2022年12月21日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(5)

植林も、コミュニティーのニーズに応えるというプログラムも、そして識字教室も、目的がなかった、根拠がなかったと前回書きましたが、一体何がいけなかったのでしょうか。

何のための森づくり?設計がない植林プログラム

まず植林とは言うものの、このプログラムが終了した時点でそれぞれの村で全体としてどんな森を作るのかという設計がありませんでした。果たして水源涵養なのか、果樹園なのか、土壌流出を防ぐのか、木材を生産するのか、どの目的に照らしても中途半端なものでした。いずれにせよ、収入源となるはずの果樹も木材も、専門的にマンゴーやカシューなどの果樹を栽培している農家や、木材を育てている林業家に対抗できるはずもなく、つまり市場で商品価値のある作物を育てるだけの技術もなく、収入にはほとんど結びつきません。

「貧困」への対症療法的プログラム

二つ目のプログラムも、目的がはっきりしない、何を目指すのか、各受益者が、例えばヤギを飼育して売ってその売り上げから得る収益はなんなのか、灌漑池は本当に期待した面積の田んぼを灌漑できるのか、プログラムが終了した時にどうなっていたいのか、そのことにどのような根拠があるのか、考えたこともなくやみくもに始めてしまったというお粗末さでした。そもそも、目に見える「貧困」はあっても、当時は貧困とは何かという理解、洞察がまるでありませんでした。例えば、頭痛がすると言っている人に、その原因を調べることもなく頭痛薬を与えて何とかなるだろうと思っているヤブ医者のようなものです。実際には、そんなお医者さんはいないでしょうが。ヤギを売って数百ルピーを得て、それが一人一人の受益者にどんな効果を与えるのか、マイナスの家計がプラスになるのか、マイナスが少しマシなマイナスになるだけなのか、この売り上げが家計の何パーセントになるのか、ヤギを育てるコストはいくらなのか、そんなことも考えずにやっていたのです。


高揚感に満ちた日々に、もたげてきた疑念

灌漑用のため池も、井戸掘りも似たようなものです。水の需要と供給を正確に把握してやっていたわけでもなく、さらには水の保全活動と組み合わせてやっていたわけでもありません。このような村の資源、環境全体を視野に入れて活動できるようになるには、水利系の概念を知るまで後十年ほど年を待たねばなりませんでした。

識字教育も、今考えればいくつも欠点がありました。まずは目的の曖昧さ。何をどこまで教えて、どこで終了とするかがハッキリないまま始めています。そして、教育そのものの方法論がなかったこと。特に子どもたちの理解に合わせた方法論がなかったこと。そして何よりも、インストラクターたちに対する研修もなしに、実施したこと。当時の私に対してはツッコミどころだらけです。

しかしツッコミどころだらけだった私は、それでもそれほど自分たちがやっていることを全面的に肯定していたわけではありません。前回も書きましたが、これらのプログラムを実施するのは、そしてその現場に赴くのは実に高揚感に満ちた日々であったことは間違いありません。特に、田んぼの畦道を懐中電灯で照らしながら、村の夜間識字教室を見に行くときなど、この高揚感は一際大きかったものです。教室に当てられた村の家には、石油ランプしかなく、その灯火のもと石板に字を一生懸命書く子どもたちを見るのは感動的でした。その場でやたら感動していたのは、間違いなく私だけだったでしょうが。


ところが、そんな私にもときどき疑念のようなものがむくむくと頭をもたげてくる時がありました。村では、必ずと言っていいほど個人的なものを含んださまざまな要求をされました。そんな時は、一体いつまでこういう要求に応えなければならないのだろうという、ある種の恐怖を伴った疑念が湧きます。また、各プログラムにはさしたる目的も、それを検証する方法もなかったと述べましたが、それはある意味気楽なことではある反面、かえってそのことがいつまでこれを続ければいいのだろうかという疑念を生む土壌にもなっていました。普段は、なるべくそんなことを直視しないようにしていたのですが。

しかし直視しなくても翌年の予算は立てずにはいかないわけで、そのときこそ、どのプログラムを止めるのか続けるのかの判断をしなければなりません。それこそ、お金は無限にないどころか、元々雀の涙程度のものしか用意できなかったのですから。しかし、当時の私には、プログラムを何か止めるにせよ、どのように優先順位をつけていいかわかりません。それはそうですよね。そもそも、始める時に明確な目標、そしてそれが達成できたかどうかの指標もなかったのですから。ですから、何も止めることができずにそれぞれ予算を減らすとか(増やすという選択肢は当然ありませんでした)、そんなことでお茶を濁すしかありませんでした。

気がついてみると、相手のことははっきり見えず、なんだか靄がかかった状態で、1人で望まれもしないダンスを踊っているような、なんだか情けない話です。で、私はあることを決心し、実行しました。それは次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

2022年12月19日月曜日

「ずっと痛いんです」 メタファシリテーションを医療の臨床現場で活かす

メタファシリテーション®を学んで、はや5年以上経過しようとしています。今回は、医療現場でメタファシリテーションをどのように使用しているかの事例についてご紹介したいと思います。

私は、医師が少ないへき地といわれるところで働いています。
都会のように病院に専門科(消化器内科とか循環器内科とか整形外科)が分かれていることは少ないので、外来ではさまざまな科にまたがる相談を受けます。その中でも多いのが、膝が痛い、腰が痛いなどの整形外科にかかわる相談です。

多くの患者さんはどこか痛いところがある時に「膝がずっと痛いんだよ」という言い方をします。そんな時に私は決まって「今、痛みがありますか?」と聞くようにしています。

ずっと」はメタファシリテーションでいう「一般的な言葉」なので、本当に事実かどうかはこの時点でわかりませんよね。
そこで私は「今、痛みがありますか?」という存在を聞くyes/noの事実質問をすることとで空中戦から地上戦にうつし、そこからさらに事実質問を使って症状を具体的に聞いていきます。

