2023年12月28日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(20)

この連載は、一応今回で終わりということにします。タイトルで「できるまで」と謳っておきながら、「できてしまった」後のことまで延々と書いているので、看板に偽りありと言われそうですが、メタファシリテーションは、技法、教授法、そしてそれを支える制度までまだ発展途上なので、完成形ではないという意味で「できるまで」なんだとご了解ください。


「メタファシリテーションができるまで」の現在までを3つの時期に分けるなら、私が国際協力の世界で、自分で団体を立ち上げた1993年から2006年辺りまでが、メタファシリテーションの「ネタ」の仕込みの時期と言えます。この間、私の南インドの現場での悪戦苦闘があり、徐々に自分なりの方法論と言いますか、技術を身につけ始め、それに従って資金を調達する以外の現場仕事が楽しくなってきた時期です。この間、中田豊一さんとの第2の出会いがあり、彼が私の現場でのパフォーマンスに感心してくれ、彼と様々な議論をする中で、私自身の学びもパフォーマンスの向上もあり、自分のやり方があながち的外れなことをやっているのではないという自信がついてきた時期でもあります。


第2の時期が、2006年あたりから、中田さんがメタファシリテーション(当時はメタファシリテーションという言葉はありませんでした)の講座をやり始めた、つまり私の現場でのパフォーマンスを言語化し、体系化し、それを教授し始めた頃からの時期です。中田さんの偉いところは、この言語化という作業の過程で、様々な練習方法を自ら編み出し、それを自身で実践し、技術を身につけていったことです。そして、途上国の現場で現地のNGOや日本人の駐在員に、地元住民とのやり取りをやって見せて、技法の有効性を示していることです。自分で言うのも気が引けますが、「和田の現場でのやりとりはすごいんだよ、でも、こう言う理屈を理解してこうやって練習すれば、和田のようにできるんだよ」と言うことを実践しているわけで、まさに彼が体系化した技法の中身が「看板に偽り無し」ということを実証して見せています。


この間、2010年には、メタファシリテーションとは何か、ということを詳細に説いた「途上国の人々との話し方-国際協力メタファシリテーションの技法」を中田さんと私の共著で上梓しました。思えば、「メタファシリテーション」という言葉を公に使ったのは、この時が初めてです。そして、これ以降、私も中田さんが編み出した「メタファシリテーション」の講座を少しずつ講師としてやるようになってきました。このような講座をやることの最大の利点は、受講生の中からメタファシリテーションをより深く学び、自分も講師になるという人たちが出てくることです。言語化され、体系化された手法の凄さは、こういうところにあります。メタファシリテーションという手法として確立される以前は、私のパフォーマンスを実際に現場で見て、それを真似していく、つまりは徒弟制度の親方と弟子のような継承のされ方しかなかったわけで、中田さんも、当初はわざわざ私の現場まで訪ねてきて、私を観察するということをしていたわけです。しかし、手法として確立し、教授方法も確立してくると、多くの人が私を直接見ることなく、技法を学び、望めば自分で習得していく道が開けるわけです。おかげで、私が長年現場で直接鍛えた数少ない弟子たち以外に、講座の講師としてメタファシリテーションを広めてくれる人たちが、段々と増えていきました。


第3の時期が、2016年頃以降、現在に至る時期です。宮下和佳さんが中心になって、メタファシリテーションの制度化を積極的に進めてくれた時期になります。中田さんや私の次の世代に、メタファシリテーションが引き継がれた時期です。私は現場の職人、中田さんはいわば現場の思想家なので、きちんと制度を整えたり、さらに多くの人々へのアクセスをよくしたり、など必要性は理解していても中々できません。中田さんが開いた課程をステップ1からステップ3という形で展開し、教材を整え、ビジュアルの面でも工夫を凝らし、さらには、3段階の検定試験を設け、誰でも望む人は試験を受けて講師の資格を得ることができる認定トレーナーの制度を設けるなど、中田さんや私などの手を煩わせることは、何もなくなっていると言って過言ではありません。


何よりも嬉しいのは、次世代の皆さんそれぞれ、職場、子育て、医療、福祉など、そもそもの国際協力の現場を超えた分野で、メタファシリテーションを応用し実績を積み上げつつあることです。この後、どんな展開を遂げていくのか、楽しみです。今後、メタファシリテーションのプロジェクトでの応用など、まだまだ言語化しなければならないことがあるように思えます。それは、才能豊かな後輩たちがやってくれるでしょう。


最後に、蛇足であることを恐れずに言えば、私がのちにメタファシリテーションと名付けられた手法を発見し、その手法に熟練していくにつれ分かってきたことは、この手法を身につけると余計なことで思い悩むようなことがなくなってきたことです。もやもやしていることなど、その根拠が明らかになってみれば、なあんだ、こんなことでクヨクヨしていたのか、ということが多いのです。そうなると、私にとっての悩み事は、家族のために作るご飯を何にしようかということだけになります。歳をとるにつれてあれこれ出てくる体の不調はともかく、心だけは随分と軽くなります。
では皆さん、いずれまた。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 




2023年11月30日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(19)

のっけから横道に逸れます(って、いつもそうじゃないかというツッコミは無しに願います)。
今月の半ば頃(本稿を書いているのは、2023年10月)、膀胱結石の摘出手術を受けました。とても自力では排出できないほど肥大化した石が、私の体内に居座り続けていたわけで、それが膀胱まで降りてきて、「まあ、取った方がいいですね」と医師に言われ、「ではお願いします」ということで受けた手術です。別に開腹手術をするわけではなく、内視鏡ですかね、を尿道から差し込んで、中で石を砕いて摘出するというもの。順調に行けば1時間強で終わるようなオペです。

と、ここまではよかったのですが、私がびっくりしたのは、これをするのに全身麻酔をするということ。幸いにも(あるいは不幸中の幸いか?)、私は薬にもアレルギーがなく、これまで歯を抜いたり胃カメラを呑んだりしたときに部分麻酔をかけてもなんの問題もなく、今度も全身とは言え大丈夫だろうとは思ったのですが、正直、ちょっとビビりました。医師も、100%大丈夫だから、などとは決して言いません。万が一などと脅かされると(別に医師が脅かしているわけではありませんが)、元来が小心者の私は一抹の不安を抱えて手術に臨むことになります。で、終わってみればなんということはない、無事に手術も済み、この身もなんの問題もなく(血糖値とか尿酸値とかそういう話はこの際無しですよ)3泊4日で退院できたという次第でした。


で、何が言いたかったかというと、麻酔がかかっている間のことは、一切意識にない、記憶にない、つまり何が起こっていたのか全く分からないという状態だったということです。いつ麻酔で意識を無くしたのか、そしていつ麻酔から覚めたのか、全く分からず、いつの間にか「また」この世に存在していたという不思議な感覚を味わったのです。「また」というのは、記憶まで失ったわけではないので、己が何者かという記憶はあるわけで、人生の連続性とでもいうものはあった、和田信明は不滅だ、ではないにしても和田信明の人生は再開されたというわけです。


何を大袈裟な、普段でも深い睡眠の時は、記憶などないだろうに、とおっしゃるなら、その通りというしかないのですが、やはり、眠りに落ちてしまう前後がまるで違います。睡眠の場合は、うう、眠いな、眠いな、もう目を瞑って寝てしまおうという過程があり、そして目覚める前も妙な夢を見たり、あるいは尿意などを催したりして、夢現の中にぼちぼち目を覚まして起きるかなどという過程もあります。でも全身麻酔の場合は、このような諸々が全くない。いきなり意識がなくなり、いきなり目覚めている。気がつくと、あ、この世に存在していた、そんな感覚です。


それ以来、再び日常の些事に一喜一憂する生活をしているわけですが、思い返せば、この様な感覚は、あるいは似たような感覚はこれまでにも何度か持った記憶があります。それは例えば南インドの山の村で、インドネシアの南スラウェシの村で、イランのハマダーンの近郊の村で、あるいは…


この、あ、気がつくとここにいた(あるいは存在した)という様な感覚は、私の話し相手の村人のふとした表情と分かち難く結びついています。なんと言いますか、私が、あ、気がついたらここにいたという感覚を覚える時、相手は心持ち顔を横に向け微風に頬を嬲らせながら神々しいとでもいうほかない表情をしているのです。別にその人が神々しいとか、その人の人生が神々しいとか、そうではありません。そうではなくて、あえて言えば、存在自体の(その人の、ではありませんよ。存在すること自体の、とでも言いましょうか)神々しさとでも言うのでしょうか、侵し難さとでも言うのでしょうか、そんなものを感じさせる表情を、相手がふと見せるのです。この相手は名もない庶民、相対する私も名もない庶民、偶然この世に生まれ落ち、もちろん生まれ落ちた時間も場所も選んでいません。そして彼らも私も、日常の些事をこなしながら小さく、小さく地球の片隅で(死ぬまで)生きている、そんな感覚です。


ならば私はその「小さい、小さい些事(意味重複ですがあえて)」をできる限り知りたい、できる限り詳しく知り、相手と私、その場は狭い空間ながらも彼我の間に何か繋がるものがあるのか、見てみたい、といつの間にか思うようになっていたのでしょう。昔々、クロード・レヴィ・ストロースの本を、一生懸命赤線を引っ張りながら読んでいたら、「神は詳細に宿る」みたいなフレーズがありました。どの本のどのページだったか覚えていません。そもそも、読んだ内容も、このフレーズ以外はさっぱり忘れているのですから、私も余程学問からは見離された存在なのでしょう。でも、このフレーズだけはその時から半世紀以上経っても忘れず、今は、ひたすらこの「詳細」を知るために相手の話を聞いています。


