2015年8月25日火曜日

「知らない」ということに気がつく

対話型ファシリテーションを初めて知ってからはや2年、事実質問の練習というと、「他人の相談に乗る」をしがちな私ですが、最近、モノについて質問をすることのおもしろさを噛み締めるできごとを体験しました。

それは、大阪府箕面市に住む私が、近所の商店街に行ったときのこと。個人経営の酒屋さんで買い物をしようとしてレジに行くと、そこで「粟生間谷産のハチミツ」という文字が目に飛び込みました。すぐ近くの地域の名前なのですが、こんな近所で養蜂をしているとは聞いたことがなかったので、思わず「これ、粟生間谷のどこで作ったものですか?」と尋ねました。
「あぁそれ、お寺に向かう道の近くに橋があるでしょ。あの近くなんですよ」
「へぇ~、箕面でもハチミツを作ってるところがあったんですね。初めて知りました」
こうやって話をしながら、レジのおばちゃんに、4月から7月の間に絞った、6種類のハチミツを味見させてもらいました。
「全部おいしいけど、どれも個性があって同じものはない、おもしろいですね~。」
という感想を述べると、
「これは△月だから、○○の花が満開に咲いてる時期でね。こっちは□□の花でね・・・。」
と教えてくれるおばちゃん。
楽しそうに話しをしてくれたので、その流れで、
「いつから作ってらっしゃるんですか?」
「蜂はどこから手にいれられたんですか?」
「何月から何月まで蜜が採れるんですか?」
と、細かく質問をしていくと、旦那さんや息子さんも店の奥から出てきて、我先にと答えてくれました。
そして、「蜜を絞る」工程についての質問にさしかかったとき、ハタと気が付きました。
「私、そもそも『ハチミツを絞る』ってどうやってやるのかまったく想像がつかない!」
完全防備をした人間がハチの沢山ついた巣を取り出す・・・という場面だけはテレビで目にすることはあっても、その前後に、いったいどんな過程があってハチミツができているか、知らないどころか考えてみたこともありませんでした。
そして、「知らない」ということに気がつくと、知りたくて仕方がなくなります。
「取り出した巣に群がっている大量の蜂はどうするの?」
「巣の中にある卵や幼虫は?」
「何人で、どんな道具を使って作業するの?」
「蜜を取った後の巣はどうするの?」
 そんな疑問をひとつずつ解消するために質問を重ねていくと、最終的に、1時間ほど喋り通して、気がつけば閉店時間を30分も過ぎていました。
最初は単に、「どこまで事実質問で会話をつなげられるか試してみよう」という気持ちで始めました。それが、「自分は、普段の生活で使っているモノやそれがどういう過程を経て存在するか、何も知らないんだ」ということに気づくきっかけになりました。

帰った後に『途上国の人々との話し方』を読み返し、こんな記述を見つけました。
「事実質問を行うことは、物事の多様な側面についての知識と各要素間の相関関係への理解を深めるための絶好の訓練になる。その積み重ねが、ものごとへの理解を飛躍的に高めてくれること、請け合いである。」
うーん、物事の多様な側面についての知識・・・、相関関係への理解・・・、それが「分かった!」とはまだ到底言えないけど、それまで当たり前に使っていた「ハチミツ」について、今まで見えていなかった景色が少し見えたという感覚はありました。

「他人の気づきを促す」なんて言う前に、まず自分が気がつかないといけないことが、まだまだ沢山ある!と喝を入れつつ、これからも「自分は知らない」という心持ちで事実質問を続けていこうと、気持ちを新たにしました。

みなさんも、身の回りにあるもので試してみてはいかがでしょうか?


(海外事業コーディネーター、コミュニケーション 近藤 美沙子

2015年8月17日月曜日

水・森・土・人 よもやま通信 第2部 よもやま通信 第22号「奇跡じゃない、これがオラたちの軌跡」

 7月下旬、例年、村人たちは田植えの準備で忙しい。ところが今年はどうやらお天道様が頑張りすぎているらしく、まだまだ夏の暑さが続く。待っても待っても来ない雨を、辛抱強く待ち続ける村人たち。8月に入ると、やっとたくさんの雨が降るようになってきた。これから、村人たちの農業が始まる。



