰もおらず、今思えば、どうやって生活していたのか、活動を維持していたのか、よく分からないという時期です。2000年に初めてインドのプロジェクトのための現地駐在員を置くことができましたが、その給与といえばインドルピーで6,000ルピー(日本円にすると当時20,000円くらいでしょうか)。日本円では給与を出せなかったというところがミソですが、ともあれ記念すべき最初の専従職員の誕生でした。

第二期といえるのが、2002年から2014年まで、ODA(政府開発援助)からさまざまな形で資金を得つつ、ささやかながらも組織として発展した時期です。専従職員も増え、給与も日本円!で払えるようになりました。銀行から団体として借金ができるようになり、またその返済に苦労したりもしました。

この時期は、メタファシリテーションが方法論として中田豊一によって確立された時期でもあります。また、私と中田豊一と2人でフィールドワークをする機会も多く、方法論の確立とともにその発展も同時に進んだ時期でした。私が経験するフィールドも、ムラのミライ(当時はソムニードといいましたが)のプロジェクトだけではなく、数十億円規模の円借款プロジェクトやJICAのいわゆる技プロ(技術協力プロジェクト)に専門家として関わることで、知見を広げることができたこと、そしてメタファシリテーションの汎用性を確かめることもできました。実際、この時期の中田とともにした現場での経験がなければ、「途上国の人々との話し方」が2010年の時点で書けたかどうか、分かりません。

この時期は、「援助」という活動に対する考え方が決定的に変わった時期でもあります。最初の10年間は、「貧しい人々」を助けるという立場で活動をしていました。どんな活動かというと、モノを配る活動です。水がないと言われれば井戸を掘る、学校に行けない子がいると言われれば識字教室を開催する、ため池が必要だと言われればため池を掘る、などの活動です。しかし、私の現場での技術が向上するにつれて、のちにメタファシリテーションと呼ばれるようになる技法が開発されるにつれて、途上国の現場に対する見方、立ち位置も随分と変わっていきました。そして、「助ける、援助する」という立場から、「援助される」側の人々と共に共通の課題を解決するというものに変わっていきました。


第三期を特徴づけるのは、メタファシリテーションの系統的な普及の始まりと日本国内でのプロジェクトの開始、そして西アフリカへの進出です。

メタファシリテーションの講座は、2006年頃に中田が希望者に対して始め、メタファシリテーションの体系化とともにその教授法も発展させてきたものでした。その後、国際協力に関係する人々を超え、医療、教育など様々な分野の人々からも受講が増えるに従って、ムラのミライのスタッフや、中田に師事した人々の中からも講師として講座を担当するようになりました。その過程で、教授法、教材、課程も順次整備され、検定制度、認定講師制度も整備され、さらにはメタファシリテーションそのものも商標登録されるなど、望めば誰でも受講できる環境が整いました。

このメタファシリテーションの普及と一体となって、日本国内でのプロジェクトにも積極的に取り組むようになりました。高山に本部事務局があった時期にも、当時の国内スタッフの努力によって、地元で取り組む様々な試みがなされていました。企業とのコラボも行われ、その結果として「まちづくりスポット」というNPOが誕生し活躍しています。

これに対して、2016年以降の国内での取り組みは、プロジェクトの中に必ずメタファシリテーションの研修を取り入れていることです。また、メタファシリテーションの研修そのものをプロジェクトの目的として行うものもあります。その場合は、地域医療など個別のテーマを取り上げ、その従事者の現場で活かせる技術としてメタファシリテーションをトレーニングするという形式をとっています。

海外事業としては、2012年以降、西アフリカでの展開を目指して中田、和田が現地での調査を進め、信頼できるパートナーとなりうる現地NGOと出会えたことでセネガルでの事業展開を決めました。アフリカで新たに事業展開をしようとした第一の理由は、アジア(南アジア、東南アジア)とは全く異なる環境でのメタファシリテーションの汎用性の確認、第二は、これまで行ってきたマイクロウォーターシェッド(小規模水利系)のマネージメント、そして最後に土壌、水の保全を通した気候変動への取り組みの3点でした。

以上、駆け足でこの30年を振り返ってみましたが、この三つの時期にメタファシリテーションがどのように生まれ、そして現在のようなものとなったかを、これからその背景を説明しながらお話ししていこうと思います。

まず次回は、1992年10月に南インドのとある地方都市の空港に私が降り立ったところから。
           
和田信明(ムラのミライ海外事業統括)