たとえばこんな感じです。

患者さん:右膝がずっと痛いんですよ
私:今座っていて体動かしていなくても痛みますか?
患者さん:それは痛くないです
私:最後に痛くなったのはいつ?
患者さん:今朝、畑でしゃがんた時に痛みました。しゃがめないんですよね
私:いつからしゃがんだ時に痛むようになったんですか?
患者さん:2ヶ月前からです
私:痛くなった時のこと覚えてますか?
患者さん:あ〜そういえば・・・。

実は私たちにとって、本当にずっと症状が続いているかどうかは、とても重要なことなんです。

ずっとが本当に1秒も途切れることもない痛みであれば、それは痛いところが腫れていたり炎症が起きている可能性があがります。
そうではなく、ずっとを「何かした時痛くなると」いう意味で使っているのであれば、どこか特定の筋肉や腱などが痛んでいて症状がでている可能性が高くなります。

とくに救急外来では、このずっとの重要性がさらに高まります。
1秒もよい時間がないずっとの場合、早めに何か対処しないといけない病気である可能性が上がるので患者さんがずっとと言った時ほど、本当にずっとなの!?早く確認したい!と思いながら問診をしています。

今日は外来でのずっとにまつわるメタファシリテーションの応用についてお話しさせていただきました。また、外来でのメタファシリテーションの応用事例を共有できればと思います。

平野貴大 ムラのミライ認定トレーナー)


関連講座
医療・福祉職のための「聞く」技術



2022年12月13日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(4)

プログラムは現地カウンターパート任せ

CSSSと最初に始めたプログラムが、植林でした。植林といっても個人ベースのもので、いくつかの村で受益者を選んでもらい、苗木を提供し、労賃を払って受益者個人の地所に植えてもらうというものでした。植える木の種類は、材木になるもの、果樹、薪などの生活用雑木という種類分けをして、それぞれ何を植えるか受益者に選んでもらいました。果樹は3年から5年で、材木は10年以上経ってから現金収入になるようにというのが狙いです。要は植林と収入向上を組み合わせたもので、州政府の森林局を退職した人に、木をどのようなレイアウトで植えるか、コーチを受けながら、CSSSの職員と村人がそれを方眼紙の上に描いて、その通り植えていくというものでした。

二つ目のプログラムが、水田の開墾を支援したりヤギを配ったりするものです。これも、村ごとに受益者を選んで、その希望に合わせて開墾の費用、労賃や役牛のレンタル料を支給するというもの。井戸を掘ったり、溜池を掘ったりもしましたね。
 三つ目のプログラムが、夜間識字教室です。成人向けと学齢期の子ども向けと開きました。当時は、小学校5年以上の課程がある村が人口規模の大きい所にしかなく、子どもたちは、そこまで行けばドロップアウトするというのが普通で、それどころか1年生の就学率も100パーセントとはいかない状況でした。このような状況が続いていたわけですから、大人の非識字者も当然多く、特に女性にその割合が大きかったのです。

 というわけで、この3つのプログラムを始めたのですが、村の誰を受益者にするのか、いつ、どのように実施するのか、それはCSSS任せでした。そして私がすることはモニターしに現地に赴くこと。とりあえず、植林は受益者何人、植え付け面積何ヘクタール、どの種類は何本と具体的な計画があり、その点では、他の2つのプログラムも同様に実施期間も含めた具体的な計画がありました。ですから、私は現地で進捗状況を確認し、作業の様子を村々を巡ってみることが「仕事」でした。

昂揚感と充実感を与えてくれる支援の現場

当時は、私の経費というと航空運賃がかろうじて出るだけで、あとは全くの持ち出し。年に2、3回、二週間程度、現地に行くことができたかできないか。幸い、稼ぐ方の仕事は比較的時間の融通が効き、周囲の理解もあったので、稼ぎつつ、活動もできました。しかし実際私がすることと言ったら、写真を撮って、ニュースレターに掲載してキャプションを付ける程度のことです。

しかし現地に赴いて村人達の作業を見て話を聞き、夜間識字教室で大人も子どもも声を上げて文字を読み上げているのを見るのは、この上もない昂揚感と充実感を私にもたらしました。CSSSの職員のオートバイの後ろに乗せてもらって村々を周り、時にはローカルバスで移動する、そんなことも何やらプラスアルファの昂揚感を与えてくれました。特に夜間識字教室で、目を輝かせて学ぶ子どもたちは感動的でした。今思えば、子ども達の目に石油ランプの炎が反射しているだけのことでしたが。

村人からの感謝の言葉の後に必ずやってくる「次は○○も支援してほしい」という苦痛

しかし、楽あれば苦あり、で、いい気分にさせてもらった後は苦痛の時が待っていました。村人たちにとの集会です。これは二重の意味で苦痛でした。まず、みんなの前で発言を求められても何を話していいかわかリません。そして何を尋ねていいかもわかりません。仕方がないので、「村の皆さんが一生懸命作業をしてプログラムが順調に進んでいるので嬉しい」などと、愚にもつかぬことを言い、そして「プログラムはどうでしたか?」と、これも愚にもつかないことを尋ねるわけです。すると村人たちの反応は至ってポジティブです。これは、寄付してくださった方たちにいい土産話ができるぞ、というより、成果として報告できるぞ、というような内容です。


ここで二つ目の、そして限りないプレッシャーとなる苦痛がやってきます。「おねだり」です。プログラムに対する感謝の言葉の後には、必ず「次に何々をやって欲しい」というお願いをされてしまいます。灌漑池があれば乾季も耕作できるし、あと10ヘクタールは水田を開ける、など。「灌漑池」は、あるときは、井戸だったり、家畜だったりします。ささやかな、あまりにもささやかな予算しか組めない私には、「果たして村人の要求に応えることができるのか?」、「どう答えたらいいのか?」まさに身の縮む思いでした。

プログラムの根拠は「貧しい」という、私と村人の双方の思い込みだけ

当時は「潤沢に資金があったらな」などと考えたものですが、今思えばあんなやり方をしていたら、たとえその時の100倍の資金があったとしてもキリがなかったでしょう。なぜなら、当時のプログラムには根拠がなかったからです。彼らは「貧しい」というこちらの、そして村人たちの、つまり双方の思い込み以外には。そのことに気づくには、後数年の月日が必要でした。
どうやって気づいたかって? 
それは次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

