2023年3月31日金曜日

メタファシリテーションのできるまで(10)

中田豊一さんとは、月並みな言い方をすれば長い付き合いです。初めて会ったのが1986年ですから、今年2022年で36年の付き合いとなります。中田さんと知り合ったのは、彼がシャプラニールのバングラデシュ駐在員としてダッカに赴任した1986年5月のことです。当時バックパッカーをやっていた私は、縁があってシャプラニールのダッカ事務所にお世話になり、というより居候をし(そんな呑気な時代でした)、それ以来の付き合いということになります。年月の長さだけを言えば、それはお互いに歳を取ったというだけのことですから、ことさらにその長さを言い募ってもどうということはありません。ただ、この付き合いには、西暦2000年という節目の年があります。


西暦2000年問題など喧しかった21世紀の初めの年、和暦でいうと平成12年というなんだか平凡な響きの年、この年は私にとってもある意味運命の年でした(私は運命論者ではないので、天命とか運命とかいう言葉を使う趣味はありません。しかし、そうは言いながら「運命の年」などと言ってしまうのは、私の語彙力が乏しいからだと思ってください)。この年、中田さんと2度目の出会いがあったからです。この時の出会いの前と後では、彼との付き合い方が全く違います。それ以前は、親しいと言ってもたまに会えば楽しく語り合うだけの仲、これ以降はいわば共に同じ目的のために戦う同士とでも言う仲となります。ただし、その出会いのインパクトについて言えば、中田さんにとっては「青天の霹靂」、私にとっては「遅効性の漢方薬」のようなもので、その意味を中田さんに教えてもらうまで私は気づかないという理解の遅さでした。中田さんに何が起こったかということは、「途上国の人々との話し方」 の序章に詳しく書いてありますので気になる方は本を読んでいただくとして、中田さんにとって何が「青天の霹靂」だったか、ちょっと長くなりますがこの本から引用させてもらいます。それは、「外務省とNGOの共同評価」という行事で、その評価団に中田も私もメンバーの1人として参加し、ラオスに行った時のことです。

「…私は和田との再会を心から喜んだ。しかし、結果としてそれが私にもたらしたものは、旧交を温めるなどという生やさしいものでなかった。調査団の団長をつとめた和田は、行く先々の村で、率先して村人や担当職員へのインタビューを行った。その方法やスタイルは、私にとって実に衝撃的なものだった。…和田がやり取りを重ねているうちに、必ずと言って良いほど、人々の本音やことの真相が相手の口から飛び出してくる。それらの本音や現実は、私がバングラデシュやネパールの村人からは決して聞いたこのとない類のものだった。もっと言えば、私が無意識のうちに敢えて聞きだそうとしていなかったようなことばを、和田は、巧妙なインタビューによって、自由自在に引き出して見せたのだった。」 (「途上国の人々との話し方」17~20ページ)


中田さんはこう書いていますが、実は、私は何がそれほど衝撃的だったのか理解できませんでした。色々言い訳じみてきますが、そもそも「調査団」というのは、当時「外務省とNGO
の共同評価」という行事が毎年あって、政府のODAの資金をNGOが使うのがようやく軌道に乗り始めた頃、お互いの交流を深めるという趣旨で始めたことで、内容としては、JICAのプロジェクトとNGOのプロジェクトをちょっと視察、簡単に評価するということで、調査をして評価したところで何が変わるというほどのものではありませんでした。その調査団の団長といったところで、たまたま私が最年長ということでそういうことになっただけで、それだけのことです。そもそも、私はその年中部地方のNGOの代表ということで参加していたのですが、それもたまたまその時期スケジュールが空いていたのが私だけということで声をかけられただけで、中部地方を代表してなどというご大層なものではありませんでした。


前回の稿にも書いたように、この頃村人とのやり取りが楽しくなっていた私は、中田さんに「村のオヤジたちとのやり取りは任せてくれ」程度のホラを吹いていたような気がします。それで、中田さんたちは「じゃあ、やってごらん」と私に「率先して」やらせてくれたのでしょう。私にとって、ラオスという国はその時初めて訪れた国であり、その国について、そしてラオスの村についてはほとんど何も知らないという状態でした。結果として、村で色々話を聞いて、自分でも納得のいくやり取りができ、「なんだ、インドもラオスも、村のおっちゃんたちは変わらんな」という自分なりの達成感、そして「村人とのやり取りの技術」がインド以外でも通じることが嬉しかったのを覚えています。


