2012年11月19日月曜日

水・森・土・人 よもやま通信 第2部 第5号「オラたちの仲間探し&理想と現実の農地利用」

 

目次

1. 新しい仲間の探索開始
2. キンチョーの初対面
3. 研修って、こういうこと
4. オラの村の変化
5. 理想と現実のギャップ
6. 笑顔の向こう側


南インドでの気候では、6月から8月までの本格的な雨期の後、10月下旬ごろから2週間程、短期間の雨期がある。
10月は稲穂に実が付き始める前で、十分な水分を土に溜める重要な雨。
だから全く降らないのも降り過ぎるのも困る。
今年は雨があまり降らない内に、10月になって急に気温が下がりだした。
気温20度前後で「なんか寒いねー」と言い合う頃、久しぶりに黄門さまがインドにやって来た。

1.  新しい仲間の探索開始

この通信に登場するG・T・B・P村の人たちは、よもやま通信第1部から、一緒に活動をしてきている。

自分の土地だけ何とかすればいい、というのではなく、村全体で水や土を守り、森を育てるという意識に変わり、それを実行してきた。
そして今、こうした活動を近隣の村々にも広げようじゃないか、と村の人たちが動き出したのが6月頃。
村から何人かが指導員になって、流域管理とはなんぞやという事を伝授し、一緒に水や土、森を守っていく仲間を増やしていこうということになった。

「どうやって、他の村を巻き込んでいきますか?」と、指導員14人に尋ねるラマラジュさん。
「村に行って説明したり、研修したりすればいいかと。」
「どうやって、その村を選びますか?」
「関心のある村?」
「どこの村が関心あるかないか、知っていますか?」
「たぶん、あの村とあの村と・・・」
「そうした村の人たちは、あなたの村で何をしてきて、何が変わったのか、ということを知っているのでしょうか?」
「いや、きちんとは知らないと思う。」

こうした会話を続けていき、「そうだ、オラの村で発表会を開こう」ということに。
何を言葉で説明して、何を見せて、どこに連れて行くのか、それぞれの村の指導員たちがああでもない、こうでもないと頭をひねる。
自分の村の模型を使って、お互いに意見を言い合い、「石垣を見せて、ため池に連れて行って…」と、コースも考える。

「ひとつ聞いても良いですか?」と切り出す筆者。
「ため池とか石垣づくり、植林、こうした作業は、この流域管理事業でなくても政府スキームとかでもしてますよね?それとあなたたちのした作業とは、何がどう違うのですか?」


ハタ、と動きを止める指導員たち。
そしてこの質問は、そのままズバリ、G村での説明会の時に参加した、他の村のオッチャンたちからも発せられたのでした。
G村の指導員4名は、その時にこう答えていました。

「政府スキームで同じように石垣を作るとき、あなたは何をしましたか?…そうですよね、ただ人足として石を運んで労賃をもらっただけですよね。僕たちもそうでした。だけど、ぼく達が流域管理事業で行った時は、自分たちで場所を考えサイズを測り、コストを計算して、作業を管理しながら実行したのです」
「それに、政府スキームはぶっちゃけ、お金をもらうためだけにやるだろう?だけど、オラたちの活動は、村で水不足や土砂崩れなんかにもう困らないようにするためにやったんだ。だから、川に沿った山の斜面にたくさんの石垣を作ったし、水源地にも植林をしたんだべ」


読み書きのできないオッチャンも得意げに話すと、説明会に来ていた村の人たちは、自然とこう頼んでしまう。
「オラ達にも、どうすればいいか教えてくれる?」


2.  キンチョーの初対面

7月から9月にかけて、G・T・B村でこうした場面が繰り広げられた。
そして筆者たちソムニード(現ムラのミライ)スタッフも指導員について行って、これから事業に参加したいという村々を実際に訪れた。
初めましての挨拶から、一緒に村の中を歩かせてもらっても良いですか?と許可を求めてから、彼らの案内に沿って、山の中を歩きながら色々と話を聞いていく。
それは、よもやま通信第1部第1号にも出てくるように、最低限必要なルールだ。
8月からインド駐在を始めたショーコにとっても、初めて体験する場面であり空気である。


発表会に来ていたのがオッチャンや青年たちばかりだったので、実際に村で会うオバチャンたちは、興味と警戒心の入り混じった顔で筆者たちを見つめてくる。
関係が築きあがったG・T・B・P村とは違う雰囲気のミーティング。
それでも指導員たちと村の人たちとの会話に加えてもらいながら1~2時間も過ごすと、オバチャンたちも陽気に話し出す。

「私たちも、研修を受けたいわー」ということになり、
「それじゃぁ、ぼく達(指導員)も準備ができたら連絡しますから、その時には研修日時と場所を、皆さんから言ってくださいね」と、指導員がそれぞれの場所で告げていった。

指導員たちは、こうして『関心のある村』を発掘しながら、同時に、「研修とは何か、指導員はどうあるべきか」といった研修も受けていっている。


3.  研修って、こういうこと

そして10月下旬、黄門さまの久しぶりのインド再来である。
2週間も前から、G村の青年リーダー・ガンガイヤは「何を聞かれるんだろう、僕は何を話せばいいんだろう」と緊張しっぱなし。
G・T・B・P村から指導員たちを含め、黄門さまに会いたいオッチャンオバチャンたちが人数制限の下集まり、そして彼ら指導員たちから研修を受けたいという5村からも、オッチャンたちがソムニードの研修センターに集った。