1    雨降って、さぁ植林

指導員の力を借りつつ、植林計画を完成させた村人たち。合計8か村から58世帯が植林を行う。植木屋に苗木を注文し、村で手に入る株分け用の茎(植林方法の一つ)は自分たちで収集して、準備は万端、あとは雨が降るのを待つだけだ。
と、思いきや、なかなか雨が降らないうえに、降ってもすぐにやんでしまう。
「こんなに雨が降らないのは30年ぶりだ」
ラマさんも首をかしげている。なにより大変なのは村人たち。植林はともかくとして、これっぽっちの雨では生活に一番重要な米づくりができない。
そんな不安な日々が続く中で、8月に入ると少しずつ雨が降り始めてきた。田植えが出来るようになるまではもう少し雨が降るのを待つ必要があるものの、これでなんとか植林活動は始められる。
「植林をするからモニタリングに来てほしい。」
と最初に連絡があったのは、コッタグダ村だ。コッタグダ村は12世帯と、他の村と比べても小さな村で、テルグ語の読み書きができる人が数人しかいない。活動をしていく中で読み書きが必要なときは、いつも1人の青年がその役割を担っている。
植林当日、コッタグダ村に出かけて行ったスタッフとポガダヴァリ村の指導員たち。しかし、村に到着してみると植林を行う9世帯のうち、3世帯の人たちしかいない。ちょうど雨が降ったので、他の村人たちは田植えに行ってしまったのだ。そして、いつも読み書きを担当し、音頭を取っている青年も別の農作業に行ってしまって、いない。
もちろん、読み書きの出来ない村人たちも植林の経験はあるし、植物の知識は豊富だ。植林計画も、読み書きが出来ない人でもわかるように、木の名前ごとに色を変えてリストを作り、縮図に描きこんでいる。だけど、その場を仕切り、村人たちを統率する青年がいないため、村の人たちの重い腰がなかなか上がらない。
そんな中で、これまで研修に参加してもいつもの青年に隠れて前には出てこなかった少年スレッシュが、リーダーシップを発揮した。彼は、縮図を読みながらその土地の持ち主や作業を手伝っている人たちに説明をして、苗木の種類と間隔にも注意しながら植林活動を手伝った。
計画に基づいた複数の樹種を植える植林をした経験がなくて、戸惑っていたコッタグダ村の人たちも、この若者の活躍に刺激を受けたのか、翌日には残りの村人たちも植林に取り組み始めた。いつも村での読み書きを担当している青年の不在で、どうなるかと思ったコッタグダ村の植林は、もっと若い世代の活躍で、無事に実施することができた。スタッフも、指導員も知らないところで、着々と若い世代が育っているのだ。
そして、村人たちが一度やる気になりさえすれば、
「ライムの木は水がたっぷり必要だから、こっちに植えた方がいいぞ」
と言った具合に、植物の知識が豊富な年配の世代が今度は若い世代を助ける。計画に沿って、時には修正しながら、植林をする。植林そのものは、個人の土地でしていても、村人たちは世代を超えて協力しながら、森づくりを進めている。





    





2    ブータラグダ村の裏舞台

前回のよもやまで触れた、「オラたちの村づくりを他の村の仲間たちに」。事業パートナーのJICAチームの訪問時に他の村の人たちも呼んで、これまで行ってきた活動を劇の形式で発表することに決めたブータラグダ村の村人たちだが、そのきっかけは、ブータラグダ村での準備の日でのやりとりだった。以下はキョーコさんの回想をつづる。

15人弱が集まったブータラグダ村での準備の日。
ラマラジュさんがおもむろに尋ねる。
「例えばラジェシュ、君がハイデラバードの学校の寄宿舎で病気になったとする。で、父親はこの村にいる。父親を、例えばチュッカイヤ、君だとする。」
何が始まるのだろう、と恐る恐る話を聞いているブータラグダ村の人たち。そして言われるままに、ラジェシュとチュッカイヤはみんなの前に出てくる。
「ラジェシュの友人を、ドゥルガラオ、そして医者をラメーシュ、としようか」
ドゥルガラオもラメーシュも、前に出てきた。
「例えばこの村でも、親が不在の時に子どもが急に具合が悪くなったら、君たちはどうする?」
「助けてあげます」
「どんな風にするのか、ちょっと見せてくれるかな?医者に診せるのに必要なお金は、父親が送ってくれるとしよう。」
私自身も、最初は何をしようとしているのだろう、と思っていたけれど、ここにきてピーンときた。
ゴニョゴニョと、話し込んでいる4人。周りの人たちから急かされて、4人の寸劇が始まった。