しかし、中田さんがなぜ衝撃を受けたのか、正直言って私にはよくわかりませんでした。なぜなら、当時私にとって中田さんは言わば雲の上の人。こちらは地方の小さな、本当に吹けば飛ぶような無名のNGO。かたや中田さんは、東京の老舗のNGOであるシャプラニールのダッカ駐在員を勤めた後、阪神大震災の時は、阪神大震災地元NGO救援連絡会議事務局長代行、そしてその後セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン事務局長を務め、ODAを含めた援助業界ではそれと知られた存在でした。手がけたプロジェクトも私が当時やっていたささやかなものとは比較にならない規模のものです。しかも、この評価の対象となったのは、NGOのものは東京のある大手のNGOのもの、そしてODA(実施はJICAです)のものが二つ。そういう「本格的な」プロジェクトを目にするのも初めての経験でした。だって、当時はまだ日本のODAも景気が良く、JICAのプロジェクトなんて、始める前の「悉皆調査」では、プロジェクト候補地の航空写真まで撮るのです。まあ、言わば私にとってはキラキラした世界です。田舎の素人芝居の役者が、突如東京の大舞台に紛れ込んだようで、私としては、中田さんを頼ってその陰で小さくなっている(はたからそう見えたかどうかはわかりませんが)しかないわけです。


では、初めての経験でしたけど、この目で見たキラキラしたプロジェクトはどうだったかというと、エンドユーザー、いわゆる受益者と呼ばれている地元住民(この場合都会に住んでいる人は対象となっていないので村人ですね)とは随分とすれ違っているなという印象でした。この規模のプロジェクトを実際に見たことのなかった当時の私にも、何人も村人から話を聞いて分かったのは、いずれも金の切れ目が縁の切れ目、村人の自主的な活動も持続性もまず無理というものでした。


しかも、です。NGOの端に連なる私にとって意外というのか、これはまずいなと思ったのは、住民、コミュニティを直接対象として、いわゆる「参加型」でプロジェクトをやる場合のODAとNGOの差が全くないことでした。つまり、このレベルではODAもNGOもやっていることは基本的に同じということです。それはすなわち、一番肝心なこと、つまり現場の活動の質でNGOはODAを批判できないということで、ラオス一国の、それもODAのプロジェクトが2つ、NGOのプロジェクトが1つ見ただけなので、それをもって全体がどうのと言うことはできませんが、では自分ならこの規模でプロジェクトをやるならどうするということをいつも考えるというきっかけになりました。

で、中田さんです。この時、私はこれまで述べたように自分なりの収穫があったのですが、そのことが中田さんに何をもたらしたかなどと考えもしませんでした。ところが、中田さんがこの期間、だんだん私に質問をしてくるようになりました。「和田さん、今のインタビューどうやったの?」「へっ?どうって…(いや、相手が答えやすい簡単な質問しただけですけど、それが何か?)」などなど、私にとっては、聞いての通りで何が分からないのか分からないのです。でも、質問の内容が、なぜ私が質問するといつの間にか相手が本音を語るのかということらしいと分かると、「だから、魚を網の中に追い込んでいくように質問を組み立てるの」などと、今から振り返れば呆れるようなことを答えたりしていました。ま、実は私も自分が何をしているのかよく分かっていなかったので、それ以上の気の利いた答えは出てこなかったというのが正直なところです。しかも、私が自然にできるようになったことだから、こんなことは誰だってやっているだろうに、と当時は本気でそう思っていました。だから、中田さんが何に感心しているのかよく分からなかったのです。


でも、その後が楽しかった。中田さんがインドの私のフィールドに来たり、またこの翌年には、この外務省の行事と同じような行事で、JICAとNGOの共同評価というものがあり、その時も、中田さんと一緒にインドネシアに行くことになったりしたからです。その間、中田さんに色々聞かれることで、私にも自分が何をしているのか、だんだん見えてくるものもありました。それは次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