「みんなナマステ。G・T・B・P村のお前さんたち、久しぶりじゃな。」
「はい、お久しぶりです黄門さま!」
「新しくここに来ている村の人たちよ、ソムニードの研修を受けるときには、ただ座って聞いておればいい、というものではない。ここに来たら、脳みそを使わねばならぬ。いつも何かを学んで帰って行ってくれ」

新参の村人たちは、いったい何が始まるんだろう、とドキドキしながら黄門さまの話を聞いている。

「では、今からエクササイズをしてもらおう。G・T・B・P村のお前さんたちは、新しい村の人たちに何を教えたいのか、新しい村の人たちは何を学びたいのか、それぞれ50個挙げてごらん」

ニンマリする古参の村人たちと、おっかなびっくりの新参の村人たち。
うれしいことに、新参の村人たちも時間をかけて、50個書き上げた。

そして発表が済むや否や、黄門さまから繰り出される次のお題、
「その中から、まず指導しなければいけないこと10項目、まず最初に研修してほしいこと10項目を、選んでごらん」

ひきつった笑顔を浮かべながらも、新参の村人たちもグループで考える。

「指導員の人たちからまず学びたいことで、水をためること、土壌流出を止めること、マンゴーがもっと採れるようになりたい、土砂が流れてくるのを少なくしたい、石垣の作りかた・・」
「ちょっと待ってくれるかの。最初の土壌流出を止めることと、後で言った土砂が流れてくるのを少なくしたい、というのと、何が違うのじゃ?」
「え~っと、何が違う・・?」
「ワシにはあまり違わないように思えるがの?」
「はぁ、たぶん」
「もう少し考えてみぃ」

新参の村人たちは、発表会で聞いていた「成果」が頭に残っており、自然とこの活動を始めたら「土を守るんだなー」「水がたまるんだなー」と期待している。
中には、もう少しクリアに意見を言う村人もいるけれど、黄門さまは筆者たちに対して、「ここがボトムラインじゃよ」とも見せてくれているのだ。
そして、G・T・B・P村の村人指導員たちに対しても、「どういう順序で指導していけばいいのか」を考えさせた。

「こうしてお前さんたちは研修を受けていくわけだが、本当に指導員たちから研修を受けたいんじゃな?」
と新参の村人たちに対して聞く黄門さま。
同じように、「お前さんたちも、指導していきたいんじゃな?」と指導員たちに尋ねる。

どちらからも、意気揚々とした声で「もちろんです」という返事が返ってくると、黄門さまは「後はわかるの?」と筆者たちに言い残し、連日のおもてなしインドご飯で膨れたお腹を抱えて、ヒマラヤの国ネパールへ戻って行った。

黄門さまが去ってから、本格化していく指導員研修。
「教えるのではなく考えさせる」ためにはどうすんべ、とまずは自分たちの頭を使わなければならない指導員。

その前に指導員に研修をする筆者たちは、指導員たちの顔を思い浮かべながら
「こういうお題でエクササイズしてみる?」
「いやいや、その前に前回の例を使って軽くウォーミングアップだ」
と、筆者たちも頭を使う毎日。
指導員たちの可笑しくも目を見張る成長の様子は、また次回。


4. オラの村の変化

そして、前号で少し触れた「オラ達の農業」。

この通信に登場するG・T・B・P村で農業をするという時、水田、乾地、山の斜面に切り開いた畑、そして家の周りでのキッチン・ガーデンや果樹園、これらが主な農地である。


自分たちで今、何をどこでどのように耕作しているのかを、自分たちで調べたのが今年4月から6月にかけて。
そしてその過程において、どんなつぶやきがあったのかは第4号をご覧いただきたいが、併せて調査した他の項目についても、その結果についてみてみることに。
実は2008年にも同様に、世帯数や家畜数、耕作地の面積なども調査していた。
筆者の予想通り、見事なまでにそれを忘れている村人が多いのだが、嬉しいことに1人か2人は覚えているもので、当時のオラの村事情とも比較してみた。

「農耕用の牛の数が減ってるなぁ」
「でもヤギの数は増えてるよ」
「農耕用の牛は世話がかかるだけだしねぇ」
「ワシは放牧を担当してるけど、乳牛はよく走り回るから見てるのが大変なんじゃ」
「収入は増えてるけど、モノの値段が上がってるから、生活が楽になったって気はしないよねー」

「なんか、土地の面積が変じゃない?」
「う~ん、あの時は土地登録しているところしか、確か取り上げてなかったような気が・・」
「しかしこうやって見ると、調査って変化が分かって良いもんじゃな」
「また5年後に同じように調査すんべ。その頃はどうなってるんだろうの」

と、老若男女それぞれに発見をし、より正確に記録を取ってこれからの研修に使えるよう、G村やB村は土地の面積を調査し直すことにもなった。


5. 理想と現実のギャップ

そして、家畜の餌や薪に使う植物を、今現在、どこから採っているかについても、村の絵地図を使って確認する。

「あなたたちがよく放牧したり利用している植物、山のどこから採ってきているのでしょうね?」

薪と農耕用の牛が好む餌について、やはり調査の時にランキングを行ったのだが、そのトップ10の種類をどこから採取しているのか、山から集落まで描いた簡単な絵地図に落としている。


それを見ながら尋ねる筆者。

「はい、水源地付近から採ってます」と威勢よく答えるG村のオッチャン。
「隣の村の山まで行って、放牧してるのよ」と、絵を見ながら答えてくれるオバチャン。
「あれ?みなさんは、水源地や山の中腹はどうあるべきだって言ってましたっけ?」
「頭の髪の毛のように、山のてっぺんの水源地は木に覆われて、人間や家畜に荒らされず・・・・うふふふふ」
と最後まで言い終わらずに苦笑いするニイチャン。
「だって、まだ苗木は育ってないし」
「だって、植えても隣村の人たちに焼かれたり抜かれたりするし」
「だって、他に牛を連れて行くところないし」
と、口々に理由を告げる。B村でもT村でも同様である。