(病人役)「あ~、苦しいよう。頭が痛いよう。う~ん、う~ん・・」
(友人役)「どうしたの?わ、凄い熱!いつからこんなに熱が?」
(病人役)「朝から・・・(シーツを被って、ぶるぶる震える)」
(友人役)「お医者に見せないと・・・っていうか、親御さんに知らせないと」
(電話をかける友人役)「もしもし、ラジェシュのお父さんですか?ラジェシュがすごい熱を出していて、お医者に見せた方が良いと思うんですけど」
(父親役)「マラリアか?・・あ、そう、分からない。とりあえず、早いところに医者に連れて行ってくれ」
(友人役)「分かりました。また連絡します」
(病人を医者に連れて行った友人役)「先生、今朝から急に熱が出た様なのですが」
(触診をする医者)「脈が速いですね。ここは痛くないですか?(病人と問答してから)血液検査をしましょう。万が一、マラリアだったら注射を打たないといけません」
(父親に電話をかける友人役)「検査をするのですが、マラリアかもしれません。お金を送ってくれますか?」
(父親役)「わかりました。お金は送るので必要な治療をしてください。また連絡をしてくださいね」
(医者役)「検査の結果、マラリアですね。注射をしましょう。(注射をしてから)そしたら、2・3日経っても熱がさがらなければ、また来てください。下がっても、1週間後にまた様子をみましょう」
(友人役)「はい」
(医者役)「1200ルピーです」
(友人役)「はい、お金です。領収書をください」
熱を出して震える病人役も、注射を刺す医者役も、さすがそういう場面に何度も出くわしているためか、とてもリアルにやってみせた。
だが、単に寸劇をするのが目的ではない。続けてラマラジュさんが質問する。
「お父さんには、この後どうするのですか?」
「友人がとりあえず電話して、注射をしたことやその後の様子を伝えます」
「友人だけが、伝えたらいいのだろうか?」
「いえ、病気になった息子本人も、連絡しないといけないです。元気になってからでも、何があって、どんな治療をして、今どうなったのか」
「そうですね」
そして、一呼吸置いてから次の質問をする。
「ところで、みなさんが今している活動は、誰と誰がしていますか?」
「ぼくたちB村と、ムラのミライと、ソムニード・インディア」
「だけですか?」
「ジャイカ」
「そうですね。今までに、ジャイカの人たちに会ったことはありますか?」
「この前、村に来られました。たしか数年前にも・・・」
「来週、また来られます。ジャイカの人たちに、何があって、何が起きて、どうなったか、それを説明するのは、誰がいいのでしょう?」
「ボク達だ」
「そうです。ムラのミライも、ソムニード・インディアもジャイカに伝えています。だけど、あなたたちからも、伝えなければいけませんよね。私たちは、伝えることができます。だけどそれは、ムラのミライがあなたたちの活動を見聞きしたことであって、ブータラグダ村が経験したこと、その時々で考えたこと、感じたことを伝えることができるのは・・」
「ボク達です」
「じゃぁ、どうやって伝えましょうか?2007年の事は、もう実物を見せられません。どうしますか?」
そして、集まっていた村の人たちが頭を寄せて考え始めた。
まずは何が起きたのかを順序だてて思い出す村の人たち。議論を引っ張るのは、指導員も務めるアナンド。私たちが忘れかけていた細かいことまで、覚えていた。
ただ何をしたか、何が起こったかを思い出すだけではない、その結果、どうなったのか。
そして、その結果がこのブータラグダ村にどういう影響を及ぼしたのか、そうした事を見ていくのが、自分たちで行う評価である。
模造紙に書いて読み上げるだけの発表はつまらないと、劇も交えて、2007年からどう変化していったのかを小道具でも表現することになり、JICAの人たちが来る日まであと10日と迫る中、彼らの準備は急ピッチで進んでいった。
そして、改めてこれまでのプロセスを自分たちで振り返ったオッチャンオバチャンたちは、
「JICAだけじゃなく、この事業をしている他の村の人たちにも見てもらおう」と奮起して、約100人が座れる場所や昼食の準備も、「任せておいて」と頼もしく宣言してくれたのだ。