そう、「詳細(英語で言うと‘detail’ですね)」には神か何かは知りませんが、明らかに何かが宿っているのです。相手の話を丁寧に、詳細に(分解して、というメタファシリテーション定番の方法です)聞いていくと、その人の個人史もさることながら、その人が生きてきた時代、環境の変化など浮かび上がってきます。そして、「彼らの問題」ではなく、彼我を貫く問題まで浮かび上がってきます。言い換えれば、社会や文化や文明の問題ではなく、中田豊一さんが言うように「私の問題」が浮かび上がってくるのです。中田豊一さんが練り上げた、そして、彼に続く認定トレーナーたちが日々改良を加えているメタファシリテーションを使う醍醐味は、まさにそんなところにあります。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月16日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(18)

前回は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません、というか、相手の腑に落ちるような譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということをお話ししました。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません、ということころで終わりましたね。

メタ認知と言ってもそんなに難しいことではありません。自分だったらこんな時は楽をしたいな、休みたいな、そんな時にどうしたら自分はモチベーションが上がるだろうか、など具体的な状況で自分ならどう反応するか、それを自分の胸に手を当てて正直に考えてみればいいだけの話です。それでも、これがなければ、相手に対する想像力も働きません。こうあるべきだ、などというメタ認知が決定的に欠けた上から目線では、相手の共感も何もあったものではないということです。相手に対する想像力が働けば、こんな状況ではどんな発想をするだろうかという想像も働きます。そして、そのような発想に沿った、相手の身近な習慣、話題、などを例え話として話すと、相手の腑に落ちるという可能性は高まります。


以下は、私の例え話の「最高傑作?」として、中田さんが「途上国の人々との話し方」(みずのわ出版、2010年)p336〜337に紹介してくれたものです。インドネシアのスラウェシ島北部の海岸沿いのバジョ族(海洋民族です)の村での話です。その村を訪れた時、村を案内してくれた女性リーダーが、「みんな(プラスチックゴミを)ポイポイ捨てるものだから、ご覧の通り村はゴミだらけです。(略)なにかいい方法はありませんか」と私に相談しました。そこで私は同行していた村人たちにこう語りかけました。

和田「命はどこから来ますか。」
村人「アッラーからいただいたものです。」
和田「では、終わったら誰に返しますか。」
村人「地上の生命が終われば、アッラーにお返しします。」
和田「そう、アッラーにいただいたものは、アッラーにお返しする。」
和田は天を指しながらそう言うと、次に波打ち際のプラスチックのゴミを指差して尋ねた。
和田「このゴミは、もともとはどこから来たものですか。」
村人「お店で買ったものです。」
和田「その商品はどこから来たのですか。」
村人「町の工場でしょうね。」
和田「これを捨てた人はどこに返したのですか。」
村人「海ですね。」
和田「工場から来たものを、この人は海に返したのですね。あなたたちはアッラーから来たものはアッラーに返すと言いました。では、工場から来たものはどこに返さなくてはならないのですか。」
村人「工場です。」
厳粛な顔つきになった村人に、和田が言い添えた。
和田「町から来たものは町に返す。陸から来たものは陸に戻す。海から来たものは海に返す。これがエコロジーです。」

この例え話はよく覚えています。その時の詳しい状況は、もう忘れてしまっていますが、村の海の波打ち際にプラスチックのゴミが散乱していたことは、よく覚えています。この浜辺にプラスチックゴミが散乱しているという光景は、このスラウェシ島のバジョ族の村ではなくとも、現在は途上国の海岸の至る所で目にする光景です。日本の海岸も、散乱というほどひどくはなくとも、プラスチックゴミを見かけます。敢えて言えば、この「海辺のプラスチックゴミ」が象徴する課題を私たちムラのミライは、彼我の共通の課題として解決するために、日本と途上国で活動しているのです。この辺りの事情は、中田と私の共著「ムラの未来、ヒトの未来」(竹林館 2016年)に書いていますので、よかったら読んでみてください。

さて、話を戻せば、例え話をするとして、毎回クリーンヒットというわけにはいかないので、できのよかったネタは覚えています。このバジョの村での話も、よく覚えているのですが、残念なのは、できがよくても2度と使う機会は巡ってきません。私の場合の例え話とは、その場の状況に合わせてその場で思い付かなければならないもので、同じ状況が2度と巡ってこない以上、せっかくいいネタを思いついても、その場で1度使えば終わりということです。

まさに、そのような状況そのものが滅多にはないことですが、状況が巡ってくれば私は「神様ネタ」を時々使います。私自身は特定の宗教、信仰に帰依することがこれまではありませんでしたが(そして、これからもないのではないかと思っていますが、何が起こるか分からないのが人の世の常、断定はしないでおきましょう)、他人の信仰は尊重します。途上国では敬虔な信仰心を持った人が多いし、特に回教国では、そのように感じます。彼らは、たとえ研修中でもお祈りの時間が来れば、研修を中座して、祈りを捧げに行きます。ここで紹介した例え話は、そのような彼らの信仰心への信頼とも言えるものがなければ出てくるものではありません。彼らの敬虔さ、誠実な信仰心を日頃感じていたからこそ、このような例え話を真摯に受け止めてくれるだろうという確信めいたものがあり、その場で咄嗟に出てきた話だったわけです。

ところで、この例え話は私が一方的に話したものではなく、あくまでも私が問いかけ、相手に答えてもらうという形をとっています。そして、「掴み」のところの「命はどこからきたか」という問いかけ以外は、すべて事実を聞いています。つまり、メタファシリテーションの基本に沿って対話を組み立てています。くどい様ですが、相手が多数でも、例え話をするときも、必ず問いかけ、相手とともに事実を確認していくというのが基本です。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月7日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(17)

おばあちゃんがふむふむと頷いてくれるような例え話

前回の続きから。おばあちゃんにどんな例え話をすれば、空気中の酸素の存在をそれなりに納得させることができるか、というのがお題でしたね。みなさん、何か思い付かれましたか。私のは、こうです。


「サンバル(南インドの、野菜がいっぱい入ったいわば“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るとき、何を入れる?」。
恐らく毎日のようにサンバルを作っているおばあちゃんは、即座に材料を答えてくれる。
「じゃあ、ダル(ま、これも豆の“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るときは?」。
これも毎日作っているので、即座に材料を答えてくれる。
「で、この二つに共通の材料は?」。
ふむふむと考えながら、これもおばあちゃんは答えてくれる。そこで、次の問い。
「この中で、入れると溶けちゃって見えなくなる材料は?」。
数秒の間ののち、「あっ、塩だ!」とおばあちゃんは答えてくれる。
「そうだね。塩は溶けちゃうと見えなくなるね。でも、入っていないと食べてみれば絶対分かるよね。」
おばあちゃん、頷く。「塩の入っていない料理なんて、考えられないよね。」
おばあちゃん、これにも当然だという表情で頷く。
「料理に塩が入っていないと、料理にならないように、空気の中にも、見えなくてもないと困る、それがあるから私らが、息ができる、それが酸素というものなの。」ここでおばあちゃんは、なるほどという表情で頷く(はず)。

実際には、集会の後で思いついたので、こういう風に行ったかどうかは分かりませんが、まずこんな感じで行けたのではないかという予想というか、確信というかは、これまでの経験からあります。残念ながら、この譬え話のネタはこれまで使う機会がなく、これがあの時できていればなぁ、という私のほろ苦い経験としていつまでも覚えています。だいたいうまく行った時の話なんてすぐ忘れてしまうものですが、失敗というか、後でああすればよかった、しまったな、という経験はいつまでも覚えているものです。

無自覚な上から目線

ところで、海外協力、援助(国内の支援活動でも同じことが言えますが)をする側が陥りやすいのが、自らの使命の高尚さ、崇高さとでも言うのでしょうか、理想の社会の実現に向けて活動をする、しているという思いの強さ、思い込みの強さが、ともすると相手にも理想の姿を求めてしまう傾向があります。決してスーパーヒューマンを求めるのではないにしても、これはコミュニティのためだから、このくらいは無償でボランティアするのは当たり前、自分の健康のためだから毎日薬を飲むのは当たり前、子どもの学校を建てるのだから積極的に協力するのは当たり前、自分たちのための施設だから、自分たちで管理運営していくのは当たり前、などなど、相手側の役所、住民に対してこのような期待を持ってしまうことが多々あります。というか、ほとんど百パーセントがこんな具合ですかね。

なぜ私が確信を持ってそんなことを言えるのか。それは、私たちのところに持ち込まれる国際協力NGOの相談事が、全て「相手がこちらの期待通りに動かない」というものだからです。これは、相談を持ちかけてくれるNGOの規模の大小には関わりません。それこそ、その名を聞けば誰でも知っているような大きな団体から、みんなが無償ボランティア、予算規模も年間せいぜい100万円前後というような小さな団体まで、事情は変わりません。


メタ認知が欠如すると例え話はできない

こんなことが起こる理由は、簡単です。それは一言で言えば、要求する側のメタ認知が足りない、あるいは全くないからです。平たく言えば、あんたは他人に理想のあり方を求めるほど理想的な人間か、ということ(つまり、他人に要求するようなことを、自国で、自分の生活圏で、自分の日常でやっているか?ということ)に対する自覚がない、ということに尽きます。

そうやって、自分の胸に手を当てて考えてみると、プロジェクト先の住民には地域の保健委員として家庭訪問を定期的に巡回することを要求しながら、自分は住む地域でボランティアをやったこともない、せいぜい年に一度か二度お祭りなどのイベントに参加するだけだ、などということはザラにあります。ましてや、外国の任地に長期間いる場合、本国でそのような時間はないということです。