「だけど、流域管理事業をしてきた僕らは、やっぱり水源地を荒らしちゃダメだし、薪や放牧はもっと集落に近いところから採るべきだ」と、G村の若き青年リーダー・ガンガイヤは、他のオッチャンやオバチャンたちに、身振り手振りを使って説明する。
「そうよねー。アタシも、山の上まで行って薪を取ってくるのはホントしんどくて嫌なのよ。山の上まで行くと1日仕事だけど、麓のあたりだと半日もかからない。薪集めの時間が短くなると、他の作業ができるのよ」と、オバチャンが力を込めて主張する。
「もっと麓や集落付近で、家畜の餌も薪も、採って使えるようにしたいわぁ」というオバチャンたちのつぶやき。

よもやま通信第1部にでてきていたオラたちの村の未来予想図は、「どのように自然資源を守るか」という視点が強かったが、これからは「守りつつどう使っていくか」という視点から、村の将来像を描いていく。

このオバチャンのつぶやきもまた、その村の将来像に落としていくのだが、それはもう少しオッチャンオバチャンたちが脳みそを沸騰させてから。


6. 笑顔の向こう側

こうした作業をしている中、村を歩き回っていろいろ観察していたインターン生、チンナ・キョーコ

「あのぅ、私気づいたんですけど、B村はたくさんのお家で家庭菜園をしてるのに、G村はほとんどしていませんね。」
「そうなのよねぇ。G村は家の周りに場所がないから、二軒ほどしかしていない。場所がないから栽培できない、と思っているんだよねぇ」
と、村のオッチャンオバチャンたちが、彼ら独自の言葉サワラ語でワイワイ議論している傍らで、和やかにやり取りするチンナ・キョーコと筆者。

「あぁ、だからガンガイヤさんが空間を利用した家庭菜園というのをして、あんなにステキな笑顔を見せていたのですねぇ」
このガンガイヤのステキな笑顔は、ソムニードのフェイスブックにもアップしてあるのだが(2012年7月20日記事)、地面(平面)に場所がないなら、空間を利用して野菜を育ててみようと、彼だけがトライしているものである。


他の村のオッチャンオバチャンもこうした栽培には興味はあるものの、腰が引けてすぐに行動に移すのは難しい。

こうしたキッチン・ガーデン含め、乾地、山肌の畑、水田で、自分たちが食べていける農業が、そして放牧や薪の採集の理想を現実にした土地利用が、これから進んでいく。
つまり、森を中心に土や水を守りつつ、農地でそれらをうまく使っていく、そんな村の絵が、オッチャンオバチャンたちにも、おぼろげに見えてきた。

前号で予告していたこれからの村の計画図は……また今度。
よもやま通信第2部が始まって約1年、今まで村のオッチャンオバチャンたちがしてきたことは、こうして次なる展開へとつながってきた。
指導員として流域管理をしていく仲間を増やしていくのと、自分たちの農地利用の改善と、ますます多忙になるオッチャンオバチャンたちだが(そして筆者たち‥)、今後の山あり谷ありを楽しみにしていただきたい。


注意書き

黄門さま=ソムニード共同代表の和田信明。現在ネパールに駐在し、親方としてバクマティ川再生プロジェクトに取り組む。今回は約1年ぶりのインドへの里帰り。

ラマラジュ=ソムニード・インディアの名ファシリテーター。よもやま通信第1部でもおなじみ、事業に欠かせないスタッフの一人。

筆者=前川香子。プロジェクト・マネージャーを務めるが、いまだに事業名が長すぎて覚えられない。

ショーコ=池崎翔子。まだインドに来て数か月。体験することすべてが新鮮なその眼を通して書いたエッセイ、「インドつれづれ」もどうぞご覧ください。

チンナ・キョーコ=松本京子。ソムニード関西事務所のインターン生。筆者と同じ名前のため、インドでは「チンナ(=ジュニア)キョーコ」と呼ばれ、ラマラジュからも、体力には合格点を付けられた。インターンの日々についても、「インドつれづれ」で掲載予定。

フェイスブック=ソムニードのFacebookページ。よもやま通信では書ききれない、研修の一コマや日常風景もアップしています。フェイスブックのアカウントが無くても見られます!

2012年10月8日月曜日

水・森・土・人 よもやま通信 第2部 第4号「西ベンガルへの視察の旅」

 

目次

1.  オラ達の農業
2.  西ベンガルへの視察の旅
3.  質問する人、答える人
4. その活動は何のため?誰のもの?
5. 旅の後


前回のよもやま通信発行から、またまた半年ほどが経ってしまい汗顔の至りだが、汗ばかり流していても仕方が無い。それに、無駄に汗をかいていたわけでもない。47度近くまで気温が上がる「岩が割れるような暑さ」と暦上でも呼ばれる5月末の2週間を乗り越え、ひと月も遅い雨季を待ち続けて田植えをし、人力では何ともしがたい気候と折り合いを付けながら、筆者たちは、村の人たちと研修に次ぐ研修を行っていた。