2023年3月22日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(9)

プログラムの進め方について、試行と錯誤を文字通り重ねつつよろよろと(やり方がよく分からないのと資金が常に足りないという二重苦によって)進んでいた頃、とにかく確かな拠り所が欲しいということで「数字に凝った」ことは、前回お話ししました。同時に、村人たちとのやり取りは次第に自由自在という具合になっていった頃で、これはこれで楽しくて仕方ないというレベルになりつつありました。何せ、話すごとに新しい世界が広がっていくのですから。ただ、この村人とのやり取りとプログラムの組み立てがうまく噛み合わない、結びつかないというのが当時の悩みでした。

村を構成する要素が見えてくる

ところで、村人の話を聞くつどに世界が広がる、というかどんどん村というジグソーパズルのピースが埋まっていくような感覚を持つようになっていた私は、自分でも気づかないうちに対話のコツを方法論的なものにまで高めていました。と言って、それをちゃんと言語化していた訳ではありません。あくまでも手順というか、こう質問してこう答えが来たら、次はこう聞く、みたいなものが整理されていったと言った方が正しいでしょう。 

以下は、これまでにもいろいろなところで紹介されている例ですが、分かりやすいのでここでも取り上げてみましょう。「鉈」です。村を歩いていると、よく腰のあたりに鉈をぶら下げた男たちに行きあいます。そんな時は、すかさず鉈を入り口にいろいろ話を聞いていきます。少々長くなりますが、お付き合いください。

私:あなたの腰に下げているそれ、なんですか?
村のおじさんA(以下A):これか?鉈だ。
私:ほう、それはなんに使うのですか?
A
:主に山仕事だな。枝を払ったり、蔓を払ったり、草刈ったり、いろいろだな。
私:その鉈、買われたんですか、それともご自分で作られた?
A
:鍛冶屋に頼むのよ。
私:鍛冶屋さんは、この村にあるのですか?
A
:いや、あそこに鍛冶屋の村があるだろうが。XX村だよ。
私:今使っている鉈を、
XX村で作ったのはいつ頃だったか覚えてますか?
A
:さぁて、いつ頃だったかな、10年前くらいかな。
私:
XX村のどなたに注文されたんですか?
A
Bさんだよ。いつも彼女に頼んでいるんだ。
私:そうですか。最近、何か
Bさんに頼んだことはありましたか。
A
:鋤の具合が悪くなったんで、新しく鋤を頼んだな。
私:それっていつ頃でした。

A
4月さ。5月あたりから、ぼちぼち田んぼの鋤起こしをやらにゃならんでな。
私:
Bさんには、頼む時いくらか払うんですか。
A
:いや、できた時に払えばいいんだ。
私:じゃ、それまでお金はいらないんですね。

A
:いるさ。材料の屑鉄を買って持っていくでな。
私:そうなんですね。屑鉄はどこで買うんですか。

A
:〇〇村の市場さ。
私:ほう、そうでしたか。この鉈のためにはどのくらいの屑鉄を買ったんですか。

A
:1キロだよ。
私:で、
Bさんに渡すと、この(と鉈を指差して)完成された状態で返してくれるんですね
A:いや、返ってくるのは鉈の身の部分で、柄は自分でつけるんだ。
私:そうでしたか。柄にする木はどこで取るんですか。

A
:家の裏庭のジャックフルーツの木さ。
私:その木は、
Aさんので?
A
:そうさ。
と、こんな調子で時間の許す限り、延々と続いていく)

 

もちろん、当時録音していた訳でも、その場で記録を取った訳でもないので、確かこんな聞き方をしていたなという記憶に基づいて復元(というほど大袈裟なものでもありませんが)してみたものです。この辺りまで聞いていくと、この後聞いていくこと、そしてここで時間がなくて終わってしまったら、次の機会に聞いてやろうと思うことが山ほど出てきます。もちろん、聞くネタはすでに集めてしまっているので、そのネタに従って他の人にも聞くことができ、益々村の生活についての知識が増えていくというサイクルがすでにできていました。 