また、地域の助け合いが必要などと呼びかける側の地方自治体職員が、自分は家には寝に帰るだけで、地域の助け合いどころではないというのもよくある話で、これも自分のことは棚に上げて、という例です。

当然ながら、自治体の職員はいくつものプログラムを兼務して極端に忙しいという方も大勢います。ですから、問題は、さまざまな事情があって地域のボランティア(持続的、かつ定期的な)ができないことではありません。問題は、そのような自分に対するメタ認知があるかどうか、そして、自分がそうなら働きかける相手も十分にそのような事情にあるのではないか、という想像力があるかどうかの問題です。

しかも、働きかける方は、給料をもらいながら仕事としてそれをやっている。働きかけられる方は、特に途上国では、それでなくても身を粉にして必死に働いて生き延びている。例え、家庭の主婦といえども、朝から晩まで厳しい労働をしている(水汲み、農作業、薪取りなどなど)ので、自分が地域でボランティアができない以上の厳しい条件にあるかもしれないということです。


要は、そのような想像力もなく(従って必要な配慮もできず)、そしてメタ認知もないのに上から目線で偉そうに相手に要求するなということです。しかも、住民参加というのはこのような現状認識に立って、初めて築き始めることができるものなのです。で、例え話は、実はこのような現状認識がないとうまく使えないということを言いたかったのですが、そこに辿り着くまでに長々と語ってしまいましたね。

要は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません。というか、相手の腑に落ちる譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということです。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません。

この続きは、次回。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)


2023年10月23日月曜日

思春期の子どもとのコミュニケーション講座ができるまで

子育てに活かした3原則とメタファシリテーション(R)

私(中田)が、メタファシリテーション(R)手法のもともとの創設者である和田信明の開発援助の現場でのあまりに見事な対話術に出会って驚愕したのが2000年。
それを自分のものにすべく練習を始めたのですが、その際に私が練習相手に選んだのが、一番手近にいて、しかもやり取りにいくらでも時間を割ける2人の子どもでした。

本格的に練習を始めた2002年頃、娘が10歳、息子が6歳ほどでしたが、その後、彼らが大学を出る頃までの間、対話術の練習と試行、さらには体系化のための分析にフルに利用させてもらいました。


そこで依拠した主な原則は、次の3つでした。

1)「なぜ?」「どうして?」と聞かない

特に、終わったことに対して、「なぜ〇〇しなかったのか?」とは絶対に尋ねない。

2)相手が求めてこない提案(アドバイス)をしない

相手が求めてこない提案やアドバイスをこちらから与えることを厳に慎み、できる限り質問の形をとる。

3)他者との比較をしない・一般論に基づく働きかけをしない

「〇〇君はこんなことができるそうだが、お前はできないのか?」などという他者との比較、あるいは「お姉ちゃんなんだから、〇〇すべき」などという一般論に基づく働きかけは決してしない、などでした。

これだけの制約を自分に課すだけでも本当にたいへんでしたし、それに代わる働きかけ方を見出して実行するのはますます容易でありませんでした。

対等で信頼関係に満ちた親子関係と子どもの主体的な進路選択

しかしながら、これらを地道に積み重ねていった結果、私の対話術は着実に上達し、さらにうれしいことには、子どもたちとは対等で信頼に満ちた関係が築かれて行ったのです。それが、子どもたちの自由で主体的な進路選択にも繋がったようです。
長い人生ですので、これからもこの関係が続くかどうか、その選択が本当によかったかの保証はまったくありません。とはいえ、子育て期間を振り返ってみて、業務上の目的のために子どもたちを練習台に使わせてもらったことが、結果としてお互いにとっての豊かな関係に繋がったことは、幸運以外の何ものでもありませんでした。

成果がでる/でないの分かれ道

今さらながらですが、この経験を、私に比べれば年若い皆さまと共有することで、よりよい親子関係のために少しでもお役に立てていただければという思いから、この手法の開発と普及に努めてきたわけです。
関係は複数の要素の相互作用で成り立っています。
コミュニケーションの改良だけで、確実に改善するという保証はないわけものの、これまでの経験から改めてわかったのは、成果が出るかどうかは、まず、ご自分の状況をどのように受け止め、それに基づき、どう自分を変えていけるかにかかっているということです。
 
中田 豊一(ムラのミライ 代表理事)

 

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2023年10月10日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(16)

今回は「例え話」の話から。


前回、一対多のやり取りでは、集会に集まった参加者の中で一番所在なげな表情をしているおばあちゃんをボトムラインに置く(というとモノみたいですが、要は、このおばあちゃんに話に加わってもらえないならこの集会はダメな集会だという基準になってもらう、もちろん私がそう心の中で定めているという意味ですよ)ということをお話ししました。そのボトムラインのおばあちゃん、ほぼ百パーセント動員され、そして話を聞いても分からないしつまらない。あるいは、分からないからつまらない。だから、集会が終わるまでぼんやりと過ごすしかない。こんなところでしょうか。難儀なことです。

そのおばあちゃんの胸中は、察するにあまりあるというほどではありませんが、私自身の類似の体験といえば、学校時代の入学式とか卒業式のうんざりする祝辞でしょうか。話に引き込まれて、思わず聞いてしまった、というような経験は皆無です。私の人生で他人の迷惑になったことがないと言い切れることは、自分がこのようなうんざりするような祝辞を述べる立場になったことがない、ということだけです。


さて、このようなおばあちゃんがいる集会で、私がなすことは、おばあちゃんが興味を持って話題についてきてくれる、発言もしてくれる、そんな集会にすることです。その手始めは、壇上から降りて会場のみなさんにできるだけ近づいてから話すこと。物理的に距離を縮めてしまうことですね。みなさんが床に座っている時は、私もなるべく床に座るようにします。これも、物理的に「上から目線」を解消するわけですね。もっとも、一旦座ってから、また立つこともあります。それは、会場の後ろの方から「おい、顔が見えないぞ」というリクエストというかクレームというか、声がかかった時です。少々あざといようですが、要は、これだけでも「こいつは何を話すんだろう」という期待を持ってもらうことができます。その期待が高まったところで、私が最初にすることは、会場に問いかけることです。例えば、こんな具合に。


「私は、今年で〇〇歳になりましたが、この会場で私より年上の方はいらっしゃいますか?」


すると、おずおずと手をあげるおばあちゃん(おじいちゃんの場合もあります)が大概いますね。ここで、おばあちゃん(場合によってはおじいちゃん)の歳を聞くようなことはしません。出生届とかないところで年寄りに年齢など聞いても、適当な答えが返ってくるだけです。自分でも、自分の正確な年齢など知らないでしょう。で、何を聞くかというと、
「あなたは、この村のお生まれですか。」から始めます。


すると、「いんや、ここではねぇ。〇〇村からお嫁に来ただよ。」というような答えが返ってくる確率が高い。こういう場合は、次に「お嫁に来たのは何年前か覚えてますか。」と聞きます。「さあて、50年以上前になるかねぇ」と答えが返ってくれば、大体15歳から20歳の間に嫁入りしてきたと考えて、このおばあちゃん、65から70歳くらいかな、という見当がつきます。今の日本では、70歳などというとまだまだ現役。でも、途上国の草深い田舎の村の70代と言えば、もうヨボヨボと言った見かけになります。きっと、日の光を浴びながら、日中激しい労働をしてきたのでしょうね。


私の知る限り、農村の女性は、朝暗いうちから夜遅くまで働き詰めです。朝暗いうちに起きてトイレを済ませ、というのはオープントイレットですからね。人目を避けなければいけません。そして、朝飯の用意をする、ミルクティーを作る、それもかまどの火を起こすところから始めます。朝飯を済ませると、家畜の世話、農作業などたくさんの仕事が待ってます。子どもがいたら、子どもの世話をしなければいけないしね。あ、忘れてました。朝飯前に、沐浴しますね。井戸端で、バケツ一杯の水で。この間、男どもは、トイレを済ませる、沐浴する、ミルクティーを飲みながら駄弁る、と、まあこんなところです。その間、女は水を汲みに行ったり、薪を撮りに行ったりと、くるくる働くんですね。都会と違って、時間はゆったりと流れてはいますが、それでも大変な労働量であることには、違いありません。そうやって年齢を重ねてきたおばあちゃんですからね、限りない共感を持って話を聞きましょう。

さて、何年前にお嫁に来たのか分かったら、ここから他の人たちも巻き込みながらさまざまなことが聞けます。例えば、「お嫁に来た時、この村に何家族いたか覚えてますか?」とか。「さあてね、何家族(何軒家があったかでもいい)いたかね。〇〇家族くらいだったと思うがね。」と答えが返ってきたら、「他にその頃を覚えている方、いますか。」と全員を見渡しながら聞いてみます。すると、大概は「覚えてる、確かに〇〇家族くらいだった。」などという声が聞こえてきます。この辺りから、おばあちゃんを入り口として、私と村人全体、は大袈裟として、少なくとも集会に来ている人たち全員とのやりとりが始まります。その頃、どこまで森はあったか、あの山の木はどのあたりまで生えていたか、田んぼや畑はどの辺りまであったか、水はどこから汲んでいたか、井戸はいくつあったか覚えているか、など、集団としての記憶を辿っていくことができます。こういう時は、多数を相手にしている利点が出てきますね。個人では思い出せない時も、他人の記憶によって自分の記憶が蘇ってくる、なんてことはよくありますからね。で、こんなやり取りを重ねていくと、ああ、あの頃は山全体が木で覆われていたのに、頂上付近にほとんど残っていないな、など、過去と現在の違いがみんなに明確にビジュアライズされていきます。この辺りから、樹木と保水の関係、土壌の流出が水の保全に及ぼす影響とか、漠然とした知識ではなく、どのようなメカニズムが具体的に働き、彼らの日常の営みに具体的にどのように関わっているのかを徐々に考えていきます。もちろん、私が問いかけ、彼らの答えを促す、そうしながら少しずつ知識を導入していく、という場面になっていきます。このような時に、知識を落とし込むのに有効なのが「例え話」です。