3    奇跡じゃない、これがオラたちの軌跡

最終評価当日、ブータラグダ村を訪れるスタッフたちとJICAチーム、この時期に合わせてネパールから和田さんもやってきた。
村人たちが準備した会場には、砂で作ったブータラグダ村の流域のミニチュアと、村でとれる作物やSRIの稲のモデルが展示されている。JICAチームや和田さんたちに用意された歓迎の花の首飾りには、2009年に植林した木が咲かせた花が使われ、濃厚な香りを放っている。この地で「サンパンギ」と呼ばれるインド原産の木だ。劇の準備だけでも大変だっただろうに、自分たちで工夫しながら会場を設営して、スタッフとJICAチーム、そして他の村の人に、これまでの活動を伝えようとするブータラグダ村の人たちがより一層頼もしく感じられた。


音声のチェックを終えて、会場の準備は整った。隣のパンドラマヌグダ村とバルダグダ村から、そして車で2時間も離れたポガダヴァリ村とアナンタギリ村から、招待された村人たちがぞろりぞろりと集まって来る。それに合わせて準備に携わっていないブータラグダ村の村人たちも会場にやってくる。
『これから何が起きるんだろう?』と、ワクワクしながら、お父ちゃん、お母ちゃんが働く姿を見つめる村の子どもたち。立派に会場を仕切る息子たちを静かに見守る村のおじいちゃん、おばちゃんたち。会場が一杯になった。アナンドがマイクを握る。彼は流域管理の指導員として、村のリーダーの一人として、流域管理の活動を引っ張ってきた。ムラのミライとソムニード・インディアのそれぞれの代表格和田さんとラマさん、2007年からずっとB村に寄り添い研修を行ってきたキョーコさんとラマラジュさん、他のスタッフたち、JICAチーム、招待された他の村の人たち、それぞれの紹介を終えて、いよいよブータラグダ村の軌跡の発表が始まる。



...そう、始まりは2007年、ムラのミライ、ソムニード・インディアとブータラグダ村との出会い。
最初は、流域なんて言葉も知らなかった。でも研修を受けて、自分たちの流域のことを知った。自分たちの村にある資源を知った。植物図鑑を作って、計画づくりのやり方を学んで、石垣をつくって、植林をして、今度はそれを村のみんなでメンテナンスできるような仕組みをつくって、、、
少しずつ自分たちの森のことを知って、それを守り、今度は農業に活かすための実践を続けてきた。そして、自分たちが習得した技術を隣の村にも教えるようになった。
今では、自分たちで流域管理の計画を立て、それを実践できるようになった。今では、乾季でも村で水が手に入るようになった。今では、農業の計画を立てて、小さな土地を有効活用して、より多くの、多種類の作物がとれるようになった。今では、化学肥料に頼らなくても、ミミズや牛糞や葉っぱを利用して、土に栄養を与える方法を知った。毎月各世帯から貯金を募り、今では村の中でお金の貸し借りが出来るようになった。そして、今では
「安全な水と土で安全な野菜を作り出す村、そして高利貸しなど外部からの融資に頼らなくても自活していける村」
という目標を立てて、それを達成するため2020年までの計画を立て、実行している。
誰かが『あーしろ、こーしろ』と、指示したわけじゃない。この全ては、ブータラグダ村の人たちが自分たちの意思で続けてきたこと。自分たちの意思だから、8年間、ずっとこの活動を続けてこられた。
ブータラグダ村の軌跡の発表が終わると、会場からは拍手が巻き起こった。司会をしていたアナンドがブータラグダ村のみんなを呼び寄せた。子どもたちも、若者たちも、お母ちゃんも、お父ちゃんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、『これがオラたちのブータラグダ村』だと言わんばかりに、その嬉しそうな顔には、自分たちの村を誇る自信が感じられた。
素晴らしい発表に筆者も感動した。そしてなによりも、この日のために村で計画をして、準備をして、私たちスタッフや他の村の人たちを招待して、この大きな催しを成功させたことがブータラグダ村の成長を物語っているような気がした。ブータラグダ村だけが特別だったわけじゃない。ただ、一つ一つの研修を積み重ねて、村のみんなで考えて、村のみんなで計画し、村のみんなで実践をしてきたから、いまのブータラグダ村がある。