2022年11月30日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(3)

 「貧困」を訴えた寄付金集め

何事をなすにも、先立つものがなければなりません。私の場合は、「やるぞ」と宣言してから「先立つもの」を集め始めたので、これはいわゆる「泥縄」というやつですね。1993年4月からCSSSへの支援を始めて、その年は、私の記憶では400万円ほど集まったような気がします。初年度の勢いというやつでしょうか。しかし、一度は寄付してくれても、それを会費という形で継続的にしてくれるかどうかは、全く別です。その次の年にこの勢いが続くかどうか、まぁなんとかなるだろうと希望的観測に頼るしかない日々が始まったわけです。

で、どうやって寄付を集めたか、当時は真面目に「貧困」を訴えました。現在は、不真面目になったわけではありませんが、「貧困」は訴えません。今から思えば、この「貧困を訴える」、から「貧困を訴えない」、までの変化の間にメタファシリテーション(R)が生まれ、そしてこの変化に象徴される私の現場に対する見方、立ち位置の変化をメタファシリテーションが決定的に促したと言えます。


「貧困なので〜できない」という魔法の話法

さて、この「貧困」という言葉は、ある意味魔法の言葉で、この言葉を使うとネガティブな状況が説得力を持って説明できます。例えば、「貧困なので医者にかかれない」、「貧困なので子どもを学校にやれない」、「貧困なので満足に食べられない」、「貧困なので土地を開墾できない」などなど、こうして「貧困なので」に「ない」、「…できない」と続けると、その表現の簡明直截さからなんとなく納得させられてしまいます。

この魔法の話法に、「パタパトナム郡のアウトカーストの村は」とか「スリカクラム県の山岳少数民族の村は」というような文節を頭に付ければ、なかなか反駁し難い説得力を持つようになります。私も当時、このような話法に説得され、納得してもいました。


インド現地NGOの受け売り

ところで、CSSSはどのような話法を使って、というかどのような理屈で対象となる人々を決め活動をしているのかをここでちょっと紹介しておきましょう。なぜなら、有体に言ってしまえば、私が当時日本向けに語ることは、この受け売りに過ぎなかったからです。

で、彼らがどのような人々を支援するかというと、「経済的に搾取され、社会的に抑圧されている人々」ということになります。これが誰なのかというと、山岳少数民族とアウトカースト(有名なインドのヒンドゥー教の秩序、カーストにも入れない、カースト外の人々、つまり人間ではない人々ということになります)。

山岳少数民族もカースト外ということでは、アウトカーストと同じ扱いをヒンドゥー教の社会では受け、徹底的な差別の対象となります。都会ではいざ知らず、農村部ではこの区別はあまりにも明らかです。
明らかというのは、村ではカーストによって住む区画がはっきり分かれているからです。もちろん、アウトカーストだけの村もあります。また、山岳少数民族は、山岳という形容詞がついているだけに、まさに山の民です。ですから、彼らも住む場所によってそのアイデンティティーがはっきりと分かる仕組みになっています。


支援の根拠は「村人は搾取されていて、貧しいから」だけ

では、経済的には彼らがどんなステータスだったかというと、ざっくり言えば「土地なし」農民です。「土地なし」と言っても、文字通り自前の耕す土地がないということではなく、平地の水田を持っていないという意味です。山岳少数民族は、当然ながら山中に集落を散在させています。アウトカーストの集落も、山際の傾斜地にあることが多く、広い水田を有することは困難な位置にあります。それでも、彼らが僅かばかりの土地を自前で耕せるようになるまでには、困難な戦いを経なければなりませんでした。

1970年代、インディラ・ガンジー首相は、「全ての土地なし農民に土地を」というスローガンのもとに、土地なし農民に政府所有の未開墾地のパッタ(耕作権)を付与するという政策を打ち出しました。その土地なし農民の多くが少数民族でありアウトカーストであることは言うまでもありません。ただし、彼らが自分たちの権利を主張し、パッタを得るというのは、それまであらゆる差別と抑圧を受けていた彼らにとって容易なことではありませんでした。

その彼らの権利獲得闘争を支援したのが、CSSSのようなNGOでした。その支援から始め、やがて支援の内容は識字教育、農業支援、収入向上などへ移っていきました。私が支援に入ったのは、このような活動を彼らが始めて十数年経ってからです。私としては、特に何をしたいとも何をすべきだとも考えがないものですから、それを踏襲した形で支援を始めるしかなかったわけです。その根拠といえば、彼らが差別されていて貧しいという以外にはありませんでした。そしてその貧しさは、ある意味、実にわかりやすく目にすることができたのです。


「貧しい」村の老人が1日に使えるお金

ある村に、目の見えない初老の男性がいました。その村を訪ねた時、私を取り囲んで座った村人の中に彼がいて、他の村人たちが、彼は目が見えなくとも札をさわればそれがいくらかわかると言うのです。

そこで早速私は試してみることにしました。当時インドでは額面の低い方から順に、1ルピー札、2ルピー札、5ルピー札、10ルピー札、20ルピー札、50ルピー札、100ルピー札とありました。私は1ルピーから渡して試したのですが、20ルピーまでは見事に彼は当てることができました。ところが、50ルピー札と100ルピー札は彼には当てることができませんでした。彼が日頃この額面の札を手にしたことがないのは、明らかです。単純に今の日本と比較はできませんが、言ってみれば5000円、10000円札は触ったことがないと言ったところでしょうか。

ちなみに現在のインドでは、1ルピーから20ルピーまでは硬貨になり、500ルピー、1000ルピーが流通しています。この30年のインドの目覚ましい経済発展を反映していますね。

また、その頃、私は村人たちに、買い物には一回いくら遣う?と愚にもつかない質問をしていました。今だったら、うちの職員がこんな質問をしたら怒られますよ。でも当時は大真面目でした。で、このへなちょこ質問に一様に返ってきた答えが5ルピーだというもの。今思えば、彼らの感覚としての1日の可処分所得だったんでしょうね。