「ネタ」から「ネタ」へ 質問が質問を生む

では、どんな「ネタ」が集まったのか、ちょっと見て見ましょう。 


まず、「鉈→山」です。「鉈を持って山仕事」という話題が出てきたので、適当なタイミングで鉈を使った山仕事のことをじっくり聞いていくことができます。この時は、鉈について聞いてやろうと思っていたので、主にそのことを聞いていきましたが、例えば、すぐに「これから山でどんな作業をするんですか」と聞いてみても構いません。自分だったらどういう風に聞いていくか、どんな話題が出てくるか、ちょっと想像してみてください。
 


次に、鍛冶屋が集まる
XX村という話題が出てきました。これも、しめしめと言いたくなるほどの情報の宝庫となりうるネタです。Aさんは鉈や鋤の他にどんなものをこれまで作ってもらっていたのか、それぞれの道具はどのくらいの頻度で注文しているのか(言うまでもありませんが、「どのくらいの頻度で注文するのですか」なんて聞いたらダメですよ)、全て、材料の鉄は自分で買って持って行っているのか、鍛冶の料金はそれぞれいくらか、バーゲンはするのか、他で頼むことはあるのか、などなど、ここでも聞くことは山ほどあります。 


さらに、「
5月にぼちぼち田んぼの鋤起こし」という話題が出てきました。現地では、5月といえば乾季の一番暑い時期です。こんな時に鋤起こしをするとはどういうことでしょう。どんなタイミングでするのでしょう。その後の作業は、一日のどの時間帯で行う?など、ここでも聞くことは沢山あります。 

さらに、柄の部分は自作でしたね。裏庭の、ジャックフルーツの木の枝を使っていました。ジャックフルーツは、巨大な実をつける木です。私のような者には、季節になったら出てくるフルーツ(もちろん都会でも青果市場やスーパーで売ってます)としての認識しかありませんでしたが、このような使い方を聞くと、他にも木の部位による使い方がありそうですね。ここでも、聞くことがいっぱい出てきます。さらに、裏庭にはどんな木を植えているか、山に植っている木で、自分が所有している、あるいは独占的に利用できる木はあるか、共有する木で利用しているものはあるか、などなど、話題の広がりはほとんど無限(大袈裟ですね)と言っていいものがあります。 


まだまだありますよ。〇〇村の市場についても聞くことは沢山あります。屑鉄の他には、何か一緒に買ったものはあるか、一番最近いつ行ったか、その時は何を買ったか、などなど。例えば、買うだけではなく何かを売るということもしているかもしれませんね。
 

頭の中でパズルの全体像を組み立てる

この鉈の例でわかるように、Aさんは、エンドユーザーでもあり、製作者の一部でもあり、また材料の供給者でもあり、と、私たちの消費者というイメージからは大分違った消費者としての在り方(とでも言うのでしょうか)があります。 


例えば、このように自分も消費者でありながら製作の一端を担うという消費の在り方ではなく、全く完成品を買うだけということはあるのでしょうか。その場合は何を買っているのでしょうか。そういうことも、確かめることができますね。そして、そのような「買うもの」の中で、何が
Aさんの村や周辺の村で作られているのか、何が他所から来るのか。 


このように、上記のこれだけのやり取りでも、村というものを重層的に理解し、村の全体図のジクソーパズルのピースを埋めていくピースを得ることは十分にできます。ただ、このように対話をしながら、そういうことが一瞬で頭の中で構造化できる、そのためには、やり取りの一つ一つをその場で分解しながら対話を進めていくという技術、能力がなければいけません。
 


私は、気がついてみると、活動を始めてから
78年経つとそのようなことを自由自在にできるようになっていました。そして、最初は苦痛だった村人とのやり取りが、楽しくて仕方がないという風になっていました。


和田信明(ムラのミライ海外事業統括)

 

 