他の村人たちは、このブータラグダ村の軌跡を聞いて、何を思ったのだろうか?
司会のアナンドが、他の村人たちにコメントを求める。
同じ2007年から流域管理を続けてきたポガダヴァリ村のチャンドラヤは、
「オラたちも、流域について学んで、植林をして、石垣をつくって、農業のことを学んで、、、」
と、自分たちの活動もアピールするように身振り手振りで話しだした。ブータラグダ村の発表に触発されたのか、前日にJICAチームがポガダヴァリ村を訪問したときよりも、もっと威勢がいい。同じく前日にJICAチームが訪問したときは、恥ずかしがる表情を見せていたアナンタギリ村のクリシュナも、今日は堂々と話している。
パンドラマヌグダ村とバルダグダ村は、ブータラグダ村の指導員から流域管理について学んできた。指導員たちから学び、実践してきたことを振返って、
「自分たちもこの流域管理の活動を続けて、ブータラグダ村のようになりたい。」
と抱負を語った。
ブータラグダ村の発表は、ブータラグダ村の人たちだけでなく、他の村の人たちにとっても、自分たちの活動を振返り、評価する機会になったのだった。そして、その振返りをもとに、これからの村づくりを考えるとき、他の村にとって、ブータラグダ村は一つの道しるべになる。
2007年に始まった流域管理プロジェクト。2015年8月31日で、2011年9月から始まった草の根事業(第2フェーズ)は終わりを迎える。そのため、今回JICAチームを迎えて行った【最終評価】。
でも、ブータラグダ村の村づくりの活動のなかでは、これはきっと通過点にしか過ぎない。このプロジェクトで学んだことを活かし続けながら、お互いに新たに学び続けながら、そしてその学びを、流域を共有する他の村の仲間たちに伝えながら、ブータラグダ村の村づくりは続いていく。




「あれ、よもやま通信2部も今回が最終回?」
、、、ではありません。プロジェクトのお話はもう少しだけ続きます。次回のよもやま通信もお楽しみに。

注意書き

ラマさん:SOMNEED Indiaの代表で、植林活動においては、30年に渡る豊富な知識と経験を持つ。
JICA:国際協力機構。本事業のパートナー。
キョーコさん:前川香子。ムラのミライの名ファシリテーターで、本事業のプロジェクトマネージャー。流域管理プロジェクトの他にも研修事業から出版事業まで全てを統括するスーパーチーフ。
ラマラジュさん:よもやま第一部からおなじみの名ファシリテーター。現在はビシャカパトナム市にてムラのミライ・コンサルタントとしてプロジェクトに従事。5月下旬から6月上旬に来日し、高山、東京、名古屋でセミナーや研修を行った
和田さん:2015年5月までムラのミライ共同代表を務め、同年6月からは、海外事業統括としてムラのミライの活動に携わる。

筆者:實方博章。

2015年8月15日土曜日

でこぼこ通信_第20号_「メニューじゃなくて、どうやって料理するかを知りたいんです」2015年9月15日発行

でこぼこ通信第20号「メニューじゃなくて、どうやって料理するかを知りたいんです」2015年9月15日発行

In 601プロジェクト通信 ネパール「バグマティ川再生 でこぼこ通信」 by master

 

目次

1.はじめに
2.3年間の先生たちの活動から生まれた副読本
3.副読本を活用した授業プランを作ってみる、だけど…
4.メニューじゃなくて、どうやって料理するかを知りたいんです
5.相手の立場になって考える
 

1.はじめに

ネパールの季節は大きく分けて雨期(6~9月ごろ)と乾期(10~5月ごろ)。
雨期が終われば、カトマンズは怒涛のお祭りシーズンが始まる。お祭りでしょっちゅう休日になるので、お祭りのない日=休日でない日を探すほうが大変なくらいだ。
なかでもネパール最大のお祭りが10月にあるダサイン(収穫を祝うお祭り)。ダサインのあいだは約1週間の休日となる。その前後も含めると、月の半分以上はなんだかんだでお休みモードが続くため、「この仕事、ダサイン前に片づけてしまいましょうね!」が口癖になりつつある今日この頃。