当時彼らが農閑期に道路工事などの賃仕事をしてもらう日当が10ルピー程度でした。もし一月休みなく賃仕事をしても、月に300ルピーにしかなりません。当時CSSSの幹部職員が、月に3000ルピーの給料を貰っていたので、少なくとも現金収入という面では、村人はまさに貧乏でした。


上から目線の支援「貧しい人たちの自立を促す」

というわけで、最初のうちは、何の疑問も抱かずに、溜池を掘ったりヤギを配ったりしていたわけです。しかも彼らの「自立を促す」とか言ってね。今から思うと何という上から目線、傲慢さと恥ずかしくて穴があったら入りたいと思うのですが、何度も言うけど当時は大真面目でした。

でも、こんなことを続けているうちに、すぐに苦しくなってきたのは、資金繰りだけではありません。実は私は視界の効かないモヤの中にいたと気づくのですが、その話は次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

2022年11月14日月曜日

メタファシリテーションのできるまで(2)

徒手空拳という言葉があります。1992年10月に南インドのアーンドラプラデシュ州ビシャカパトナム市の空港に降り立った私がまさにそれでした。

コトバンクで「徒手空拳」という言葉の意味を引いてみると、
-手に何も持たないこと。また、自分の身一つだけで頼むべきもののないこと
とあります。
我が身に引き比べれば、要するに金もなければ頼れる組織なり権威なりもない、という状態でしょうか。これが、後にムラのミライとなるNGOをこれから立ち上げようという時の私でした。

ビシャカパトナムの空港には、ラマ・ラージュが一番上の娘さんと一緒に迎えに来てくれていました。

ラマとは、彼が1981年にアジア保健研修所の研修生として来日して以来の付き合いです。1976年以来、アーンドラプラデシュ州の北東端、スリカクラム県の3つの郡でNGOを立ち上げて、主に少数民族とアウトカーストを対象とした支援活動をしていました。
ラマたちの団体は、当時、旧西ドイツの資金提供団体から資金を供与されていましたが、1989年の東西ドイツの統合により、資金提供団体が当面の支援先を旧東ドイツにシフトしたため資金が途絶えてしまった、そんな状況にありました。

そのことを伝え聞いた私が、ラマに支援を申し出、とりあえず何ができるか相談するためのこのインド訪問でした。この時私は、ラマたちの当座の足しにと思って20万円ほどの現金を持参していました。当時の私の月収の半分程度の金額です。この金額で何ができるかと言えば、おそらくCSSS(これが、ラマが当時主宰していたNGOの名前です)のスタッフ15人の1ヶ月分の給料を賄えるほどの額でしたでしょうか。

とにかく、空港で「やあやあ」と言ってラマと握手をした時が、ドラマチックに言えば、のちにムラのミライとなるNGOの誕生の瞬間です。

この稿は、私のフィールド(途上国の現場)との関わりを通してメタファシリテーションの成り立ちを書くことを目的としているので、なるべくそれに直接関わらないことは書かないようにしているのですが、この時空港に降り立つまでも、そしてその後も家族をはじめ多くの方たちに多くの支援をいただいたことで、現在までなんとかやってこられたことをここで断っておかねばなりません。特に、草創期からの10年ほどは、筆舌に尽くし難い支援をしてくださった方たちがいます。あえてここではお名前はあげませんが、今でも感謝の念に堪えません。ただ、草創期から10年ほどは、頼りない私をなんとかしなければという、いわば私個人を支えていただいたという意味合いが大きかったのですが、今ムラのミライはこのバナーの下に集い活動する人全てのものになっている、言い換えれば私は完全にその中の1人に加えてもらっているという状態になっています。この30年ほどの成果として特筆すべきことはいくつかあると思いますが、私としては、このような団体に育ったことがある意味一番誇らしいことです。

少し脱線してしまいました。さて、空港で久しぶりにラマと再開した後、早速ビシャカパトナムから車で当時6時間強の道のりのパタパトナムに向かいました。CSSSの事務所はパタパトナムという町にあり、パタパトナムは、同じパタパトナムという名のスリカクラム県にある郡の一つの役所があるところです。日本では、郡は地理的な区分以上の意味はありませんが、インドでは行政単位の一つとして機能し、議会もあります。

事務所では、集まっていたスタッフたちを紹介され(ほとんどのメンバーは、前回1986年に訪れた時とほとんど変わっていなかったため、旧知でしたが)、行われている事業(プロジェクト)、背景となる状況についての説明を受けました。今となっては、何が説明されたのか、それに対して何を質問したのか、全く覚えていません。今から思えば、何か核心をつくような質問ができたとは到底思えません。端的に言えば、ふんふんと頷く以外のことをしていたとも思えません。その後、CSSSが事業をおこなっている村々を訪れ、村人たちの集会に参加させてもらって(というより、日本からゲストが来ているから集まってくれと動員をかけられて村人たちは集まっているわけですが)、村人の話を聞くということをしました。この時もふんふんと頷くだけで、質問をしろと言われても、何を聞いたらいいのか、おそらく質問を促されて何か聞いたのでしょうが、何を聞いたのか全く覚えていません。

それよりも、この時、CSSSのスタッフと会い、村人の集会に参加し、いわば「実物」を目にしたことで、これからこの人たちを支援していくのかというプレッシャーを、多大な実感を伴って感じたことでした。そもそも私は能天気な人間で、稼いだ金は遣ってしまうので貯金というものはほとんどなく、ラマたちへの支援のために手を挙げた時も何か資金的な成算があったわけではありません。これを客観的に言えば要するに私は「お調子者」の類でしかなかったわけです。

その「お調子者」としては、なんとかするしかないわけで、とりあえず翌年の4月に「本格的な」支援を立ち上げることを約束し、半年ほどの猶予をもらって帰国しました。ただ、半年ほどの猶予をもらったところで何をすればいいのか分からず、とりあえず考えたのが、団体の名前を考えること、団体専用の電話を契約すること(まだ携帯とかスマホとかない時代です)、ファックス(!)機能付きの電話機を購入すること、そして会員を募集して少しは定期的な資金調達をしたいので会員管理にはコンピューターが必要だろうということで、コンピューターを買うこと、の三つでした。