例えば、こんな風に始めます。「あの山を見てください。雨が降ると何が起こりますか。」すると、「水が流れる?」などの答えがおずおずと返ってきます。「そう、水が流れますね。どんな風に水が流れる?」と再び問いかけると、ここで皆は考え始めます。その時、私は、近くにいる髪のふさふさした男性を指差し、「例えば、この方、はい、立派なお髪をお持ちですね、と、私が一緒に朝水浴びをします。その時、二人同時に頭から水を被ります。どちらの髪が早く乾きますか?」。そう、こういう時都合がいいことに、私の髪は申し訳程度にしか残っていません。少々あざといやり方ですが、なるほどそういうことかという表情がこの頃になると皆の顔に浮かびます。「山に木がないと、水が流れてしまって、すぐに乾いてしまう。木があると、水はすぐには流れないし、すぐには乾かない。地面に沁み込むチャンスが大きいんだ。」とこんな具合に考えて答えてくれます。そこで、私は続けます。「私の頭も昔からこんな寂しい状態ではありませんでした。昔は、ふさふさしていて、頭を洗うと、髪が乾くまで時間がかかったものです。さて、あの山も、先ほど話されていたように、昔は木で覆われていた。その頃は、2年や3年で新しく掘った井戸が干上がってしまうなんてことは、なかったのではないですか。」と、詳しくは書きませんが、これ、みんなとやり取りをしながら、その場で得た情報を再びみんなに返していくところです。


ま、髪の毛の例え話がうまい例えかと言われれば、私としては苦笑するしかないレベルの例えですが、要は、その場の皆がすぐに分かる、身近な例を持ってくるということが肝心なことなのです。これなら、おばあちゃんも時々笑いながら、最後まで付き合ってくれます。

ところで、いつも都合よく例え話が見つかるわけではなく、おばあちゃんに分かってもらえるように説明できないこともあります。その中でも特にこれからお話しする例は、何年経っても忘れることができない、私にとっては悔しい思い出です。


ある村で、植物が酸素を出してくれる、これが空気中にないと私たちは呼吸ができないということを説明しようとしてどうしてもおばあちゃんにすぐに分かってもらえるような例え話をその場で思いつかなかったことがあります。目に見えないものを、つまりおばあちゃんが、これだと目や肌で確認できるものではないので、どう説明したらいいのか。だから、集会が終わる時も、おばあちゃんの顔には?が残ったまま。うーん、悔しい、と思いながら集会場を後にして、帰りの車に乗った途端に、思いつきましたよ。いい例え話を。どんな例えだと思います?


答えは、次回ご紹介します。言ってみればなあんだ、というような話ですが、皆さんも考えてみてください。ヒントは、おばあちゃんも恐らく何十年と毎日やっているあれ、です。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 


 

2023年9月25日月曜日

再開します、思春期の子どもとのコミュニケーション講座

コロナ禍で中断

コロナ禍以前から、思春期に入った(入る直前の)お子さんとどう接していいのか、戸惑っている方の声を、私の周囲ではかなり頻繁に耳にしていました。
成長過程での一過性の問題で済む場合がほとんどなのでしょうが、この時期の親子のコミュニケーションの齟齬が、運悪くお子さんの心に傷を残したり、親子関係を将来にわたって損ねたりすることも少なくない現実を垣間見てきました。

ムラのミライの子ども・子育て支援チームの講師たちは、国際協力の現場では最強のコミュニケーションツールとして知られるメタファシリテーション(R)手法を使って、日本国内で子育てに悩む親御さん向けに研修を開催し、2016年以降、子どもとのコミュニケーションでも大きな成果を挙げてきました。特に小学校低学年くらいまでのお子さんを持つ保護者を対象にしたものは、コロナ禍の間もいろいろな形を取って続けてきました。

しかし、思春期の子どもたちとのコミュニケーションを扱う講座は、2020年以来中断されてきました。そこには、オンラインだけでは微妙なニュアンスを伝えにくいとい事情があったためです。

しかしながら、一般のメタファシリテーション(R)講座(ステップ1〜3)子ども・子育て支援者向けの講座の参加者などから、思春期の子どもとのコミュニケーションに特化した講座を開催してほしいとの要望が多く寄せられて来たことを受けて、対面での講座が可能になった今、思春期の子どもとのコミュニケーション講座(以下略、思春期講座)を再開することになりました。


2019年から2020年にかけての思春期講座でわかったこと

2019年から2020年にかけて、コースごとに回数などは違うものの、合計3コース、延べ20名(講座回数、受講人数要確認)の講座を実施したところ、少なめに見積もって半分以上の参加者が、3回目の講座までに、お子さんとの関係がはっきり変わり始め、回を重ねるうちには、不登校などいくつかの深刻なケースにおいても、顕著な進展が見られたとの報告を受けています。
この手法をお伝えすることで、よりよい親子関係を築くための一助になること、そして、それによってお子さんの心身の成長に少しでもお役に立てると、関係者一同、強く思うようになってきました。

新講座をお勧めしたい保護者の皆さん

新思春期講座は、10歳から20歳くらいまでのお子さんとのよりよいコミュニケーションを望む保護者の方にお勧めしたいと思っています。
お一人の参加も、パートナーとの参加もどちらでも歓迎いたします。
講座で扱う内容は、親子間の日常的・一般的なコミュニケーションで、コミュニケーションや関係作りが深刻な状況にある場合も想定しています。
但し、不登校、引きこもり、DV、知的障害、発達障害などがある場合は、既に専門の支援機関に相談し、何らかの対処を始めているケースに限ることにさせていただきます。
それがまだの場合、個別の対応が必要となり、大きな時間とエネルギーを割かざるを得ない可能性があります。
他の受講者の方とのバランスを考慮して、この講座へのご参加は残念ながら遠慮願うこともありますが、該当するかどうか明確でない場合は、まずはご相談ください。
学習支援など、思春期のお子さんたちの居場所に勤務されておられる方や、教育、福祉などの専門職の方も、ご自身で養育されている思春期のお子さんとのコミュニケーションに実践していただける場合に限って、ご参加いただけます。

 

新講座の3つの特徴

講義・練習・互いの実践内容の共有と検討を繰り返しながら、コミュニケーション技術を習得していきます。少人数(定員4人)で丁寧に進めていく予定です。

1)    自己肯定感を高める対話の仕方を学ぶ

「事実質問」を使って質問を組み立てることで、お子さんの自己肯定感を高め、信頼関係を築くことができます。それが、主体性を育むことにも繋がります。
講座では、まず「自己肯定感を下げるやりとり」と「自己肯定感を高めるやりとり」を識別できるようになり、次によりよいものに変換していくための考え方と対話術を習得します。
たとえば、「どうして〇〇しなかったの?」のような質問の形を取った押し付けや非難を止め、当人の気づきを促すことができるような質問に変えていくスキルと関わり方を学びます。これまで無自覚だった自らのコミュニケーションのクセに自覚的になることさえできれば、誰でも習得でき、実践できる技能で、構成されており、この部分が講座の中心になります。

2)コミュニケーションの場の作り方を学ぶ

思春期に入ると、親子のコミュニケーションの時間が少なくなるのは自然です。
それに従って親はせっかくの機会を、提案や助言、場合によっては、何かを問いただすために使いがちですが、前のめり過ぎると、両者の距離をかえって遠ざけることになります。
講座では、コミュニケーションの場を意識的かつ計画的に作り出し、活用する技術を学びます。

3)感情的になった場合の対処方法を学ぶ

メタファシリテーション(R)の基本的な姿勢は、感情的にならないで、自分のコミュニケーションのあり方を冷静に観ることにあります。
とはいうものの、よそ行きの顔をする必要がない家族を相手にすると、つい感情的になるのは自然なことです。
しかしいつもそうだと対話は深まりません。講座では、冷静にお子さんと向かい合うためのセルフモニタリングとセルフコントロールの方法を、メタファシリテーション(R)手法の原理に基づいてお伝えします。

以上の3つを数回の講座で、すべて詳しくやるには時間的に無理があるものの、参加者の皆さんの実際の状況などを材料に使わせていただきながら、最低限のことは、具体的かつ実践的にお伝えします。
講座の日程や参加費などはホームページをご覧ください。
思春期のお子さんを持つ保護者の皆さんのご参加をお待ちしています。

中田 豊一(ムラのミライ 代表理事)

2023年9月1日金曜日

メタファシリテーションのできるまで(15)

JBIC(国際協力銀行)、JICA(国際協力機構)でやらせてもらった専門家とは、私にとっては、ある意味では武者修行のようなものでした。両方あわせて年に平均2、3回はやらせてもらったので、随分と色々な場所、と言っても主に村ですが、に行かせてもらいました。


JBICはインドです。インド一国と言っても、面積で日本の約9倍、隣の州まで行くと言っても、主に飛行機で移動するしかありません。同じ州内でも飛行機だったり夜行列車の寝台車で行ったり、州が変われば言葉も変わり、食べ物も大分様変わりします。イメージとしては、ロシアを含まないヨーロッパくらいの広さで様々な国に行ったようなものでしょうか。