そんな雨期の終わりにさしかかった8月、ネパールオフィスもいよいよ本格的に活動を再開した。今回のプロジェクト通信では、現在カトマンズで実施している2つのプロジェクトのうち、環境教育プロジェクトでのようすをお伝えしたい。

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2.3年間の先生たちの活動から生まれた副読本

先生たちやチャタジー公子さんと1年間かけてコンテンツを作り上げた、環境副読本Bagmati ji: We learn and Act With the Bagmati River(バグマティさん―バグマティ川と学び活動する)。この副読本は、いわば、これまでの3年にわたる先生たちの活動の成果。英語・ネパール語版の2種類を制作し、ムラのミライの研修を受けた先生たちに配布している。
「この環境副読本を活用しながら、今度は自分たち自身でバグマティ川を知る授業を企画・実施してみたいですね」
と、配布先の先生たちからも前向きなコメントをもらっていた。

ムラのミライで働くようになってから約2年。実は和田さんによる研修をフルで見るのは今回が初めてだ。だが、ソムニード・ネパールのスタッフにとっては慣れたもので、プロジェクト通信でもおなじみのウジャールが、「研修の準備は任せて!」と前日にササッと必要な機材や文房具の準備を済ませた。当日も早めにオフィスに来て記録の準備をしていた。

研修開始の時間になって先生たちが集まり、和田さんの横にディベンドラが並んで英語・ネパール語通訳の準備も万端。「そうそう、この光景を写真でみたな~」と、初めての研修にワクワク感いっぱいで席につく。同じく和田さんの研修は初めて見るというムラのミライスタッフのミッシーとともに、人手の必要なところはサポートしながら、研修を追っていった。


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3.副読本を活用した授業プランを作ってみる、だけど…

まずは参加者の自己紹介と副読本を読んだ感想を一人ひとりに聞いていく。
その後、和田さんから先生たちに、こんな質問が投げかけられた。
和田「これまで、ムラのミライの研修はどんな方法でやってきたでしょうか?
今みたいに、質問を投げかけることをしてきましたね。この副読本も同じ方法論で作られています。みなさん気づきましたか?つまり、本のなかでたくさんの質問を投げかけています。明確な答えのない質問もありましたし、生徒たちが自分で答えを見つけなければならないものもありましたね。ここで、また、みなさんに質問を投げかけたいと思います。
教育において大切な要素は何でしょうか?」
先生「好奇心?」
「実践的であること?」
「楽しいこと!」
「生活で使えること」・・・
和田「答えは一つではないと思いますが、私がそう問われたなら、疑問を持つ(give chance to pose the question)機会を与えることが一番大切だと答えますね。」

ムラのミライの研修の特徴は、一方的にファシリテーターが話して終わるのではなく、質問を投げかけて、もしくは参加者自身が何か疑問をもったことについて、脳みそが沸騰するくらい考え抜いて自分で答えを見つけていくこと。
これが教育でも大切なんだということを、先生たちと確認してからグループワークに移った。

グループワークでは、6人でグループをつくり「環境副読本を活用した授業プラン」をつくる。副読本の活用といっても、「あれをやりましょう、これをやりましょう」と事細かにムラのミライやソムニード・ネパールから提案することはしない。先生たちからの授業プランの提案があって、はじめて私たちも授業をサポートすることができる。そのためのグループワークだ。
和田さんから先生たちに、以下の4つのポイントについて考え、模造紙に書き込むように指示がでる。

1.授業を実施するために必要な時間を割り出す
2.1.の時間割に沿って授業トピックを考える
副読本の内容からいくつかピックアップしても、トピック同士をくっつけてもOK
3.2.について、どんなふうに授業を進めていくのか考える
最初の質問は?次は何をする?絵を描いてみる?などを書き込む
4.授業実施にあたり、どんな道具や材料が必要かを考える
USBメモリ、紙など必要なものをすべてリストアップする

副読本を片手に、あれこれディスカッションをしながら作業を進めていく先生たち。
お昼休憩をはさみつつもグループワークを始めてから1時間半ほどたったころに、ウジャールが和田さんのところにやってきた。
「あそこのグループはもう授業プランができあがっていますよ。あっちのグループももう少しでできあがりそうです。各グループで作ったプランの発表は15分後に始めませんか?」
というウジャールに対して、
「え?そんな短時間でできたの?本当に?」という和田さん。