村でサヤインゲン栽培についての聞き取り4

以前「認定トレーナー・前川香子のチェックポイント」とZoomセッションでサヤインゲン栽培の聞き取りについてアドバイスをいただきました。

以前の記事
村でサヤインゲン栽培についての聞き取り1
村でサヤインゲン栽培についての聞き取り2
村でサヤインゲン栽培についての聞き取り3


今回は、その後Aさんに追加で聞き取りをしたときの様子をご紹介します。

前回の聞き取りでは、昨年2月末に植えたサヤインゲン(種1kg分)を4月18日に収穫するという話だったので、今回はその結果(出荷量など)を確認しました。
今回は約10分と短い時間でのやりとりになりました。

私:4月18日から収穫と言ってた分は、全部で何回収穫した?
A:5回。あまり(量が)多くなかった。1回で20kgぐらいの収穫だった。
私:1回目の収穫も20kgだった?
A:1回目は大体(量が)多いよ。
私:1回目の量は覚えてる?
A:1回目は50キロで、2回目からはだんだん減っていった。
私:その時の買取価格は?
A:1キロ20バーツだった。
私:1回目50キロということは、(出荷額)1000バーツぐらい?
A:そう。それからは2回目800バーツ、3回目600バーツ、4回目400バーツちょっと、5回目は400バーツだった。
私:合計で3200バーツぐらいだね。
A:本当は良く育てば10回ぐらい収穫できるんだよ。(Aさんが) Cさんの畑に植えたときは1回目(の出荷額が)2000バーツぐらいになった。
私:それは何月?
A:6月。4月の収穫分は田んぼに植えた。畑に植えた方が本当は良く育つんだよ。
私:世話は同じようにした?
A:そう。
私:6月に植えた畑には前にも植えたことある?
A:初めてだった。2月末に田んぼに植えたのもその時が初めてだった。

サヤインゲン、花
出典:Flickr(Photo by:Forest and Kim Starr


私:2月に植えた分は育ちが良くなかったって言ってたけど、それは葉が付かなかったとか?どういう状態?
A:虫が根っこを食べちゃったんだよ。
私:2月に田んぼの脇に植えたサヤインゲンに付いた虫と同じ?
A:そうそう。最初は順調に育ってたけど、そのうち苗1本ずつ虫がついて(順番に)枯れていった。
私:どれくらい?半分ぐらい?
A:半分ぐらい枯れた。
私:それは多かったね
A:うん。もし枯れなかったら、本当はもっと収穫できてたな。
私:枯れたときは農薬撒いたりした?
A:何もしなかった。使ったとしても結果が出ないからそのまま放っておいた。
私:今後、またサヤインゲンを植える予定なの?
A:そのつもりだけど、まだ種をもらってない。
私:いつ(種を)もらう予定?
A:(今年)2月に植えるつもり
  (→種は蒔く1ヶ月前に王室プロジェクトの会議に出席して申請するシステム)
私:どこに植える?
A:まだわからない、多分Cさんの畑の下のところかな。

「世話は同じようにした?」は、曖昧な聞き方になってしまったなと感じました。
時間はかかりますが、6月は種何kg分植えたかや、作業の仕方などを順に聞いて2月と何か違いがあったか確認するのが良いでしょうか。

結果的に4月収穫分の出荷額は3200バーツということでした。
(前回の聞き取りによると投資額は500バーツ+α、植えてから約2ヶ月で収穫)

赤字は出ていませんが、前回の聞き取りではだいたいいつも種1kgあたり合計1万バーツ前後の出荷額になるとAさんが話していたため、それに比べると今回の出荷額は通常の3分の1程度だったことになります。

地域全体でサヤインゲンが枯れていた時期だったため、Aさんのサヤインゲン栽培に特別な問題があったわけではないかもしれません。
ただ枯れていってる最中に何も対策を取らなかったと話していたので、本当に効果的な対応策が無いのか、今後のためにも追って確認しておくといいかなと思いました。

寺田華恵さん
メタファシリテーション講座修了生/Chiku ChikuTong Tong (ちくちくトントン)

2023年3月1日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(8)

現場でのやり取りに手応えを覚え、農民(より大きな括りだと村人ですね。余計なことですけど、相手を農民と呼ぶ私は都会者とでも言うのでしょうかね)とのコミュニケーションに大分自信を持つようになったのですが、では実際にプロジェクトをするにはどうしたらいいのか、農民の本音のようなものがわかったところで何をすればいいのか、事業としての取り組みと農民とのコミュニケーションの間の繋がりがまだ見えていない、そんな時期に私はいました。この活動を始めて5、6年がたった頃でしょうか。