一つめの団体名ですが、いろいろ考えた末、面倒くさくなって「サンガムの会」という名前にしました。「サンガム」というのはサンスクリット語からの派生語で、あえて日本語にすれば「組合」でしょうか。ラマたちは、対象とする村人たちを村ごとの「サンガム」に組織し、サンガムを受け皿としてさまざまなプロジェクトを行なっていました。この「サンガム方式」は別にCSSSの独自のものではなく、当時のインドのNGOはどこでも採用していると言えるほどのものです。ただ、後になって気づいたことですが、日本語での「サンガム」という語感は、「ガンダム」とか、当時社会を騒がせていた「オーム」とか、国際協力をやろうというNGOの名前としては決してプラスに働いていたとは言い難い響きを与えていたということと、現地で自分の団体名(まだ団体などと呼べるようなものではありませんでしたが)を言うと、まさに現地のサンガムと紛らわしいという、これは困ったという問題も発生しました。

二つめの新しい電話の契約とファックス機能付きの電話機の購入は、自分の手持ちの資金でも無理なくできることでした。ただし、パタパトナムのCSSSとの連絡では使えません。そもそも、理論的には直通の国際電話はかけられるはずでしたが、実際にそれを試みてみて通じたことがありません。ファックスは、当然ながら直接送ることはできなかったので、ビシャカパトナムにあるCSSSの友好団体宛に送って、それをわざわざ往復12時間をかけて取りに来てもらうことしかできませんでした。結局、最も確かな通信手段は航空便で、往復に最低2週間はかかります。本当に緊急の場合は国際電報(!)。電報という言葉も今はほとんど死語になっていますかね。

三つめのコンピューターは……これが、一番お金がかかりました。何せ、最も安いノートパソコンと最も安いプリンタで30万円ほどしましたから。しかも、今では想像し難いでしょうが、コンピューターにハードディスクもなく、デスクトップメモリも1M Bもなく、操作も全てMS-DOSのコマンドを打ち込むという、これも今思えば隔世の感がありますね。

で、これだけ準備してあとは何をすればいいのか、当時の私にはさっぱり分かりませんでした。それで私が始めたのは、親戚、知人みんなに支援を要請する手紙を書きまくることです。平たく言えば、ぜひ寄付してくださいという手紙です。その手紙の中で、当時私が理解している限りの現地での状況を訴えたのですが、その「理解している限り」という現地への私の認識の仕方が、すぐに私を悩ませることになります。その話は、次の回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)





2022年10月31日月曜日

事実質問で話を聴かれた子どもたち

普段は少ない「事実で話を聴く」ケース

メタファシリテーション®講座に参加した皆さんのなかで、特に初めて対話練習をした際に、「だいたいは〜」とか「いつもは〜」、「みなさんは〜」「○○は好きですか?」という、事実は聞けない質問を無意識に連発してしまった記憶のある方は多いことでしょう。

YouTube、テレビ、ラジオにアクセスすれば、相手の「考え」を聞いているインタビューや、出演者のやりとりにあふれています。一度試しに「事実で話を聞くスイッチ」を入れて、耳から入ってくる情報を注意して聴いてみてください。「事実」を聞いている質問がどれだけあるでしょう?そして「事実」でこたえているケースもかなり少ないことに気づかれると思います。

「事実で話を聞くスイッチは通常オフになっている」という理解でいると、「ここは詳しく聞きたい」という場面で、スイッチを入れねば〜と切り替えることができます。
ただスイッチを入れたからといって、すぐ事実だけで聞けるかというと、そういうわけではないのは講座に参加された皆さんはよくご存知で、やはり日々の練習次第にはなるのですが…。


「事実」を聞かれることに慣れた子どもは...

さて、講座などで繰り返し「事実を聞く質問(以下、事実質問)」について話している私ですが、家にいるときも、常に「事実質問スイッチ」をオンにしているわけではありません。
とはいえ、子どもの話を聴くときはなるべく家にいてもスイッチをオンにしようとは心がけています。

来年15歳になる息子は、生まれたときからかなり長い時間、親から「事実質問」で話を聞かれ続け、聞かれることにも、答えることに慣れています。おまけに彼は、ムラのミライの認定トレーナーたちからも、言葉を覚え始めた時から、事実質問でたくさん話を聞いてもらって育っています。小さな頃は各地の出張に連れて行っていましたから、各地の研修先で、研修参加者からもあれこれと事実質問で話を聞いてもらってきました。

ある日、「事実質問スイッチ」を完全オフにした私(親)は、息子に「期末テストどうだった?」と聞いてしまいました。「あ、しまった!」とすぐに気づきましたが、時すでに遅し。ため息混じりの息子から逆に聞かれたのは次のような質問でした。

・「何日間か期末テストはあったけど、いつの試験のことを聞きたいの?今日の試験のこと?」
・「今日も何科目か試験あったけど、どの科目のこと?」
・「その科目の前回の期末テストと今回のテストの点数の違いが聞きたいの?」

私の「どうだった?」という質問では、「期末テストの何が知りたいのか?」が明確でなかったことがわかり、おまけに…
・「◯◯というサイトを見るとテスト結果がわかるけど、もうそのサイトみた?」
と、これまでに私が彼のテスト結果を知るためにやってみたことがあるかどうか(経験)を
も確認されました。

それらの質問に息子が答えたり、私が学校のサイトを見たりしているうちに、息子の期末テストの結果はわかりました。
私の「どうだった?」にしばらく付き合った後、息子は「過去はもう振り返らない、前しか見ない。」と言い残し、自分の部屋に入っていきました。


「どうだった?」質問に慣れると...