今号では、その中でもつい最近起こった、村の人たちの目覚ましい成長ぶりをご紹介しよう。

1.  オラ達の農業

ひとまず時は半年を遡る。
4月頃から村の人たちは、「オラ達の村ではどんな農業をしてるンだ?」と、調査を行っていた。

過去3~4年間に渡って、村の人たちは森や水、土といった自然資源を再生し、保存しようとさまざまな活動をしてきたが(詳しくは、よもやま通信第1部をご参照ください)、今は保存していくのと同時に、上手く使い続けていくにはどうすんべ、と考え始めている。

より視覚的に分かりやすく考えてみようと、山の畑地から低地の水田まで、いつ何の農作物を栽培しているのか、放牧地はいつどこの場所を集中的に使っているのか、薪や水の利用状況はと、様々なイラストや地図を使って、まずは現状について村の人たちと共通の認識を作ってきた。

その過程で、P村、G村、T村、B村の人たちが様々なことに気が付いた。
「10年くらい前には作っていたさとうきびも、今は水不足で作れなくなったなぁ」とP村のおじさんが遠い目をし、
「あれまぁ、アタシ達の村では野菜をほとんど作ってないのね…。えぇ~!ということは、みんな買ってきてるんだ。これを自分ちでも作れるようになったら…」
「でも、家同士がひっつきあってるから裏庭栽培はできないし」と、G村の人たちは「野菜作りの場所がない」と言い合い、
「オラ達の村の水田、半分以上は小川から自然に水を引いてるけど、途中で畦が壊れてたりして、時々無駄に水が流れ出してるんです。だけど、よその村の部分だから自分たちじゃ直せないんだよねぇ」
「で、雨を待つしかないんだけど、結局降らないと、稲作ができなくてお金が入ってこないんだよねぇ」と、B村はのんびりと困った顔をする。
各村で、さまざまな発見があり、つぶやきがあった。


そして、この事業では有機農業の専門家としてお世話になっているインド人専門家、チャタジー氏が、コルカタから電車ではるばる12時間かけて村までやって来て、村の人たちと調査途中を共有したのが7月。

「そこに生えてる葉っぱは、イモの葉っぱじゃないですか?」と、村の中を歩きながらおもむろに尋ねるチャタジー氏。
「そうですよ。」
「だけど、この調査の中の栽培作物とか収集作物には入ってないですね?」
「だって、勝手に生えているだけですから。」
「じゃぁ食べない?」
「時々食べますけど、そんなに頻繁に採って食べるわけではないです。でも美味しいですよ、チャタジーさん」と、にこやかに答えるG村のオジサン。

調査の中で、自分たちで植えた木や作物で収集するというのは「定期的に」という感覚があった村の人たち。そして、さらにつぶさに見ていくと、畑でも庭でも「場所があったら植えまくる」という栽培スタイルになっている。つまり、読者の多くが見慣れている日本の畑のような『種類ごとに畝が整備され、栽培されている』という畑とは真逆の光景なのだ。

大抵の作物の種は、雨季が始まる頃に数種類まとめて一度にバッーと蒔かれるが、収穫時期は作物によってまちまち。チャタジーさんが、
「水が少なければこんな栽培方法があるよ」、「AとBを組み合わせて植えると良い」、「この土地は水田っていうけど、ほとんど乾燥地だよね」と、色々なアドバイスをくれる。

そうすると、「そんな農業をしているところ、ボク達も見てみたいなー」という、村の人たちの声がちらほらと聞こえ出す。


2.  西ベンガルへの視察の旅

そうこなくっちゃと筆者達がチャタジー氏とアレンジしたのが、気候や土壌の質が良く似ている西ベンガル州西部の村への視察研修。


夜行列車で約12時間北上し、世界一長いプラットホームを持つという駅で3時間ほど次の電車を待ち、更に3時間ほどまた電車に揺られて西に向かい、アドラという駅まで約18時間の旅だ。

視察研修も普段の研修と同様に、ソムニード(現ムラのミライ)は参加できる人数だけ告げて、村の人たち自身が参加者を選出する。基本的に、記録付けとして各村から1~2名は読み書きできる人が参加するが、読み書きできない人が参加する事も、ソムニードは拒まない。

そして視察に行く前の事前研修。

「みなさんが行きたいと言っていた視察研修、西ベンガル州のアドラという町になりました」とソムニード・スタッフが告げると、
「えっ、アグラ??タージ・マハルが見られるの?」と勇み足になる村の青年。
「ちがいます。アドラです」
明らかに落胆する青年を横目に、視察先で何を学ぶのか、目的を明確に設定する参加者15名。

そうして、雨季で少し涼しいアーンドラ・プラデシュ州北部から18時間かけて、蒸し暑い西ベンガル州西部へと、村人達15名とソムニード・スタッフ5名の総勢20名の視察研修が始まった。


3.  質問する人、答える人

西ベンガル州西部のプルリア県という、山岳少数民族が多く住む地方でいくつかの村を視察する事になった参加者達。


複数の作物を畝で整備して栽培する「混合栽培」や、村で保管している穀物を個人に貸し出す「穀物銀行」、堆肥づくりといった農業に関することから、ため池の管理や魚の養殖、植林など、水土保全に関することまで、1日2~3か村を訪れて学んでいく。

大抵の村は、参加者の村と同じように10数世帯から40数世帯と小さく、彼ら独自の山岳少数民族の言葉を用いている。視察中、質問するのはG・T・P・B村からの参加者たちで、ソムニードは彼らの質問を英語に訳すのみ。それを、視察受入先団体のスタッフがベンガル語に訳し、相手の村の人たちが答える、というやや長い通訳事情となる。と思ったら…、