数字への入り口

この時期、私は数字に凝り始めていました。

具体的に何をしたかというと、まず植林をするのに正確な地形図がないのに音をあげてスタッフに測量トレーニングをしました。日本から測量の道具(古いやつです)を提供してもらい、尚且つこれも日本の測量の専門家たちに来てもらい(休暇を利用したボランティアです。飛行機代も何もかも自費で来ていただいています。今なら、もしこんな必要があったら、現地の専門家に謝礼を払って来てもらいますが)、CSSSのスタッフに測量のトレーニングをしてもらいました。しかし、みなさん、仕事の合間に休暇をとってきてくださっているので、現地に滞在していただけるのはせいぜい3、4日です。この期間でできることは、教えてもらいながら測量機器の操作をするのがやっとで、とても自分たちで地形図を作るところまではいきません。それでも、地形図がないと正確な植林計画ができない、特に斜面に植樹するときの苗の必要数が計算できないなど、スタッフに理解してもらうことはできました。

だからと言って、測量が定着したわけではないのは、インストラクターが側についていないとできない程度の習熟度だったからなのは明らかです。それに、もう一つ、私がそれから10年以上経ってから実行したことですが、この時はまだ村人に直接測量を訓練する、それもメジャーを使っての極めて簡単なものさえ行わなかったことです。まだそのことは当時の私には発想がありませんでした。どんなプログラムも、「村人のプログラム」などと偉そうに言っていた割には、本当は自分たちが持ち込んだ、支援者の支援者による支援者のためのプログラムだったという自覚がなかったのですね。

どのくらい足りないのですか?

ただ、この頃になると、数字に凝り出していた私は、数字を尋ねるということをしていました。例えば、村人から「水が足りない」と言われれば「どのくらい足りないのですか」という具合に。それに対して「あの田んぼを灌漑するのに足りない」と言われれば、「どの時期にどれだけの水が必要なのですか」と、具体的に問い返すことをしていました。また、これに加えて「水が足りない」と思うようになったのはいつからか、そんなことも尋ねるようになっていました。


このように問い返す、具体的な数字を尋ねるということを通して、幾つか学ぶことがありました。

まず、第一に村人たちは数量的に足りる足りないを把握しているのではないということ。必要量はこれだけだから、これだけ水のストックがなければいけないとか、これだけの容量の溜池が必要だとか、「水が足りない」ということの根拠は必要な時に十分な雨が降らなかったとか、井戸が枯れてしまったとか、溜池に水が溜まらない、あるいは干上がっている(乾季にはよくあることですが)とか、目前の現象としての水不足であり、だからこの耕作面積に対してこれだけ不足していたという数量的に把握した認識はありません。

第二に、水がなぜ不足するのかという原因についての考察がありません。いつ頃から水不足は始まったのか、始まった頃一体村で何が起こったのか、あるいは起こり始めたのか、そのことを問うということがありません。もっとも、偉そうにこういう私も、そんなことを考え始めたのは、もっと後のことですが。

第三に、水やり(灌漑)そのものについても、計画的に行なってはいません。

分析する枠組みの一歩手前で

以上のような学びはあったのですが、ではそれをどのような枠組みで検討すればいいのか、課題は果たして何なのか、そこまで突っ込んで考えていくには、当時の私はまだまだ経験や知識が不足していました。今思えば、水不足ということを村の時間軸上での変化という文脈に落とし込む、そして他の自然資源との関連において総合的に判断していくという知識も技術も、そして何よりも見識もなかったわけですが、そのような知見ができるまでには、後数年かかりました。


しかし、そのような知見も、ただ待っていても持てるようになる訳ではありません。私の現場での技術も、新たな知識を得てそれを自分の知見とするに必要なレベルに達するまで、それなりの進歩を遂げていました。それが具体的にどういうことか、次回に例を挙げて説明してみましょう。
 

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)