「何も考えずに期末テストどうだった?」と聞いていたことを、みるみる質問した人(私)に気づかせていくこの質問の数々。期末テストの結果はともかく、さすがこれまで事実質問で聞かれ続けているだけあるなあ〜と感心してしまったのでした。

私が14、15歳だった頃、「期末テストどうだった?」と親に聞かれれば、真っ先に親を心配させないように、細かくテストのことを聞かれないように、という類のことを一瞬で考え、「まあまあがんばったよ」と当たり障りのないように答えていたかと思います。

その「一瞬で考える」作業は、期末テスト以外でも、「最近友だちとどう?うまくやってる?」「体の調子はどう?」「最近、部活はどう?」「進路どうするの?」「新しい担任の先生どう?」「○○検定どうだった?」「体育祭どうだった?」「今日のご飯どうだった?」などなど、「どう?」と聞かれる度に繰り返され、反射神経のようになってきます。相手のことを忖度した回答を一瞬で考えて、当たり障りのないように答える、これを繰り返すと、どうなるでしょう。

そうです、習慣になってしまい、相手への忖度なしで返事ができなくなっていくのです。反射神経が鍛えられ、「どう?」と聞かれたら一瞬で、相手が期待することを考えて答える癖がついてくると、恐ろしいことに相手の忖度した答えが、自分の「答え」のように思えてきてしまうのです。一つ一つのやりとりは、大したダメージを与えませんが、何年も繰り返されれば、忖度に疲れてしまい、「誰とも話したくない」「誰も私のことは聞いてくれない」「忖度する直前の自分の答えがわからいない」となっていきます。


事実質問で鍛えられる、子どもの「相手と分かり合う力」

周りの複数の大人から、「どう?」と聞かれ続けてきた10代の頃の私とは対象的に、事実質問で聞かれ続けてきた息子のような子どもは、相手が細分化せずに、ぼんやり聞いてくる質問にも、事実で答える、質問を確認する、クセがついているようです。

それは言葉を覚え始める年齢から始まるようで、事実で話を聞く訓練を重ねてきた人たちの周りの子どもたちにも共通しているようです。そうした子どもたちに、ついうっかりと「どう?」「なんで?」「みんなもそう?」「すぐ○○するね」などと言ってしまったとき、認定トレーナーや訓練を繰り返してきた講座参加者の周りにいる子どもたちは、私と同じような目に合い、子どものほうから質問されてしまうのです。
・「調子、どう?」というのは、今の状態?それとも朝学校に出かける前のこと?
・「宿題終わった?」と聞いてきたけど、今日は何と何が宿題にあって、そのうち今の時点で、何が終わって、何が終わってないかを聞いてくれたら答えるよ。
・「みんなもそう?」というけど、「みんな」ではないよ、Aさんと、Bさんだけだよ、
・「すぐ帰るね」って、「何時くらいに帰れそうってこと?」
という具合です。

どの子も、相手と事実で分かり合う癖がついています。まだ私の実体験と、認定トレーナーや講座受講者の声がちらほら聞こえてきただけの状態ですから、そういう子どもの数は多くはないのですが、大人の事実を聞く訓練の成果が、子どもからもわかります。


自分で考え、自分で解決策をみつける練習

「どうだった?」以外にも、「なんで?」「〜が好きなの?」「毎日〜しているんだね」「あなたの考えは?」「今の気持ちは?」といった「考え」や「感情」を聞く質問を繰り返しされても、子どもは、大人に忖度して答えることはできるようになっても、それらに的確に答えられるようにはなりません。

一方で、大人に事実で聞かれてきた機会が多い子どもは、生まれながら性格や能力といった部分に大きく頼ることなく、毎日の繰り返しで、知らず知らずのうちに、相手と事実で共通理解を得る力が鍛えられていきます。これは大人が事実を聞く質問で自らのメタ認知を鍛えているのと同時に、子どものメタ認知力も鍛えられている、と言えるのではないかと思います。

大人の質問に答える、子どもも質問する、大人もそれに答える、というこの対話の時間の長さが、そのまま信頼関係につながります。大人から聞かれる事実質問に答えていくうちに、子どもが自然とそのときの考えも感情も的確に伝えられるようになっていきます。

この普段からの積み重ねは、やがて子どもが何らかの問題に直面したときに、問題が生じた背景を事実で細分化し、細分化した部分のどこに解決策があるのか、自分で考え、周りの人からの助言を求めてゆくことにつながると思います。


子どもの話が聴ける大人を増やしたい

ムラのミライでは、大人も子どもも圧倒的に一般的な質問にあふれた環境のなかで、1人でも多くの大人が、子どもの話を事実で「聴ける」ようになるにはどんな方法がよいのか、試行錯誤が続いています。

そんな試行錯誤の一つが、コープともしびボランティア振興財団に助成いただいた「子どもの話を聴く技術 体験プログラム」です。
学童保育や子どもの居場所、スポーツクラブなど、子どもと接することが多い人にこそ、この「聴く」技術を身につけてほしいと思っています。90分の講座(オンラインと対面)、個別フォローアップ(事実だけで話を聞いてもらう体験もできます)、動画(マイクロラーニング)をセットになったプログラムです。この体験プログラムは、兵庫県の子ども支援者の方限定ではありますが、11月、12月にはオンラインで全国の子ども支援者の方たちを対象にした講座も予定しています。

引き続き、講座の様子や受講された方たちの声、事実質問をされた子どもたちのお話などもご報告していきますので、お楽しみに。 

原康子(ムラのミライ研修事業チーフ)

イラスト:Moto

2022年10月12日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(1)

ムラのミライは、来年2023年で30周年を迎えます。
正確に言えば、ムラのミライという名前に団体名が変わったのが2014年ですから、ムラのミライとしては来年で7周年、ちょうど人間の年齢でいえば、初等教育を受け始める頃の年齢に達した、そんなところでしょうか。
でも、それ以前の活動がなければ、現在のムラのミライもないわけで、そしてムラのミライが営々と培ってきたメタファシリテーションという技法も、その前史を含めるとざっと30年近い歴史があるわけで、やはりムラのミライは、団体として何度も変身を繰り返しつつ30年間活動を積み重ねてきたといえます。

というわけで、この30年という節目に、ムラのミライがどのように活動を始め、どのようにメタファシリテーションを生み出し、育ててきたかということをここで当事者の一人である私が振り返ってみるのも、創立者としての私の責任であり、また団体にとっても必要なことかと思います。