そのやり取りを聞いていて、
「たしかに、上の4つのポイントを押さえつつ授業プランを作るとなると、ましてやグループワークなのだから、まずはお互いの興味・関心・目的をすり合わせていく必要もあるから時間がかかるだろうなー。でも、先生たちは授業プランが出来上がってリラックスモードに入っている。一通りの授業の流れは網羅してあるようだけど…」
と、後からふりかえると、この時の和田さんの発言の意図からややズレたところを、あれこれ気にしていた筆者。


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4.メニューじゃなくて、どうやって料理するかを知りたいんです

約15分後。
「もう各グループの発表を始めても大丈夫ですか?」と聞く和田さんに対し、「準備万端ですよ~」という顔の先生たち。最初のグループが発表を始めた。
先生「全体の授業時間は40時間で…最初は導入としてバグマティ川について知る時間を設けます。それから…」
と順を追って自分たちが考えたプランを披露し、最後まで終わると、グループの面々は「やりきった!」という表情。

それまでじっと先生たちの発表を聞いていた和田さん。
和田「じゃあ、このグループのプランについて、一つずつ確認したいんですが…まずは導入でバグマティ川がどこからどこへ流れているかを知る。それからモデル・レッスンは一日かけてやるんですね。スンダリジャルからチョバールまで訪問する。それで、その次の“Map Work”は…」
先生「ああ、それはここに挙げた4つのテーマを、1回(1時間)1テーマで勉強していくんです」
和田「となると、最初の1時間は“Study Map(地図について学ぶ)”ですか?この授業では何をするんですか?」
先生「モデル・レッスンで行った場所を地図上で確認するんです。」
和田「それなら5分で終わりませんか?1時間も必要ですか?ここのポイントは何ですか?」
先生「地理的情報を得るんです」
和田「地理的情報って?」
先生「緯度や経度ですよ。」
和田「生徒が地図を見て、モデル・レッスンで訪れた場所の緯度や経度を知ってどうするんですか?この授業のポイントは?」
先生「バグマティ川がどこから流れてどこにいくか…」
和田「それだったら、導入の授業で終わっているでしょう。」
この、和田さんからのツッコミを聞いて、グループのメンバーだけでなく、他の先生も一斉にあれこれと言い始めてトレーニングルームが一気に騒がしくなる。
(ちなみにネパール語初級者の私には、詳しい内容まではわからない。)

先生「ネパールの地図を書いてここがバグマティ川…と確認していくんです。」

和田「だから生徒たちは退屈になるんじゃないですか。あなたたちは(1時間も地図で場所を確認するだけの授業は)退屈じゃないですか?観察地点はどこか、バグマティ川がどこから流れてきているのかは、モデル・レッスンの準備として取り扱えばいいのではないですか?(モデル・レッスンが終わった次の)ここでは、自分たちが何を経験したのかをふりかえるべきなのでは?
たとえば地図を見て、トポグラフィー(地勢図)を見て、スンダリジャルで経験したことを思い出してもらう。
彼らがすでに学んだことをさらに深めるには、どう地図を読めばいいのか、そのやり方を教えるべきでしょう。どんな人が住んでいるのか、農業は、水の供給は…(中略)たとえば、パシュパティナート付近ではすでに川が「死んだ」状態になっていることが水質検査でわかったけれど、地図からはどんな情報が読み取れるだろうか?」



ここで研修序盤の和田さんと先生たちとのやり取りが生きてくる。そう、「教育において大切な要素は何か?」という和田さんの問いかけだ。
先生たちのプラン、特に和田さんが指摘した箇所はおおざっぱなトピックだけが決まっていて、「はじめに●●をやって、次に××をやる。どんな質問を投げかければ興味をもつか、こういう方法を使えば楽しいだろうか…」と生徒の立場になって、プロセスを具体的にイメージしてもいないし、生徒自身が考えて自分で答えを見つけていくような内容にもなっていない。つまり、研修序盤で確認した「教育で大切なこと=疑問を持つ機会を与える」が全く生かされてないし、そもそも先生たち自身が授業プランを作るにあたって、表面をなぞらえるだけで考え抜いていない。そこを和田さんは鋭くキリキリと先生たちにツッコミをいれているのだ。