JICAでは、インドネシアです。インドネシアも東西5千キロ、首都のジャカルタは日本と2時間の時差がありますが、東の果てのパプア州は、日本と何千キロも離れているのに、日本との時差はありません。ですから、インドでもインドネシアでも、村といっても地方によってそれぞれ成り立ちから言葉から違います。でも、その言葉の違いというのは、私にとっては特に困ったことではなく、何せ日本語と英語しか私には使えないのですから、どのみち通訳を介して住民とやり取りをするということになります。


ところで、この足掛け10年にはなる私の武者修行で何をしたかというと、一対一ではなく一対多のやり取りの修行です。修行といっても、一回ごとにそれなりにうまく行かなければ、次の仕事が来ませんから、それこそ毎回真剣勝負といったところでしょうか。


インドでもインドネシアでも、本当に沢山の村に行きましたが、インドとインドネシアでは、今思えば村への入り方に、というより村人との最初の接し方に大きな違いがありました。これは、別に私がインドとインドネシアで村人との接し方を変えたというのではなく、そもそもの背景の違いです。インドでは、州政府の森林局を相手の仕事でしたから、どこの村に行くにもお役人がゾロゾロ付いてきます。そして、村では大きなテントが張ってあったり、集会所であったりで、すでに壇上に椅子が並べられ、村人は一段低いところに座って待っている、そんなしつらえでした。まさに、最初から「上から目線」の設定です。それに比べて、インドネシアでは、村に行くのはNGOの職員と地方政府のお役人、平たく言えば、村役場、町役場のお役人ですから、地域住民との距離は州政府レベルのお役人よりはずっと近いのです。ですから、最初から村人とは、少なくとも同じ平面で対面し、こちらが気を付ければ「上から目線」になることはありませんでした。もっとも、この「上から目線」、自分がそうなっているという自覚がある人は、援助業界では残念ながらほとんどいません。むしろ、善意の塊のような人たちが、「相手に寄り添う」などと言いながら無自覚に「上から目線」になっているのがほとんどなので、ある意味タチが悪い。ところで、インドネシアですが、同じ目線で対面するというのは、この国が回教国であることがそのことにある程度寄与しているかもしれません。何せ、回教は対人関係がフラットですから。


それに比べて、インドは圧倒的な階級社会。何せ、ヒンドゥー教が多数の国では、人間そのものがカーストという階級で分けられていますから。これに、経済力やその他の要因で、明らかに目に見える形の階級社会となっています。まあ、その中でも役人の世界は階級社会の権化のようなもので、ほんの僅かなエリートが圧倒的な権力を握っています。この話をしているとキリがないのでやめておきますが、そういう背景なので、村に行くと常にひな壇が設けられていて、前に並べられた椅子に座るのは、キャリアのお役人たち、そして私ということになります。目の前には、明らかに動員された村人たちが座っています。正面には、いかにも村の有力者みたいなおじさんたち。そしてその他大勢。その他大勢のすみっこの方には、何でこんなところにいるんだろうと、所在なげな表情の婆ちゃんたちがポツポツと何人か。この婆ちゃんたちこそ、私のターゲットです。どういうことかというと、集会が終わった時に、婆ちゃんたちの表情から所在なさが消え、いや、なかなか面白い集まりだったべさ(何弁だ?というツッコミは無しで願います)という表情が浮かんでいれば、私と集会にいた村人たちとのやり取りは成功ということです。


私は、日頃から私のトレーニングを受けるNGO、NPOの職員のみならず、公務員でも、住民と直接やり取りする可能性のある人たちには、たとえ相手が80歳を超えた非識字者の女性でも10歳の子どもでも分かるような表現で話してください、と伝えています。これは、幼児語を使って話せばいいということではありません。そうではなくて、例えば「分析」とか「評価」とかいう概念を、80歳を超えた非識字者の女性でも10歳の子どもでも分かるような表現で伝えることができますか、ということです。先進国では、年齢、性別に関係なく、中等教育を終えていない人というのはごく稀だと思われますが、途上国では、特に農村部では、高齢の女性は小学校も行っていないという例がまだ珍しくありません。しかしながら、高齢の女性とはいっても、まだ現役で何らかの作業労働をし、家族に貢献している人が多いのです。住民参加を謳うプロジェクトなら、彼女たちを無視していいわけがありません。また、彼女たちは隣近所のおしゃべりの中心、あるいは中心とまではいかなくても重要なメンバーであることが多いのです。そうすると、自分で理解し、納得できたことは、そのような場で話してくれる可能性があります。話してくれるということは、言語化できなければいけないわけで、自分がしゃべる言葉に、集会で聞いたことが落とし込まれていなければなりません。私が集会で彼女たちをボトムラインに置いて話を進める所以です。


さて、これから少し演技力が要求されます。と言っても、ほんのちょっと体を動かすだけです。壇上から降りて、集会参加者に近づきます。そして、そこで床に座ります。これで参加者と同じ目線になります。場合によっては立ったまま話すこともあります。それは、人数が多くて、後ろの方の人に私が見えない場合です。ま、大した演技ではないのですが、これでまず掴みはOK。皆が私の方に好奇の目を向けてくれます。一体このおじさん、何をするんだろう。これで、最初に私が発する言葉を皆待ってくれるという状態になりました。

 

私:この中で、一番お年を召した方はどなたですか。
しばらく待つと、隅の方で婆ちゃん一人がおずおずと手を挙げます。こうなると、期待通りの展開なので、私はしめしめと思い、こう聞きます。
私:私は、〇〇歳ですけど(相手の歳を聞くときは、このように自分の歳を最初に言います。ちなみに、私も今は爺さんですが、当時はまだ還暦前でおじさんでした)、あなたはおいくつですか。
婆ちゃん(以下O):わしゃ、80だよ。(実際は、おそらくそれよりずっと若い。村で高齢者に年齢を聞くと、のきなみ80歳だと答える傾向にあります。)
私:お生まれは、この村ですか。
O:いや、A村じゃよ。
私:ということは、この村にお嫁に来たんですね。
O:(笑う)
私:お嫁に来たときは、何歳だったか覚えてますか。
O:17、8だったかねぇ。
私:お子さんはいらっしゃいますか。
O:おるよ。4人。
私:一番上のお子さんがお生まれになったのは、この村に来てから何年後だったか覚えてますか。
O:翌年だったかね。
私:息子さんですか。娘さんですか。
O:息子だよ。
私:(他の参加者に対して)この中で、この方の息子さん、いらっしゃいますか。

すると、参加者の中の一人のおじさんが、恥ずかしそうに手を挙げて、
男:俺だ、俺だ。
私:あなた、今お幾つですか。
男:53歳だよ。
私:なるほど。(ここで心の中で計算し、おばあちゃんは70歳前後でこの村に来て55年くらいということが分かる)

ここで、再びおばあちゃんに向かって、
私:あなたがこの村に来た時、森はどのあたりまであったか、覚えてますか。
O:ああ、あの〇〇があるところまであった。

ここで、再び他の参加者に対して、
私:他に、その頃のことを覚えている方、いらっしゃいますか。

この問いに対して、おじいさんが一人声をあげる。
O J:覚えてる、覚えてる。確かに、あそこまで森があった。
私:あなたは、その頃おいくつでした。
O J:小学校に通い始めてたかな。

と、こんな調子で始めて、これから、当時森で何をしていたか、薪は?牛の牧草は?その他に利用していたものは?そして、だんだん森が遠のいていく、あるいは減っていったことで何が起きたのかを聞いていきます。そうすると、今は遠くまで牛を連れて行かないと放牧できない、そして、他の村と草地をめぐって争いが起きている、薪も以前は1日かければ必要な分量を確保できていたのに、今は2日以上かけないと必要量が確保できない、それも覚束なくなっている、などという話が出てきます。そうなると、森は大切だなどとお役人から説教されて、そうだそうだと上べだけで頷いていたのが、森が日常の自分ごととして意識されるようになってきます。ここからが、住民参加の始まりです。どうです。ここまで来れば、話のきっかけを作ってくれた婆ちゃんに感謝、ですね。

 

次回は「例え話」についてお話しします。
 

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)

 


2023年8月3日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(14)

2000年代に入るとにわかに慌ただしくなった我が身、というほどでもありませんが、自分の団体以外の仕事が入るようになってきました。と言ってもJICAの短期専門家とJBIC(国際協力銀行)の短期専門家ですけどね。当時、ODAの方も機会があったらNGOを使ってみようという風潮(?)があったようで、インドでもJBICが活動をしている日本のNGOを調査していました。調査は東京の老舗NGOシャプラニールが委託されていて、下澤嶽さんがわざわざパタパトナムまで来てくれました。2002年のことです。その後、下澤さんが好意的に報告してくださったのか、南インドのある州政府の森林プロジェクトのインパクト調査の予備調査をやってみないか、というオファーをJBICのインド事務所からいただきました。2週間ほどの期間だったと思います。それまで契約を交わして、仕様書に従った仕事をするなど、しかもそれらがいきなり英語です、やったことがなかった小さな、けし粒のようなNGOにとっては、難儀なことでした。でも、どうにかこうにかやり遂げて、なんだか数十年ぶりで学生に戻った気分で、英語で報告書を書き上げ、提出しました。これがその後累積で数千ページになる英語での報告書の最初の一つとなったわけで、まさか50歳をすぎてこんなことをするようになるなんて、人生なんて分からないものです。その報告書が合格だったみたいで、その後、半年にわたる本調査も発注していただけました。この本調査は、本当に助かりました。なぜなら、その時、JICAの草の根技術協力プロジェクトが一つ決まっていたのですが、インド政府の許可がいつ来るのだろうかという宙ぶらりんの状態で、最も困ったのが、お金がないということ。どうやってJICAのプロジェクトが始まるまで生き延びようか、という状態だったのです。最も慢性金欠状態の小さなNGOにとっては、珍しいことではなかったのですが。