ムラのミライの30年を振り返ってみますと、ざっと3つの時期に分けられるかと思います。最初の時期が、いわば草創期。1993年から2003年までです。

この時期は、団体としては個人商店のような状態から組織としての体を漸く成せるようになったという時期であり、また私が、のちに中田豊一が方法論化したメタファシリテーションを現場での個人の技法として形成しつつあった時期です。組織としての体をなすというと少し大げさかなと思わないでもありませんが、この時期の終わり頃、1999年に「特定非営利活動法人」として法人化しましたので、一応団体として社会的に人格を認められた、法人として賃貸契約を結んだり、銀行の口座を開くことができたり、と、その程度のことができるようになりました。

この間、給与を取るような専従職員は私を含めて誰もおらず、今思えば、どうやって生活していたのか、活動を維持していたのか、よく分からないという時期です。2000年に初めてインドのプロジェクトのための現地駐在員を置くことができましたが、その給与といえばインドルピーで6,000ルピー(日本円にすると当時20,000円くらいでしょうか)。日本円では給与を出せなかったというところがミソですが、ともあれ記念すべき最初の専従職員の誕生でした。

第二期といえるのが、2002年から2014年まで、ODA(政府開発援助)からさまざまな形で資金を得つつ、ささやかながらも組織として発展した時期です。専従職員も増え、給与も日本円!で払えるようになりました。銀行から団体として借金ができるようになり、またその返済に苦労したりもしました。

この時期は、メタファシリテーションが方法論として中田豊一によって確立された時期でもあります。また、私と中田豊一と2人でフィールドワークをする機会も多く、方法論の確立とともにその発展も同時に進んだ時期でした。私が経験するフィールドも、ムラのミライ(当時はソムニードといいましたが)のプロジェクトだけではなく、数十億円規模の円借款プロジェクトやJICAのいわゆる技プロ(技術協力プロジェクト)に専門家として関わることで、知見を広げることができたこと、そしてメタファシリテーションの汎用性を確かめることもできました。実際、この時期の中田とともにした現場での経験がなければ、「途上国の人々との話し方」が2010年の時点で書けたかどうか、分かりません。

この時期は、「援助」という活動に対する考え方が決定的に変わった時期でもあります。最初の10年間は、「貧しい人々」を助けるという立場で活動をしていました。どんな活動かというと、モノを配る活動です。水がないと言われれば井戸を掘る、学校に行けない子がいると言われれば識字教室を開催する、ため池が必要だと言われればため池を掘る、などの活動です。しかし、私の現場での技術が向上するにつれて、のちにメタファシリテーションと呼ばれるようになる技法が開発されるにつれて、途上国の現場に対する見方、立ち位置も随分と変わっていきました。そして、「助ける、援助する」という立場から、「援助される」側の人々と共に共通の課題を解決するというものに変わっていきました。


第三期を特徴づけるのは、メタファシリテーションの系統的な普及の始まりと日本国内でのプロジェクトの開始、そして西アフリカへの進出です。

メタファシリテーションの講座は、2006年頃に中田が希望者に対して始め、メタファシリテーションの体系化とともにその教授法も発展させてきたものでした。その後、国際協力に関係する人々を超え、医療、教育など様々な分野の人々からも受講が増えるに従って、ムラのミライのスタッフや、中田に師事した人々の中からも講師として講座を担当するようになりました。その過程で、教授法、教材、課程も順次整備され、検定制度、認定講師制度も整備され、さらにはメタファシリテーションそのものも商標登録されるなど、望めば誰でも受講できる環境が整いました。

このメタファシリテーションの普及と一体となって、日本国内でのプロジェクトにも積極的に取り組むようになりました。高山に本部事務局があった時期にも、当時の国内スタッフの努力によって、地元で取り組む様々な試みがなされていました。企業とのコラボも行われ、その結果として「まちづくりスポット」というNPOが誕生し活躍しています。

これに対して、2016年以降の国内での取り組みは、プロジェクトの中に必ずメタファシリテーションの研修を取り入れていることです。また、メタファシリテーションの研修そのものをプロジェクトの目的として行うものもあります。その場合は、地域医療など個別のテーマを取り上げ、その従事者の現場で活かせる技術としてメタファシリテーションをトレーニングするという形式をとっています。

海外事業としては、2012年以降、西アフリカでの展開を目指して中田、和田が現地での調査を進め、信頼できるパートナーとなりうる現地NGOと出会えたことでセネガルでの事業展開を決めました。アフリカで新たに事業展開をしようとした第一の理由は、アジア(南アジア、東南アジア)とは全く異なる環境でのメタファシリテーションの汎用性の確認、第二は、これまで行ってきたマイクロウォーターシェッド(小規模水利系)のマネージメント、そして最後に土壌、水の保全を通した気候変動への取り組みの3点でした。

以上、駆け足でこの30年を振り返ってみましたが、この三つの時期にメタファシリテーションがどのように生まれ、そして現在のようなものとなったかを、これからその背景を説明しながらお話ししていこうと思います。

まず次回は、1992年10月に南インドのとある地方都市の空港に私が降り立ったところから。
           
和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

 


2022年9月5日月曜日

村でサヤインゲン栽培についての聞き取り3

 以前「認定トレーナー・前川香子のチェックポイント」で、サヤインゲン栽培の聞き取りにフィードバックをいただいたあと、前川さんとZoomセッションをおこない、さらにアドバイスをいただきました。

今回は、その際のポイントをまとめてご紹介します。

・Aさんが、サヤインゲンが「よく育った」という表現をしていたが、そもそも土づくりや肥料のやり方をきちんと知っているのか。
→適切な肥料の使い方を知っているか、知っているならどこから教えてもらったのか。
→地域によっては肥料のパッケージに「マメ科ならこの量を使う」と書かれていることもあるため、Aさんが使っている肥料の袋には書いているかどうか、書いているならそれを読んだことがあるか。

上記と関連して、
・Aさんは、サヤインゲン栽培について出荷先の王室プロジェクトから栽培についてレクチャーを受けているのか。
→肥料のやりかた(時期・量)など。
→そもそも王室プロジェクトの指導員ってどんなレベルの人か。