「いつ、この作物を植えるのですか?」
「雨季が始まった後です」
「この種はどこから入手するのですか?」
「自分たちで集めることもあれば、農業局から購入する事もあります」
「この作物はいつ収穫できますか?」
「これは11月…ですね」
「収穫した後、この空いたスペースはどうするのですか?」
「次の作物を植えます」

矢継ぎ早に、質問を投げかける参加者たち。そして、答えるのは相手側NGO団体の職員。
時々確かめるように、相手の村の人たちに質問する。相手の村の人たちは、ただにこやかにNGO職員の背後に立っているだけだ。
苗床でも、ため池の整備でも、魚の養殖でも、参加者達は
「いつ、どこで、誰が、どれだけ、いくらで、」と、具体的に質問をしていく。

普段、筆者たちソムニード・スタッフが研修で聞いていることそのままに、参加者達が相手の村の人たちやNGO職員に対して聞いていた。

『自分たちが見せたいモノを見せる』ツアー感覚でいた相手側NGO職員は、参加者達からの逃れられない質問に冷や汗をかきつつも、『これが視察研修というものか』と驚いてもいたようだ。


4. その活動は何のため?誰のもの?

植林現場は、参加者達が山で行う植林とは違って平地で行われており、等間隔で苗木が育っている。3年前に植えたという木はすでに人の背丈ほどにもなっている。


「この木は何の木ですか?」
「野生の蚕が住みつくための木です」
「どこから苗木を手に入れましたか?」
「私達(NGO)からの支援です」
「1年目に植えたということですが、2年目は何をしたのですか?」
「枯れてしまったり根付かなかった苗木を植えかえる作業をしました」
「その苗木はどこから?」
「私達(NGO)からの支援です」
「今年は何をしましたか?」
「新たに苗木を植えたり、苗木と苗木の間に豆類を植えたりしました」
「それは、どこから手に入れましたか?」
「私達(NGO)からの支援です」
「村の人たちは、いつまで、NGOに頼っていかねばならないのですか?」
「・・・・・」

声を失くすNGOスタッフと、とまどった顔の相手の村の人達。

「ほほ、ワタシが今聞こうと思っていた事を聞いてくれましたね」と、チャタジー氏。

ため池整備やその他の果樹園植林でも同様に、村がどうあるべきなのかを、相手の村の人達やNGOに考えさせる質問をする参加者たち。

「この果樹園の土地は誰のもので、だれが整備をしたのですか?」
「3人が所有者で、残りの村人達が整備したり苗木を植えたりしました」
「収穫物はどうなりますか?」
「30%が所有者に渡され、70%を残りの村人たちで分け合います」
「ずっとそうしていくのですか?」
「25年間、土地を借りるという約束事になっていますので、25年間はそうなります」
「その後は?」
「土地は今のように村人たちが使えず、すべての収穫物は土地の所有者のものだけになります」
「つまり、労働力のみを提供し続ける、ということですね?」
「・・・・・」


5. 旅の後

2007年8月に、ソムニードと一緒に活動を始めてかれこれ5年。

自分だけ、今だけ、水があったら良い、果実が採れたら嬉しい、収入を増やしたい、というような願望から、村全体の現状と将来のことを考えるようになり、行動に移して来たG・T・B・P村の人達。

今回の視察研修に参加した15人の内13人は、これから指導者として、新しい村へ「村全体で水や土や森を管理していくにはどうすればいいか」ということを教えていく立場でもある。

期せずして、視察研修という場で将来の指導者たちが、何をどれだけ理解しているのかを見る事ができた筆者達。

親ばかのように「ガンガイヤが、こういう質問をしてたよね」「モハーンも穏やかにするどいツッコミ入れてたよね」と、視察中もその後も、筆者達は参加者達の成長ぶりを思い出しては語りあっていた。予想外の収穫物を得た、今回の視察研修だった。

そして、視察研修を終えたら待っているのが、「それじゃぁオラ達の村ではどうしていくべ?」という今後の計画。
今度は、筆者達が参加者達へツッコミを入れていく番だ。

次号では、4月からの調査内容の事も交えつつ、村のオジサン・オバチャンたちの、これからの村の計画図をご紹介しよう。


2012年4月26日木曜日

水・森・土・人 よもやま通信 第2部 第2号「オラ達の村の水と土」

 

目次

1.  ため池?それとも運動場?
2.  溜まった土、流れてきた土

1. ため池?それとも運動場?

前号では青々とした稲が水田で風に揺らいでいる長閑な風景を紹介したが、その後、結局雨は1滴も降らないまま、稲刈りの季節を迎えた南インドの農村部。
水田は乾き、土が割れ、穂に実はつくものの大きくならず、通年より1カ月ほど早々と村人たちは稲を刈り取った。
中には刈り取らずに牛に食べさせた村もあったほど。
インド全土では降雨量は平年以上にあったというものの、アーンドラ・プラデシュ州沿岸の農村部では、昨年の雨季の降雨量は平年以下だった。
というより、全く降らなかった。

村は乾ききっている…ような印象を受けるが、ここで2つの対照的な村を紹介しよう。
もちろん、この通信の舞台となっている村である。

P村は48世帯で、低地にあり、他の村に比べても政府スキームを多く活用し、労賃をせっせと稼いでいる。
村には2つの大きなため池があり、その内1つは、2年前に貯水量を増やしたり水門を築いたりと整備を施した。
そのため池も2011年9月下旬にはほぼ満水だったのに、10月下旬にはもうすっからかんとなってしまった。
すっかり水の上がったため池には、バレーボール用のネットも張られて、一見すると運動場でも作ったのか?と見間違えてしまう。