私たちが従事したインパクト調査の対象は、住民参加型森林プロジェクト。南インドのある州政府森林局のプロジェクトです。資金はJBICが供与していた日本の円借款、つまり円借款プロジェクトだったわけですね。確か5年のプロジェクトで、私たちが調査に入ったのはその最終年だったと記憶しています。まあ、確か何十億円というプロジェクトですから、私たちのようなささやかな団体からすれば、台所の隅からいきなり大きなスタジアムの真ん中に引き出されたような、そんな感覚ですかね。別に、私たちがこのプロジェクトをやったわけではないのですが、いきなり大掛かりな仕掛けのものに関わらなければならないというので、こんな気分にもなったわけです。この調査をするために、まず調査チームを立ち上げなければならず、わがムラのミライ(当時はソムニード)から原康子、ラマ・ラージュの3人、そしてJBICに紹介されたインド人の専門家が5人、タミール語-英語の通訳が2人、がメンバーとなりました。私がチームリーダーということで、実際に調査のマネージメントは原さんとラマに頼り切り。二人が頑張って取り仕切ってくれました。この時にチームに専門家として加わってくれた5人のうち3人は、その後、何度も一緒に仕事をするようになり、しかも3人ともそれぞれの専門分野では、私の師匠ともいう存在になりました。このお三方は、それぞれ灌漑、植物(森林)、マイクロクレジットの専門家で、しかもいわゆる机上の専門家ではなく、それぞれの活動で長年の経験と実績を持った方々でした。これから約10年というもの、随分と彼らと一緒に仕事をすることになりましたが、仕事をするたびに実地で勉強させてもらうという役得がありました。門前の小僧みたいなものですが。最も、植物の師匠には、「お前は、いつまで経ってもマンゴーとカシューナッツの木しか見分けられない」と呆れられたものです。


カシューナッツ

さて、この仕事は私の「それから」に大きな学びを与えてくれました。学びは二つあります。まず、第一に、この仕事を通じて私は「マイクロ・ウォーターシェッド」という考え方を学びました。なぜこんな考え方を私が学ぶことを得たかというと、関わったプロジェクトが、このマイクロ・ウォーターシェッドという枠組みで村単位の森林管理をしていたからです。この考え方が、私にどのように村を俯瞰的に見るかという視点を与えてくれました。まあ、いわば村を理解するための枠組みのようなものです。「ウォーターシェッド」と言うのは、日本語では分水嶺です。例えば、「〇〇峠は、日本海側と太平洋側を分ける分水嶺です」などという言い方を耳にされたことがあると思います。一つの地域にこの分水嶺はいくつもあります。特に周囲を山や丘で囲まれている村があるとすると、その村は、要は分水嶺で囲まれていると言うことができます。そして、この村は分水嶺から流れてきた水が集まったところから流れる渓流や川、あるいは地下水を利用して暮らしを営むことになります。さらには、この村の周囲の自然、森や林、草原などもこの水を利用して成り立っています。このような枠組みが与えられると、自然資源の維持管理なども総合的に、系統的に計画、実施することができます。この話をしだすと、キリがないのでこの辺でやめておきます。ところで、この考え方がメタファシリテーションのどこにどう関わるのか、それはおいおいお話しすることにします。

マンゴー

二番目は、「住民参加型」ということについての学びです。何せ、調査したプロジェクトが前面に押し出しているのが、この「住民参加型」。プロジェクトの柱となるコンセプトが「Joint Forest Management」、つまり政府と住民が「一緒に(joint)」に森林管理をしようというのです。これには、それまでの政府森林局と国有林周辺の住民(周辺の村の住民ということですね)の長い確執の歴史がありました。はっきりと言えば、森林局にとって住民は取り締まりの対象でしかなかったのです。住民から言えば、森林局は自分たちの資源を使うことを取り締まりの対象とする圧政者、よく言って煙たいお上というわけです。この数十年、インドの森林は危機的状況にあります。有体に言えば、森林が荒廃していっています。その大きな原因が周辺住民による囲い込み、違法伐採、家畜による被害などです。で、森林局の職員は、違法伐採の取り締まり、囲い込みに対する裁判、など、住民に対しては、警察や検事みたいなことをするのが、仕事になっていました。しかし、それではキリがない。それでは、いっそのこと住民にある程度国有林を利用する権利を与え、その代わり地域住民が森林を保護、管理する組織を作って森林の保護育成を図っていく、というのがこのジョイント・フォレスト・マネージメント(共同森林管理)というわけです。


これは典型的な「住民参加型」のプロジェクトです。で、どんなプロセスを踏んでいたかというと、まず対象となる村に「管理委員会」を組織してもらう。そしてその「管理委員会」と共同森林管理の協定書を取り交わす。この協定書には、簡単に言えば、住民がしていいこと、してはいけないこと、どんな権利を森林に対して持つかなどが書いてあるわけで、共同管理のバイブルみたいなものです。そして、そのような共同管理をするご褒美として、5年間の村の開発プロジェクトを実施します。そのために作られるのが「マイクロ・プラン」。村でどんなプログラムを実施するのか、年度ごとの計画が記載されています。これだけ見ると、なんだか素晴らしい「住民参加型」のように見えますが、そうは問屋がおろさない、というのが実態でした。私がここで学んだのは、本当に住民主体で何かをやろうとしたら、絶対こういうプロセスを踏んではいけない、ということでした。この教訓は、その後私たち自身がやったプロジェクトに反映され、住民参加型、というより住民主体のプロジェクト、住民主体の活動を作り出すのはこうやればできるのだ、という方法論を確立するのに随分と役立ってくれました。反面教師として。


だって、これまで警官のような制服を着て、場合によっては鉄砲を持って違法伐採者や違法開墾をする村人たちを追いかけ回していた現場の森林局職員が、急にニコニコしながら村にやって来て、「お困りごとはありませんか」、「こんなプロジェクトを一緒にやりませんか」などと言っても、すぐに相互の信頼関係が生まれるはずがありません。で、「お困りごと」を聞くと、村人はここぞとばかりに「ああして欲しい」「こうして欲しい」というおねだりをします。すると、本来は、村の主体的開発計画になるはずのマイクロプランは、おねだりリストと化します。そして、プロジェクトの初年度に、予算が許す限りの「おねだり」を実現してしまうと、後は、マイクロプランの存在は忘れられます。あるいは、マイクロプランの存在は村の有力者しか知らない、さらに極端な場合は、村人は誰もその存在を知らないという場合さえあります。ですから、村人がマイクロプランの存在を知っているだけでも、それは大したものだ、という認識を私たちは持つようになりました。とほほ、な話ですけどね。この州の話ではありませんが、私が別の州で調査をしていて、村人に、この村の開発計画はどこに書いてあるかという質問をしたときに、「マイクロプラン!」と即座に村人が答えたのに感心したことがありました。ところが、ではそのマイクロプランを読んだことはあるかと聞くと、これもまた即座に「ない!」と答えるではないですか。思わず「なぜ?」と聞くと、「英語で書いてあるから読めない」そうです。この時、そばにいた森林局の偉い人が、そっと耳打ちしてくれました。村人のおねだりを全部マイクロプランに書いてしまった。ところが、それを全部やる予算がない、この村には有力な政治家がいてなぜ実行しないんだと追求されると困る、だから、村人には読めない英語だけのマイクロプランを作った・・・。これを聞いた私と中田さん(中田さんもこの時は調査団のメンバーでした)は、思わずその場で吹き出しそうになって、笑いを飲み込むのに必死でした。


また、この頃はマイクロクレジットが大流行りで、どこの団体も、政府系であろうと、西欧のおきなNGOであろうと、多くの組織が競い合うようにマイクロクレジットを村に、都会のスラムに持ち込んでいました。やり方としては、女性にマイクロクレジットのグループを作らせ、そのグループにクレジット(貸付金)を与えるというものです。その代わり、グループでは貯金をする、その貯金を銀行に預け、それが貸付金に対するギャランティーになる、ざっとこんな仕組みです。貸付金は、やれ教育資金だの起業資金だのとお題目がついている場合が多かったのですが、借りる方にとっては、それは建前。私の知る限りそのほとんどが生活資金として日々の消費や他の借金の返済に消えていくものでした。この共同森林管理のプロジェクトも、そのプログラムの一つとしてマイクロクレジットをやっていました。実は、植林をした際、苗木の天敵はヤギや羊です。新芽を食べてしまうから。だから、このプロジェクトでは、ヤギを売ったらクレジットを与えるというふうにしていました。で、ある村のある女性グループに話を聞いたところが、その答えが以下のよう。
「ヤギを売ったのですか。」
「はい、売りました。」
「で、貸付金はもらえたのですか。」
「はい、もらえました。」
「その貸付金は、何に遣いましたか」
「ヤギを買いました。」
これには、私も、彼女たちの話を聞いていた他の調査団のメンバーも腹を抱えて笑いました。グループのおばちゃんたちも、一緒に大笑いです。この会話は一部を切り取ったものですが、このようなおばちゃんたちの本音話を聞き出すためには、それまでにどのようにどのように話を聞いていくかにかかっていることは言うまでもありません。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 


2023年7月11日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(13)