また肥料を使う際は、きちんと量らずに目分量で撒いているようだったので、事実質問でどのように確認していくべきか迷っていたところ、以下の助言をいただきました。

・たとえば、ひとつかみの量を撒くということなら、実際にAさんに肥料をひとつかみしてもらったものを、計量カップに移して計ってみてもいい。
→それが適切とされている分量と合致しているかを確認する。

・さらに、畑を図面に描いて、畝の列や種を蒔く穴の数も書き込みながら、穴は〇個あるから適切な量から計算すると全体でこれくらいの量の肥料を使うだろうという推測ができる。

・その後、肥料が入った大袋のうち、今回使用してどれくらい量が減ったかを確認する。
→例えば3分の1ぐらい減ったのであれば、使用した肥料の重さは合計〇kgぐらいで、1つの穴あたりで計算すると今回は〇g使っているね、とわかる。

*具体的に測定したり計算したりしながら、一緒に確認・検証する作業が効果的だとわかりました。

これらに加えて、土壌の状況もさらに確認するようお話しをいただきました。

・サヤインゲンの前にズッキーニを植えていたなら、ズッキーニがいつまで植わっていて、次にサヤインゲンを受けるまでどれくらい期間が空いてるか。
・ズッキーニにどの肥料をどれくらい加えたか。撒いた肥料がどれくらい土に残ってるか。

それによって、今回サヤインゲンに使った肥料と合わせると、土が酸性かアルカリ性になってるかもわかってくる。
→土の状態も栽培に影響する。

また、
・これまでAさんが畑や田んぼでどんな作物をどれくらい育ててきたか。
・マメ科の作物を育てたことがあるのか。
などの経験を聞けば、Aさん家の農業の歴史全体が把握できるとのことでした。

今のところAさんとCさんのサヤインゲン栽培について大きく違うと感じる部分はなかったのですが、以前Aさんは、2袋収穫して選別後に出荷できたのが1袋と話していました。
Cさんより選別ではじく量が多い印象なので、そこも聞いてみていいかもしれません。(選別の基準など)

次回は、Aさん家が4月に栽培していたサヤインゲンの結果(出荷量・出荷額・利益など)を確認する予定です。

また、チャンスがあればCさんには一家の家計状況について聞いてみたいと思います(支出入の状況、管理の仕方、どれだけ支出を押さえているかなど)

今回アドバイスいただいたように、図面を描いたり重さを量ったりして視覚的に一緒に確認する作業を加えると、お互いにわかりやすいですし気づきや理解が深まりそうなので、次回はぜひ試してみたいと思います。

寺田華恵さん
メタファシリテーション講座修了生/Chiku ChikuTong Tong (ちくちくトントン)



2022年7月26日火曜日

子どもの話を「直近のこと」から聞いてみる

暑い日が続きますね。子どもが夏休みになり、いつもと違う生活リズムにまだ慣れないという方もいらっしゃるでしょうか(私もその一人です)。また普段は子どもと接する機会が少ない方も、子どもと接する機会が多くなる時期ですね。
みなさんは、子どもに最近の出来事を聞いてみようと、「最近どう?」と聞いたことはありませんか。

5月に開催した「子どもの話を聞く技術」体験セミナーでは子どもに「最近どう?」、「今日はどうだった?」という質問を封印して、代わりにその時のことを思い出す事実質問をしてみましょうとお話しました。
例えば学校の様子を聞きたくて「学校どうだった?」と聞くと、子どもはなんと答えるでしょうか。もし、最近同じ質問をしたことがある方は、その時の子どもの答えを思い出してみてください。

 

「たのしかった。」で会話がすぐに終わった、あるいは何も答えが返ってこなかったといったことはありませんでしたか。
「どうだった?」と聞かれて、子どもが今日の出来事をぱっと思い出して答えを返すことは、特に小学生の子どもにとってはハードルが高いです。なかには大人の期待する答えを考えて答える場合もあります。
例えば私たち大人でも、上司に「今回の出張はどうだった?」と唐突に聞かれると、つい「勉強になりました」と相手の求める答えを作ってしまいますよね。 

それでは、子どもに今日の出来事を聞きたいとき、みなさんなら「どうだった」を封印して、何から聞くでしょうか。「子どもの話を聞く技術」体験セミナー参加者のAさんは、小学生のお子さんにこのように聞いてみたそうです。

学校からの帰宅途中、6歳のお子さんとの会話

「時系列の近いところから聞いていくと思い出しやすい」とのアドバイスを聞いたので、児童クラブの帰り、子どもに「今日ドッチボールして遊んだ?」、「何して遊んだ?」と聞きました。
そこから娘が自分で、今日学校の授業でもこんなことしたよ、あんなことしたよ、と話してくれました。

「どうだった」と聞きたくなったら、Aさんのように「直近のこと」から子どもの行動に焦点を当てて聞いていくと、子どもが少しずつ今日あった出来事を思い出すことができます。
学校の帰り道で話していたなら、さっき自分と出会う直前は「どこ」にいたのか、「誰」と「何を」していたのかを聞きます。そして「その前はどこにいたの?」と少しずつ過去にさかのぼっていきます。

子どもは、だんだんと児童クラブでのこと、学校から児童クラブに移動したときのこと、教室で終わりの会をしたこと、その前の授業のこと、お昼休みのこと、給食のこと、とその日の子ども自身の行動を思い出していきます。
そして、Aさんのお子さんのように、誰かに話したいほど面白かった経験があったときには、その場面に飛んで話を始めることがあります。


子どもが自ら話を始めたら、チャンスです。それはいつ、どこで?誰か近くにいた?と細かく事実を聞いていくと、まるで自分がその場所にいたかのように、その光景を一緒に見ながら話を聞くことができるはずです。

「どうだった?」と聞かずに直近のことから質問をしていく、というのは遠回りのようですが、十分に子どもの行動を振り返る質問をしておくと、思わぬ子どもの話を聞くことができます。
ご家族でも、近所の子どもでも、支援先の子どもでも、ゆっくり話を聞く時間があるときに試してみてください。そして何か気づいたことがあれば、教えていただければ嬉しいです。

山岡美翔 ムラのミライ理事/事務局長代行)