2022年12月13日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(4)

プログラムは現地カウンターパート任せ

CSSSと最初に始めたプログラムが、植林でした。植林といっても個人ベースのもので、いくつかの村で受益者を選んでもらい、苗木を提供し、労賃を払って受益者個人の地所に植えてもらうというものでした。植える木の種類は、材木になるもの、果樹、薪などの生活用雑木という種類分けをして、それぞれ何を植えるか受益者に選んでもらいました。果樹は3年から5年で、材木は10年以上経ってから現金収入になるようにというのが狙いです。要は植林と収入向上を組み合わせたもので、州政府の森林局を退職した人に、木をどのようなレイアウトで植えるか、コーチを受けながら、CSSSの職員と村人がそれを方眼紙の上に描いて、その通り植えていくというものでした。

二つ目のプログラムが、水田の開墾を支援したりヤギを配ったりするものです。これも、村ごとに受益者を選んで、その希望に合わせて開墾の費用、労賃や役牛のレンタル料を支給するというもの。井戸を掘ったり、溜池を掘ったりもしましたね。
 三つ目のプログラムが、夜間識字教室です。成人向けと学齢期の子ども向けと開きました。当時は、小学校5年以上の課程がある村が人口規模の大きい所にしかなく、子どもたちは、そこまで行けばドロップアウトするというのが普通で、それどころか1年生の就学率も100パーセントとはいかない状況でした。このような状況が続いていたわけですから、大人の非識字者も当然多く、特に女性にその割合が大きかったのです。

 というわけで、この3つのプログラムを始めたのですが、村の誰を受益者にするのか、いつ、どのように実施するのか、それはCSSS任せでした。そして私がすることはモニターしに現地に赴くこと。とりあえず、植林は受益者何人、植え付け面積何ヘクタール、どの種類は何本と具体的な計画があり、その点では、他の2つのプログラムも同様に実施期間も含めた具体的な計画がありました。ですから、私は現地で進捗状況を確認し、作業の様子を村々を巡ってみることが「仕事」でした。

昂揚感と充実感を与えてくれる支援の現場

当時は、私の経費というと航空運賃がかろうじて出るだけで、あとは全くの持ち出し。年に2、3回、二週間程度、現地に行くことができたかできないか。幸い、稼ぐ方の仕事は比較的時間の融通が効き、周囲の理解もあったので、稼ぎつつ、活動もできました。しかし実際私がすることと言ったら、写真を撮って、ニュースレターに掲載してキャプションを付ける程度のことです。

しかし現地に赴いて村人達の作業を見て話を聞き、夜間識字教室で大人も子どもも声を上げて文字を読み上げているのを見るのは、この上もない昂揚感と充実感を私にもたらしました。CSSSの職員のオートバイの後ろに乗せてもらって村々を周り、時にはローカルバスで移動する、そんなことも何やらプラスアルファの昂揚感を与えてくれました。特に夜間識字教室で、目を輝かせて学ぶ子どもたちは感動的でした。今思えば、子ども達の目に石油ランプの炎が反射しているだけのことでしたが。

村人からの感謝の言葉の後に必ずやってくる「次は○○も支援してほしい」という苦痛

しかし、楽あれば苦あり、で、いい気分にさせてもらった後は苦痛の時が待っていました。村人たちにとの集会です。これは二重の意味で苦痛でした。まず、みんなの前で発言を求められても何を話していいかわかリません。そして何を尋ねていいかもわかりません。仕方がないので、「村の皆さんが一生懸命作業をしてプログラムが順調に進んでいるので嬉しい」などと、愚にもつかぬことを言い、そして「プログラムはどうでしたか?」と、これも愚にもつかないことを尋ねるわけです。すると村人たちの反応は至ってポジティブです。これは、寄付してくださった方たちにいい土産話ができるぞ、というより、成果として報告できるぞ、というような内容です。


ここで二つ目の、そして限りないプレッシャーとなる苦痛がやってきます。「おねだり」です。プログラムに対する感謝の言葉の後には、必ず「次に何々をやって欲しい」というお願いをされてしまいます。灌漑池があれば乾季も耕作できるし、あと10ヘクタールは水田を開ける、など。「灌漑池」は、あるときは、井戸だったり、家畜だったりします。ささやかな、あまりにもささやかな予算しか組めない私には、「果たして村人の要求に応えることができるのか?」、「どう答えたらいいのか?」まさに身の縮む思いでした。

プログラムの根拠は「貧しい」という、私と村人の双方の思い込みだけ

当時は「潤沢に資金があったらな」などと考えたものですが、今思えばあんなやり方をしていたら、たとえその時の100倍の資金があったとしてもキリがなかったでしょう。なぜなら、当時のプログラムには根拠がなかったからです。彼らは「貧しい」というこちらの、そして村人たちの、つまり双方の思い込み以外には。そのことに気づくには、後数年の月日が必要でした。
どうやって気づいたかって? 
それは次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)