運命の2002年、というと大げさですが、この年がメタファシリテーションの誕生の年だと言っても過言ではありません。より正確に言えば、私が生み出した「職人技」が、皆が学べる体系化、理論化された手法となるその一歩を決定的に歩み出した年と言えます。


さて、その2002年に何が起こったのか、中田さんの語るところによるとこうです。2002年の初め頃、バングラデシュでシャプラニール(日本の草分けのNGOの一つで、中田さんもそのバングラデシュ駐在員を1986年から1989年まで務めていた)の現地スタッフに対して「和田のインタビュー術」の研修をすることになった中田さんに突如啓示があったのです。「私はまだその時分では仕組みを解明できていなかったのだが、ここは何とかやるしかないと腹を括って彼女らの前に立ったところ、次のようなやり取りのアイデアがふと頭に浮かんできた…」(「途上国の人々との話し方-国際協力のためのメタファシリテーションの手法-」みずのわ出版2010年p28)


この「ふと頭に浮かんできた」アイデアが、その後メタファシリテーションの研修では必ずと言っていいほど出てくる次の3つの質問です。

「朝ごはんには、あなたは何が好きですか」
「普段、あなたは(朝ごはんに)何を食べていますか」
「今朝、何を食べましたか」


この時、中田さんはこの3つの質問のうち「事実を聞いている質問」はどれですか、と尋ねています。いうまでもなく、事実を聞いているのは3番目の質問です。ただここで中田さんにとって決定的だったのは、「事実を聞く質問」と「事実を聞いていない質問」を区別することができるようになったことです。つまり「事実を聞いていない質問」とは何かということを明確に認識できたということが重要なのです。


前回も書きましたが、私のインタビューが事実を聞く質問で成り立っているということは、実は中田さんはすでに分かっていました。もう一度その部分を引用すると、「とにかく和田のインタビューは、シンプルだった。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけだ…」(「前掲書p21)と2001年のインドネシアでの観察をもとにすでに「単純な事実」をと書いています。ただ、私がしていたのが事実を聞く質問だったとして、では自分が質問をするとき、果たして自分が事実を聞いているかどうか、それをどのように即座に判断するか、その判断の基準は何か、それが中田さんの課題ではなかったかと、この「途上国の人々との話し方」のこの部分を読み返してみて思うのです。そしてその答えをゆくりなくも見つけたのが、この啓示とも思える瞬間、上記の三つの質問を思いついた瞬間だったと思うわけです。


それが心理学の本を読んで得た知識の、たまたまの援用であったわけですが、質問をこのような形で解析した例を私は他に知らないので、これはまさに中田さんの慧眼であったというほかないわけです。しかし、我ながら間の抜けた疑問だと思いますが、では私はこのような知識も慧眼もなく、なぜ「単純な事実」を延々と聞くというような芸当ができたのでしょうか。いまさらでお恥ずかしいのですが、この本を読み返してみるまで自分でこんなことを考えたことは今までなかったのです。無意識にやってしまうのが、恐らく中田さんの言う「職人技」という事なのでしょうが、そもそもなぜこういうことができるようになったのか、ということを考えたとき、行き着くのはこの連載の第6回に書いた村人へのインタビューです。この一連のインタビューを始めるにあたって私が心したことを、このように書いています。

「私がこの時心に決めていたことは、知らないことは虚心坦懐に聞くこと。聞いたことがある程度で知っているつもりにならないこと。曖昧なところは、相手が不快にならない限りははっきりするまで確かめること。」(メタファシリテーションができるまで 6

これはいわば心構えであって、では実際にこれをどうやって実現したかというと、知らないことを聞くということは、自分だったらどうするのか、どのような手順で何をするのか、ということを聞くようにしたということです。例えば田植え。田植えという言葉は、日本人なら誰しも生まれてから恐らく数え切れないくらい耳にする言葉です。で、5月あたりになると、田植えをする。田植えとは、田んぼに水を入れて苗を植える。そんなことを知っています。そのような映像をテレビで見る、いわゆるその季節になるとニュースで流される定番の年中行事の一つ、そう言っていいでしょう。でも、いざ自分で田植えをすると想像してみると、何から手をつけていいのか分からない。朝起きて、田んぼに出かける前に準備することは何でしょう?道具は?一反当たりどのくらいの苗を準備する?そもそも、何時頃田んぼに出かける?やったことがないのだから、知らないことだらけ、というより、ほとんど何も知らないと言ってもいいくらいです。そういうことを一つ一つ、田植えの前、田植えの最中、田植えが終わってから、という順で聞いていきます。このとき行うのが、「田植え」というイベントを細部にわたって分解するということです。分解できるのは、当然ながら行為です。感情や考えは、分解できません。また、分解するとなると、「普通何時に出かけますか」などという一般的な聞き方もできません。つまり、一つ一つ事実を聞いていく以外の選択肢はないのです、というより、私の場合は、本人はそれと自覚せず(そんなことを考えたこともなかったので)「自動的」に事実のみを聞く質問をしていたわけです。


このようなことをやり始めた頃は、即座に分解して質問を繰り出すなんてことはできません。ところが、幸運なことに村でのインタビューは通訳を介してのインタビューで、質問をする、通訳が入る、答えがくる、またまた通訳が入るというやり取りでしたので、分解して次の質問を考える間が持てたのです。もちろん、相手の答えで次の質問も変わってくるわけですから、答えが予想通りでその答えに対して用意していた質問がそのまま使えたなんてことがそうそうあるわけではありません。だから、そんなに余裕があったわけではないのですが、それにしてもあまり焦らなくていい程度の間がありました。しかし、だんだん慣れてくると、即座に分解でき、そして相手の答えもいくつか予想し、それに対して質問もいくつか用意しておく、なんてことができるようになってきました。そうなると、インタビューもスムーズに運ぶようになります。そのようなスムーズに運んだ例の一つを、中田さんは次のように紹介しています。


「私たちは、南スラウェシのある村で、農家の若い奥さんを相手に、マイクロ・クレジットの使用状況などについてひとしきり聞き取りを行った。…和田は、例によって事細かな質問を重ねていった。…彼女が、借りたお金をどのように使い、そこからどのような利益があったのかなかったのかが、具体的に浮かび上がってきた…インタビューを切り上げる際に、和田は(彼女に)ねぎらいの言葉をかけた……すると彼女は…私のことを聞いてもらって本当に嬉しかった…と嬉々とした顔で応えた。…和田は、このやり取りを、現地語と日本語の通訳を介して行っていたのだが、通訳を務めてくれた現地出身の大学の先生が、その後、私に陶然とした表情でこう漏らした。『なんてすごいインタビューなんでしょう。まるで二人の間に私がいないみたい』通訳たる自分の存在を、彼女自身が忘れるほどに、二人のやり取りが自然でスムーズだったということなのだろう。」(同p20)


会心のインタビューなんて、そんなにいつもできるわけではありませんが、こんなこともあるのです。しかし、会心とまではいかなくとも、相手の答えに対して連続して質問を繰り出すということは、練習を重ねればできるようになると確信をもって言うことができます。


次回は、インタビューを超えたメタファシリテーションの技術へ至る道です。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)



 

2023年5月17日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(12)

すでに書きましたが、2000年代に入ってから、私はそれまで片田舎(って旧態然とした言葉遣いですね)に逼塞していたのが急に大都会のキラキラした雑踏に放り込まれたような具合になりました。2000年の外務省NGO共同評価については前々回と前回のブログで書きました。翌年の2001年には、今度はJICA・NGO共同評価というのがありました。今度はインドネシアです。今度の評価対象はJICAのプロジェクトだけ。そのプロジェクトのタイトルはズバリ「コミュニティ・エンパワーメント・プログラム」。通称はプロジェクトの頭文字をとってそれをインドネシア語読みにして「チェップ」。内容は米や牛を配るという、端的に言えば物を配るプロジェクトで、何がJICA的に画期的だったかというと、地元のNGOと組んでそれを実施した、実際に村で活動するのは地元インドネシアのNGOだったというところです。この評価には、NGO側から当時シャプラニールの職員だった長畑誠さん、中田さん、そして私が参加しました。中田さんも私も2年続けてこの種のプログラムに参加することになったわけですが、中部と関西でたまたま空いていたのが私と中田さんだったということで、私にとってみればそれまで行ったことのなかったインドネシアに行けてラッキーというところ。それにインド以外で地元のNGOと交流する機会が初めてだったこともあり、とても楽しみでした。

結果としていろいろ収穫がありましたが、一番の収穫は「チェップ」を担当していた西田基行さん、と友だちになれたことでしょう。彼は、当時JICAインドネシア事務所に企画調査員として勤務されていました。でも、JICAに勤務する人としては一風変わった人で、言ってしまえば役人臭の全くない、気さくなお兄さん、それもとても頼りになるお兄さんとでもいう人でした(今ではすでにお孫さんがいらっしゃいますが)。彼の一番の「特技」とも言えるのは、誰とでも分け隔てなく仲良くなれる、まさに私にすればその爪の垢でも煎じて飲みたいほどの社交性でした。気さく、気取らない、難しいことは言わない、ということで当時JICAのプログラムを実施していた、というか現場の実行部隊だった地元のNGOの皆さんとも肝胆相照らす間になっていることは、側で見ていてもよくわかりました。