ため池の水を何に使ったのか質問すると、村人曰く、
「10月にまた雨が降るかと思ってたし、ため池に水はあるし、二期作ができるかなぁと皆で田んぼに水を引いてみたら、雨が降らなかったんだよね」
別の村人曰く、
「お前が勝手に水門開けて、水を引いたからだろう」

結局、P村の今年の米は、平年の半分ほどしか収穫できなかった。
しかし、お米からの収入の損失部分を埋めるかのように、政府スキームを使って石垣を作ったり道路整備したりして、ある程度の現金収入を得ている。

G村は28世帯、山の高地にあり、この半年で麓からの山道を整備して、オートリキシャ(小型自動三輪車)も楽々通行できるようになったが、それまでは自転車さえも走れないほどのデコボコ道だった。
この村にはため池が一つあり、ため池を南北に挟むように水田地が広がっている。

前事業が終了した後、G村の人たちは自分たちで魚卵を購入し、養殖を生業とする近隣の村で数名が養殖のイロハを習い、4種類の魚をこのため池で育てている。
ちゃんとG村の人用とそれ以外の人たち用に、販売価格を分けていて、これら収益はすべて村の流域管理委員会に納めている。
G村も2011年9月下旬頃はほぼ満水で、その後雨が降らなかったにも関わらず、2012年3月までため池の半分以上は水が残っていた。

村人曰く、
「魚がいるから水が枯れてはいけないし、二期作を初めて実践しようかという話も村で出たけど、今年はまだ挑戦する時期じゃないって、決めたんです。でも、稲刈りの後にもう一度、土が湿る程度に田んぼに水を放流して、全ての土地でひまわりを咲かせようってなりました。見た目もきれいだし、種は油で売ることができますからね」


G村はP村に比べても穂の実りは大きかったが、収穫量はやはり例年の6割ほど。
そして2012年3月、村の田んぼ一面にひまわりが咲いた。

県内一帯を見渡すと、昨年末以降、P村のようにほとんどのため池は干上がり、たくさんの運動場が広がっているような光景が「当たり前」である。
G村は魚がいたからある意味「手をつけずに置いた」だけで、幸運にも稲作後の農作物にも水が使えたのだ。
(通常、この地域では、稲作後にゴマやひまわり、緑豆等を栽培する)

両方の村ともに、ため池の整備はしていても、溜まった水をどうやって使っていくかという計画まではしていなかった。そもそも整備した時点では二期作なんて考えはなかったのだ。

村の人たちの思い込み、あるいは期待として、雨季は毎年決まった時期(6月から9月と10月下旬頃)にやって来て、たくさん雨が降ってくれる、というものがある。
しかしながら、よもやま通信第1部の6月や7月発行号を読み返してみても、毎年、村の人たちは雨が降らないと空を睨み、政府のお偉いさん達は雨乞いの儀式をしている。
もし「雨季はいつからいつまでですか」と聞けば、「6月から9月までです」と村の人たちは答える。
しかし、去年は?2年前は?3年前は?と聞いていけば、順調に6月から9月まで降った年などないことが明らかである。


天候をコントロールすることはできないが、水の使い方、言いかえれば農業のシステムを見直せば、少ない雨量でも必要な収穫量を確保することはできるかもしれない。
そしてやっぱり今までと同じように、水源地や山の中で、水や土を流し出さずに溜めていくという作業も継続していかなければならないのだ。
村のオッチャンオバチャンたちも、うすうすと、気付き出している。


2. 溜まった土、流れてきた土

水について悲喜こもごも起こっていた傍ら、村のオッチャンオバチャンたちは、前回事業で作った石垣(土壌流出を止める役割)やら堰堤(水流を弱める役割)やら苗木やらの、モニタリングのやり直しを始めていた。
水土保全のために設置した設備をそれぞれ見ている内、例えば川に作った堰堤では、
「土が溜まってて凄い。やった?」という人と、
「これだけの土が流されて来ていて大変」という人と色々だ。
堰堤の設備そのものをチェックするだけでなく、溜まった土もその厚さを見ることで、水源地付近からの土がそれだけ流れ出している、という状況を、感覚ではなく見て実感できる。

そしてひとつ一つ村の人たちが再モニタリングして気付いたこと。
「同じ川に作っても、堰堤が埋まりそうなくらい土が溜まっている所と、全然溜まっていない所がある」
そこで今度はソムニード(現ムラのミライ)が一つ一つ聞いていく。
「土が溜まっている堰堤と溜まっていないのは、それぞれどこにありますか?」
「その山の斜面には何がありますか?何が植わっていますか?」
「山の斜面に石垣があるのなら、石垣の役割は何ですか?」
こうした質問を重ねていって、一つの状況を発見した村人たち。

「石垣を作っていない山の川ほど、土がたくさん流れ込んできている」

そして、ここでもう一度、石垣や堰堤の機能について、絵を描きながら聞いていくと、一つの活動が生まれてくる。

「あぁそうか、土がたくさん流れ込んできている川の斜面に、石垣を作った方が、川に流れ込む土が少なくなるのか」

脱穀などの作業が終わり、乾季が始まった時期を利用して、川に土が流れ込まないための短期アクションプランを作って、石垣と堰堤の設置を行うことにした村の人たち。

「アクションプランって何だっけ?」という反応を、意地悪くも少し期待していた筆者だったが、さすがに「アクションプラン」という言葉にも慣れてしまっている村のオッチャンオバチャンたちで、
「はいはい、アクションプラン、作りまっせ―」と、場所を選定したら、予算作りも含めてさっさと表にまとめてしまった。

