2023年11月7日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(17)

おばあちゃんがふむふむと頷いてくれるような例え話

前回の続きから。おばあちゃんにどんな例え話をすれば、空気中の酸素の存在をそれなりに納得させることができるか、というのがお題でしたね。みなさん、何か思い付かれましたか。私のは、こうです。


「サンバル(南インドの、野菜がいっぱい入ったいわば“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るとき、何を入れる?」。
恐らく毎日のようにサンバルを作っているおばあちゃんは、即座に材料を答えてくれる。
「じゃあ、ダル(ま、これも豆の“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るときは?」。
これも毎日作っているので、即座に材料を答えてくれる。
「で、この二つに共通の材料は?」。
ふむふむと考えながら、これもおばあちゃんは答えてくれる。そこで、次の問い。
「この中で、入れると溶けちゃって見えなくなる材料は?」。
数秒の間ののち、「あっ、塩だ!」とおばあちゃんは答えてくれる。
「そうだね。塩は溶けちゃうと見えなくなるね。でも、入っていないと食べてみれば絶対分かるよね。」
おばあちゃん、頷く。「塩の入っていない料理なんて、考えられないよね。」
おばあちゃん、これにも当然だという表情で頷く。
「料理に塩が入っていないと、料理にならないように、空気の中にも、見えなくてもないと困る、それがあるから私らが、息ができる、それが酸素というものなの。」ここでおばあちゃんは、なるほどという表情で頷く(はず)。

実際には、集会の後で思いついたので、こういう風に行ったかどうかは分かりませんが、まずこんな感じで行けたのではないかという予想というか、確信というかは、これまでの経験からあります。残念ながら、この譬え話のネタはこれまで使う機会がなく、これがあの時できていればなぁ、という私のほろ苦い経験としていつまでも覚えています。だいたいうまく行った時の話なんてすぐ忘れてしまうものですが、失敗というか、後でああすればよかった、しまったな、という経験はいつまでも覚えているものです。

無自覚な上から目線

ところで、海外協力、援助(国内の支援活動でも同じことが言えますが)をする側が陥りやすいのが、自らの使命の高尚さ、崇高さとでも言うのでしょうか、理想の社会の実現に向けて活動をする、しているという思いの強さ、思い込みの強さが、ともすると相手にも理想の姿を求めてしまう傾向があります。決してスーパーヒューマンを求めるのではないにしても、これはコミュニティのためだから、このくらいは無償でボランティアするのは当たり前、自分の健康のためだから毎日薬を飲むのは当たり前、子どもの学校を建てるのだから積極的に協力するのは当たり前、自分たちのための施設だから、自分たちで管理運営していくのは当たり前、などなど、相手側の役所、住民に対してこのような期待を持ってしまうことが多々あります。というか、ほとんど百パーセントがこんな具合ですかね。

なぜ私が確信を持ってそんなことを言えるのか。それは、私たちのところに持ち込まれる国際協力NGOの相談事が、全て「相手がこちらの期待通りに動かない」というものだからです。これは、相談を持ちかけてくれるNGOの規模の大小には関わりません。それこそ、その名を聞けば誰でも知っているような大きな団体から、みんなが無償ボランティア、予算規模も年間せいぜい100万円前後というような小さな団体まで、事情は変わりません。


メタ認知が欠如すると例え話はできない

こんなことが起こる理由は、簡単です。それは一言で言えば、要求する側のメタ認知が足りない、あるいは全くないからです。平たく言えば、あんたは他人に理想のあり方を求めるほど理想的な人間か、ということ(つまり、他人に要求するようなことを、自国で、自分の生活圏で、自分の日常でやっているか?ということ)に対する自覚がない、ということに尽きます。

そうやって、自分の胸に手を当てて考えてみると、プロジェクト先の住民には地域の保健委員として家庭訪問を定期的に巡回することを要求しながら、自分は住む地域でボランティアをやったこともない、せいぜい年に一度か二度お祭りなどのイベントに参加するだけだ、などということはザラにあります。ましてや、外国の任地に長期間いる場合、本国でそのような時間はないということです。


また、地域の助け合いが必要などと呼びかける側の地方自治体職員が、自分は家には寝に帰るだけで、地域の助け合いどころではないというのもよくある話で、これも自分のことは棚に上げて、という例です。

当然ながら、自治体の職員はいくつものプログラムを兼務して極端に忙しいという方も大勢います。ですから、問題は、さまざまな事情があって地域のボランティア(持続的、かつ定期的な)ができないことではありません。問題は、そのような自分に対するメタ認知があるかどうか、そして、自分がそうなら働きかける相手も十分にそのような事情にあるのではないか、という想像力があるかどうかの問題です。

しかも、働きかける方は、給料をもらいながら仕事としてそれをやっている。働きかけられる方は、特に途上国では、それでなくても身を粉にして必死に働いて生き延びている。例え、家庭の主婦といえども、朝から晩まで厳しい労働をしている(水汲み、農作業、薪取りなどなど)ので、自分が地域でボランティアができない以上の厳しい条件にあるかもしれないということです。


要は、そのような想像力もなく(従って必要な配慮もできず)、そしてメタ認知もないのに上から目線で偉そうに相手に要求するなということです。しかも、住民参加というのはこのような現状認識に立って、初めて築き始めることができるものなのです。で、例え話は、実はこのような現状認識がないとうまく使えないということを言いたかったのですが、そこに辿り着くまでに長々と語ってしまいましたね。

要は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません。というか、相手の腑に落ちる譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということです。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません。

この続きは、次回。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)