その彼が現場のリーダー(現場に出るJICAの職員、正規、契約に関わらず、というのは極めて稀ですね)として頑張っていた「チェップ」ですが、私たちのような口うるさい者たちには、JICAとしてはNGOと直接コラボしていて画期的だけど、コミュニティ自立支援というお題目に照らせばただのばら撒きですね、という評価しかできませんでした。それを「自立支援事業」は一生懸命やったけど「自立支援」はできなかったね、というような表現で彼に伝えたような覚えがあります。彼が偉かったのは私たちの言ったことの意味を理解するために、インドネシアのNGOの活動家たちを2年連続して中田さん、長畑さん、そして私のところに送り込んできたことです。結果として、私たちのところに研修に来たNGOの活動家たちは大変身を遂げてインドネシアに戻りました。その結果を見て、西田さんは新たなJICAの技術協力プロジェクトを立ち上げました。その名も「市民社会の参加によるコミュニティ開発」。タイトルだけ見ても何をするのかさっぱり分からないプロジェクトで、しかしそこにあった彼の思いは、「JICAが主導するのではなく、現地のNGOがイニシアティブをとって、村人とともに村づくりをする。そんなプロジェクトを、JICAとNGOが連携して進めていきたい」(西田基行著「PKPM -ODAの新しい方法論はこれだ-」文芸社2008年p72)というもの。今思うとよくもまあこんなプロジェクトをJICAが裁可したもんだと思うのですが。このプロジェクトの成立こそ、2001年のJICA・NGO共同評価の落とし子と言っても過言ではありません。そしてこのプロジェクトが私に大きなチャンスをもたらしました。


私は、2004年から2006年まで短期専門家として毎年3ヶ月このプロジェクトに関わりました。ここでの私の役割はファシリテーター養成研修。これがまたJICAとしては前代未聞で、私のやる研修には一切縛りなし。思うままに組み立て、思うままに実施するという、つまり私のやりたいようにトレーニングしてくださいというもの。西田さんがプロジェクトリーダーでなかったら、こんなことは不可能だったでしょう。私が何をしたかというと、東インドネシアの10州から集まる地方行政官、NGOの活動家を村で活動するファシリテーターとしてトレーニングすることと、トレーニングの後、フォローアップのために彼らの現場を訪ねてその場で必要な指導をすることでした。おかげでインドネシア東半分の様々な村を訪ねることができ、また当然ながら村人の話をじっくり聞く機会を得ることができました。


ところで、この頃私のフィールドでのパフォーマンスはどう見られていたのか、西田さんの前掲書からちょっと長文になりますが引用させてもらいます。文中ファリー、アスハール、エディとあるのはいずれもこの通称「PKPM(ペーカーペーエムと読んでください)」プロジェクトで私の研修生だったインドネシアのNGOの活動家たち。特に、ファリーとアスハールは、このプロジェクトのインドネシア人専門家となり、私が研修の後先に地方周りをするごとにどちらかが私に同行してくれました。

「私たちは3台の車に分乗してアマイ村に向かった。ファリーとアスハールが同乗を拒むので、私(西田)とエディが和田さんの車に乗り込んだ。2人はそれまでも和田さんとともに、いろいろな村を訪問していた。その際に目のあたりにした和田さんの驚異的なスキルに、すっかり自信をなくし萎縮してしまったのだ。南スラウェシ州のとある村を訪問したときには、たった300メートル歩いただけで、ミラクル和田は『この村には馬が6頭いる』と当ててしまった。さらに『果樹は〇〇と〇〇、全部で6品種自生しているな。田んぼの広さは25ヘクタールくらいだな』、とすべてを的中させた。『村の農業普及員さえ知らないのに、なぜわかるのですか?』とアスハールが聞くと、和田さんは一言こう答えたそうだ。『村に入るまでに見たことを言っただけだ』『ぼくたちにはとてもできない。和田さんに突然何か聞かれたら困るから、いっしょに車に乗るのはいやだ』2人そろってこう訴えたのには笑ってしまった。」(同p125)。


私に言わせれば、こんなことは驚異的なスキルでもなんでもないのですが、同行していたファリーとアスハール、そして現地で出会ったNGOの活動家たちに、まずは村をよく観察しなさいということを分からせるためにこういうことをやっていました。実際に地元のNGOの活動家たちが村のことを知らないことは呆れるばかりで、しかも困ったことに本人たちは村のことをよく知っているつもりになっている。ファシリテーター養成の第一歩は、彼らのこのような思い込みを取り除くことからでした。

この引用文に出てくる「とある村」では、某国の「〇〇エイド」という機関が「貧困削減プロジェクト」をやっていました。さすがに、一国のODAを担う機関ですので、やることも大掛かり。インドネシア全国展開で、実施は地元のNGO、そしてどうもその上に国レベルのコーディネーターと呼ばれるNGOの活動家たちがいて、実施レベルの地元のNGOを指導するという体制らしいのでした。事業は「住民参加型」で、村人と一緒に村の地図を作る。どんな地図かというと、村の世帯を「富裕層」、「貧困世帯」そしてその「中間の人々」に分けて地図に落とし込むというもの。そして見事「貧困世帯」のステータスをもらった人々には「収入向上」事業をしてもらうという内容でした。もちろん「〇〇エイド」がやることです。プロジェクトの実施要領を記した分厚いマニュアルがあります。地図の作り方も詳細に説明されています。まあ、やり方としては当時はやっていたPRA(Participatory Rural Appraisal:参加型農村調査法)の焼き直しですけど、内容の説明を聞いた時、思わず吹き出しそうになりましたね。これを、村人を巻き込んで大真面目にやるんかい?ということで、付き合う村人も大変だなあと。最初に、アプリオリに「富裕層」、「中間層」、「貧困層」というカテゴリー分けをしてあるところから、すでにこれは調査としてはアウト!です。そして、「貧困層」はどんな人々かと言えば、「1日に1食しか食べられない人」とくるのですね。私の目の前に、村のオジサンが1人いたので、試しに彼に聞いてみました。「調査の結果、あなたはこの3つのどの層に入りましたか?」「貧困層だよ。」「ところで、今朝、朝食は食べましたか?」「食べたよ。」「昨晩夕食は食べられましたか?」「食べたよ。」「昼ご飯は?…」という具合に聞いていくと、3食毎日食べています。ちなみにオジサンのお腹はぽっこりと出ていて、栄養のバランスはともかく量的には十分か十分以上にとっていることは明らかでした。中田豊一風に言うなら、架空の現実を元に展開される典型的な「開発援助劇場」でしたね。


さて、だいぶ寄り道をしてしまいましたが、ファリーやアスハールも含めて、のちに私の弟子になる人たちは、私の目立つと言うのでしょうか、見た目で分かりやすいパフォーマンスには感心するものの、私が村人たちと行う基本的には一問一答のやりとりにはあまり関心をはらいませんでした。彼らが感心するところの私のパフォーマンスというものは、観察もさることながら実は村人たちとのその場での一問一答(のちにメタファシリテーションと呼ばれるようになった、コミュニケーションですね)の上に成り立つということには、この時点ではまだ気がついてもらえませんでした。ただし、私が彼らに現場で聞くこと、指摘することは相当インパクトがあったようで、3年間私のトレーニングに耐えた彼らは、その後見事なコミュニティ・ファシリテーターとなり、他のNGOが彼らの指導を仰ぐようになりました。ちなみに、この「とある村」で私の前に全国レベルのコーディネーターとして颯爽と現れた女性はエレナさんといって、この時私が彼女に何を聞いたのか覚えていませんが、答えられなくて悔しい思いをしたりカチンときたりしたらしく、あの日本人のオジサンはなんであんなことを聞くのだろうかと、それを確かめるために、自費でJICAの私の研修に参加し(彼女が参加する頃にはすでに研修は始まっていて、交通、宿泊、食費が出る枠に彼女は入れませんでした)、ついに3年間を通して私の研修に出続け、当時私がいたインドや、インドの後に赴任したネパールまで自分で飛行機代を出してまで私のトレーニングを受けにきました。彼女がこうして素晴らしいファシリテーターになっていったのは、いうまでもありません。

それはさておき、こうして足掛け3年トレーニングを続けるうちに、トレーニングを受けた人たちの何人かは、自分が受けたトレーニングを自主的に自分で人と資金を集めて自分の地域で行うということが起こり、そして外から持ち込まれたものではない自主的な活動を村人とともに政府の提供するプログラムなどを利用して起こすということが始まり、それこそ今までそんなことを経験したことのないJICAをびっくりさせるということが起きたのです。このPKPMプロジェクト3年間のおかげで、私にはインドネシアで直弟子、孫弟子あわせて数百人の弟子ができました。

長々と余計な話をしましたが、一応メタファシリテーションが自在にできるようになるとはどういうことなのか、そのことを具体的にイメージしてもらうために書いてみました。司馬遼太郎風に「これは余談だが」などとやれれば格好いいのでしょうけどね。
2001年の時点に戻ると、この時点で中田さんは私の「職人技」について以下のように書いています。

「とにかく和田のインタビューは、シンプルだった。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけだ。同行した長畑誠は、現場で早速自分でも試そうとしたが、聞いていくうちにすぐに尋ねることがなくなったり質問を次に繋げられなくなったりで、討死を重ねるだけだった。そう簡単に真似できるものではないことを、私は思い知らされた。
帰国後、私は、そのメカニズムの解明に自分なりの方法で着手した。和田自身、言語化しないままに使っていたので、手法として体系的に語るほど整理されていなかった。理屈ではなく体で覚えるのが職人技であるから、それは当然と言えば当然なのだが、他者がそれを学ぼうと思えば、ある程度の理論化と体系化はどうしても必要になる。私はそれを試みようとしたわけだ。」(「途上国の人々との話し方-国際協力のためのメタファシリテーションの手法-」みずのわ出版、2010年 p21)」)

というわけで、私の職人技の解明に着手した中田さんにとっては、いよいよ運命の2002年バングラデシュへとこの物語も展開していくわけです。それは次回で。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)