今回から少し違うのは、予算の何割かを村の流域管理委員会が負担すること。
そして3月までに、アクションプラン通りに石垣と堰堤の設置が完了した。

苗木はどうなったか?
山の岩だらけの斜面に植えた場所は、苗木が育つまで、豆や雑穀の畑作を行っているが、B村では、豆のツルが苗木に絡みに絡まって、見るからに成長を妨げている。

「だって、豆を食べるんだもん」と、はにかむ村の青年。脱力する筆者たち。

前回事業では、初めて自分たちの森から採集した種や根を使って植林したが、結果からして生存率はあまり芳しくなかった。
水源地付近は、近隣の村の野焼きの火が燃え移り、植えた苗木もほぼ焼かれてしまった。


ただ、山の中腹エリアでは苗木もすくすくと育っており、すでに子どもの背丈くらいになっているものもある。

「だけど、石垣より上の斜面に植えた苗木は、他の場所の苗木よりも、成長具合がとても良いですよ」
と、それぞれの村の人たちが発見している。
はてさて、この結果を踏まえて、これからどうするか?
再挑戦を始めよう。

水・森・土・人 よもやま通信 第2部 第3号「オラが村の調べ物」

 

目次

1.  最初のステップ
2.  調査と未来のお嫁さん
3.  生物多様性、名前もいろいろ

昨年度の雨が少なかったせいで、今年のカシューナッツやマンゴーの花の付き具合がよろしくなかったアーンドラ・プラデシュ州農村部。
花があまり咲かないということは、実もならないということで、村の人以上に筆者も困ってしまう。
45度を超える暑さが続く夏を耐え抜くためには、マンゴーが必要不可欠。どうなることやら。


 

1.  最初のステップ

さて、段々と昼間の研修は受けづらくなってきたこの季節、村の人たちの頭と身体にしっかりと刻み込まれた「流域」という概念だが、村の人たちも気になりだした「次のエリア」。
「流域って何ですか?」
と問うと、身体を使って説明するのが、村の人たちの定番。
「トップゾーン(水源域)は頭で、だから髪があるように木が必要になります。胸からお腹にかけてがミドルゾーン(集水域)。腰から下はローワー(lower)ゾーン(裾野)で、足の方は田んぼになります。この頭から足の先までを流域と言います」

「今まで皆さんが行ってきた流域での活動は何で、どこで行ってきましたか?」と問うとアレやコレやと口々にする。
そして次の質問を待たずして声にする村の青年。
「だから、後は『足』の部分で何かをしなければいけないと思います」

「何かって何?」と聞くソムニード(現ムラのミライ)スタッフに、
「さぁ・・?」と首をかしげるオニイチャン。

「2007年にソムニードとJICAと、この流域管理事業を始めた時、皆さんはまず何をしましたか?」
「植物図鑑を作りました」
「いきなり図鑑を作ったの?」
誰が村に来て、何をしゃべって、どこを歩いて、とひとつ一つ思いだしていくと、
「そうだ。自分たちの村に、どんな植物があるのかを調べたんだ」
そしてそこから、何が村にあってどんな状況にあるのかを知って、アクションプラン作りになったんだ、と嬉しそうな村の若者達。
するとすかさず発言する、頼もしいG村の青年リーダー、ガンガイヤ。
「次も、足の部分にあたる所に何があるのかを、まず調べないといけないですね」
「何って、田んぼだべぇ」というオッチャンに、若者たちが反応する。
「田んぼに何を植えているか、ということ?そもそも村の田んぼの面積はどれだけあるのか、僕は知らないなぁ」
「田んぼ以外にも、裾野から下の方にはため池があって、家があって、お寺もあるし、畑もあるしなぁ」
「家畜もいるから、家畜についても調べたらいいんじゃない?」
「そしたら、牧草地も入るのか?」
(お、良いところに目をつけた!)と心の中で拍手する筆者たち。
「いやいや、牧草地は裾野のゾーンじゃないし」
(お、ちゃんとゾーンのことも考えてる!)と感心する筆者たち。
あぁだこうだと調査項目を決めていく村の人たち。
確かに、牧草地は山の中腹にあったりするけれど、これから取り組むべき課題でもある。
但し、この時点では村の人たちに、とことん話をさせて、こちらから「この事を調べましょう」とは言わない。
言わなくても、「裾野にあるモノ/そこで今活動していること」から外れずに考えていけば、すでに植物調査を経験している彼らのこと、筆者たちが考えていることとそう大して違いは出ない。
ただ、そこから何を気付けるか、という過程にソムニードのスパイスが加わる。
(そこが筆者にとっては重責なのだが…)


そして決まった調査項目。
村の世帯数、人口、その内何人が、出稼ぎやら寄宿学校やらで村の外に出ているのか、家畜の数、といった基本的な項目から、家族ごとで政府スキームに2011年度に何日間従事したか、毎月の配給制度で受け取る品物や量、田畑・果樹園の耕作面積なども、調査担当の村人が家を廻って記録することに。
村全体で集まって調べるのは、栽培作物(自家消費作物と換金作物)、採集作物、耕作地別の農作業カレンダー、水の利用状況、放牧状況など。


2.  調査と未来のお嫁さん

世帯ごとに聞いて回る調査は、フォーマットも村の人たちで決めて、担当者が各家を廻る。
日本の農村地と違って、隣りの家まで数十メートルということはなく、長屋のごとく家が隣接しているのが南インドの農村地。
各家を廻るのもそう時間はかからない。
数日経って、調査をしたのか、どのように調査をしたのかを知るために、P村に行った時に、その辺のオバチャンをつかまえた。


「ナマステー。最近、何か調査をしてるらしいけど、あなたの家には誰か来たの?」
「あぁ、配給カード更新のための政府の調査のことかい?」
「あら、そんな調査もやってるのですね。それとは別に、あなたの村の人も調査をしてるらしいのですけど。」
「あぁ、もしかして、チャンドラヤのことかい?そういえば家に来たらしいね」
「あなたはその時いましたか?」
「いや、いなかったけど、うちのダンナから聞いたよ。家族構成とかその内何人がこの家に住んでいるかとか、牛が何頭いるか、鶏を飼ってるかとか、あと、田んぼや畑の面積を記録するからってことで、帳面も見せたらしいよ」
「そうなんですか。ダンナさん、ちゃんと話をしてくれるのですね。良いですねぇ」
「っていうか、こうこう答えたけど合ってるよな?って確かめてきたのよ。うちのダンナは家の事を知らなかったりするからねぇ。あはは」
そして別の日。
T村で、すでに記録された調査フォーマットを見て、記入漏れなどが無いか確認していると、ある世帯の調査表で不思議なことを発見。
「あれ、ブッチャイヤさんってもう結婚されたのですか?」と近くに居たオッチャンに聞く。
「いや、まだじゃのう?」
「でもここにお嫁さんらしき人の名前がありますよ?」
「この間、結婚する事が決まって相手の家族に会ってきたとは聞いたけど、よっぽど気に入ったんじゃのう」
え、そういうこと?と首を傾げるソムニード一同。



(T村の調査担当者を捕まえて)
「ブッチャイヤさんの家には、このお嫁さんはもういらっしゃるのですか?」
「いや、まだです」
「じゃぁどうしたら家族構成に記入できるのですか?」
「ブッチャイヤが、書いてくれって嬉しそうに言うから・・・それに、もうすぐホントに結婚するし」
何じゃソリャ、と脱力する筆者たちを代弁するかのように、
「そしたら、将来の子どもの名前も書いとけー」
と別の青年がツッコミを入れてくれる。
苦笑いしながら担当者は
「もう一度ブッチャイヤの家の調査票を作り直します」
とスゴスゴと去っていった。

似たようなことが、政府が実施する調査にも当てはまる。
P村のオバチャンが言っていた「配給カード更新のための調査」等で職業について聞かれると、あまり村の人は「農業/農家」とは答えない。
お役所に雇われて町から来る人は、パリッとしたシャツにズボンを履き、サングラスをかけてバイクに乗ってさっそうと村に入ってくる。
そして椅子にデーンと腰掛けて、いきなり調査を始める。


村の人たち(特に青年たち)の中には、そういう「外から来た一見さん」に対して少しでもカッコ良い姿を見せたくなるものなのか、職業に「Land Developer」と答えていたりする。
そして調査担当者も何の疑いもなくそのまま記入する。
畑を耕すのも土地開発か?と微笑ましく思ったりもするが、そうした記録を見ただけでは、「P村にはLand Developerが15人もいる」のか、スゴイなー、となってしまう。

調査ひとつにしても、正確な情報を知るためには、村の人たちと関係を作ることから始まる様々なプロセスが要るのだ。


3.  生物多様性、名前もいろいろ

そして村全体で農作業カレンダーなどを調べる作業を始める前に、

P村、G村、T村、B村から何人かが集まって、調査方法や書き込み方などの準備をした。
彼らの中には、山岳少数民族のサワラ語という言葉でしか知らない植物もあり、また、同じサワラ語でもG村とB村では微妙に違っていたりする。
P村はサワラ語を話さず、アーンドラ・プラデシュ州の公用語、テルグ語しか理解できない。
そのテルグ語もなまっていたりするのだが。


その日に準備した調査項目は、「牛のえさになる植物について」
農業については、あらかじめ農作物の写真や絵をこちらで準備できるのだが、牛のえさについては筆者たちも皆目見当がつかないため、葉っぱや枝を採って来てもらった。
この日は、それぞれの草などが、何月から何月まで採集できるのか、ということをカレンダーに落とし込む作業をしたのだが、名前を確認するだけでひと作業。

「この植物は、サワラ語で××と言います」(G村)
「ちがうよー。×○×だよー」(B村)
「何言ってんだ、××だろう。山奥に住んでるから、ちゃんとした名前知らないんだよ」(G村)
いやいや、G村も立派に山奥の村だし・・・と心の中でツッコミを入れる筆者たち。
「これは、テルグ語では△△ですね」(T村)
「違う違う、テルグ語では△○って言うんだよ」(P村)
「間違ってないよー。△△で合ってるよー」(B村)
「田舎者のテルグ語はナマってンだべ」(P村)
いやいや、P村のあなたたちも立派な田舎者ですから・・・と
またまた心の中でツッコミを入れる筆者たち。


なんだかんだと言いながら、こうして採って来てもらった葉っぱや枝は標本にして、後日、植物の専門家から学術名などを教えてもらう。
そうすることで、適切な種の最終方法や植林方法を調べることもできるのだ。
ツッコミ所満載な作業だったが、なんとかフォーマットやら調査方法やらの準備も最低限整った。
何をしているのかを共有するためにも、限られた人だけでなく、なるべく大ぜいの村人が参加した方が良い、ということになり、調査日を設定して、お昼ご飯も流域管理委員会で準備することになった。
果たして、どのような珍回答が出て、どんな結果が出てくるのか…
筆者自身がとても楽しみな今回の調査。
そして忘れていはいない、前回から続く植林の再挑戦。

次号に続く!