そんな和田さんからツッコまれてあれこれ言い出したり、しどろもどろになっている先生たちと自分の姿が重なる。
これまで、私も仕事でイベントやセミナー、ときには研修のプランづくりを担当することがあった。そこで何をするか、何を得てもらうかを、相手の立場にたって具体的に考えることなく、トピックだけなぞって、結果、出来上がるのはリアリティのない自己満足の企画。そんな失敗もよくある。(私の場合、ここまでキリキリとツッコまれたら早々に音を上げてしまうが、先生たちはタフだ。)
ネパール人だとか、日本人だとかは関係なく、落とし穴は同じなのだ。

ここまで読んでいて、「あれ?ずっと前にも和田さんと先生たちのあいだで、こんなやりとり見たことあるぞ?」と思った読者の方々。お察しのとおり、ほぼ同じやり取りが過去にもあったのだ

和田「これだとトピックを挙げているだけですよね。例えるなら、私はメニューが知りたいんじゃないんです。“どうやって料理するか”を知りたいんですよ。」
先生「えーっ、それならもっと時間が必要ですよ!」(他の先生たちが一斉に笑う)
和田「いや、だから「もう発表を始めても大丈夫なのか」と聞いたんです。今度はどれか一つのトピックでいいです。ひとつひとつを詳細に考えて。生徒が退屈しないように。授業が生き生きしたものになるようなプランを考えてみてくださいよ。」

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5.相手の立場になって考える

さて、やり直しを命じられた先生たち。もう一度授業プランを練り直す。

そんな先生たちのようすを見ながら、和田さんが話してくれたこと。
「相手の立場になって、どんなトピックだったら楽しいだろう、どう進めれば興味を持ってもらえるだろうってことを常に考えないと、ああいう授業プランが出てきてしまう。自分に引き付けて考えるというのは、メタファシリテーションにも通じるんだよね」(ここの会話は日本語)

そう、メタファシリテーションで重要なことの一つは、「自分が相手の立場であればどうか」を常に意識すること。
例えば、初対面の人に、いきなり「あなたの収入はいくらですか」と聞かれて答えるかどうか?日本人同士なら、まずそんなことは聞かない。でも、「国際援助」や「調査」と名がつくと、そうした想像力が働かなくなり、自分の聞きたいことを優先してしまう。つい初対面の村人に「あなたの収入はいくらですか?」と聞いてしまいがち。(このあたりは『途上国の人々との話し方』、その英語版『Reaching Out to Field Reality』を参照されたい。)
そんな落とし穴は、人と人が関わる場なら、どこにでもぽっかりと広がっているのだ。

さて、限られた時間ながら、和田さんに指摘された点を入れ込んだ授業プランを作った先生たち。
和田「だいぶよくなりましたね。一つコメントしたいのが、ここの「バグマティ川について知っていることを挙げる」というところですが、私からのアドバイスは、リストアップする数を決めるということです。10個でも20個でもいい。そうしないと、人間の心理として、一般的なことから取り上げがち。例えば「バグマティ川は聖なる川だ」など。そうした一般的なことが2~3個並んで終わってしまいます。一般的なことではなくて、その人の具体的な体験を引き出すのがポイントです。・・・今日の私のコメントはここまで。研修を終了します。みなさんの授業プランはタイピングしてメールで共有しますね。」

同じ失敗を繰り返しつつも、少しずつ歩みを進めている先生たち。
先生たちがそれぞれの学校でどんな授業プランをつくり、実践していくのか。
そのようすは、次号以降のプロジェクト通信でお伝えできると期待している。

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注意書き

チャタジー公子(さとこ)さん:環境教育の専門家として、副読本作成の側面から本プロジェクトのサポートをしていただいた。
でこぼこ通信14号第14号 「私のゴミの行方」(2014年10月29日発行)より
http://muranomirai.org/dekoboko-14

和田さん:ムラのミライ設立者、海外事業統括の和田信明。おなじみムラのミライの名ファシリテーター。
http://muranomirai.org/about/staff#a22

ミッシー:ムラのミライスタッフ、近藤美沙子。現在、ネパール事務所に長期出張中。本人たっての希望により、ニックネームのミッシーの名で本通信に初登場。
http://muranomirai.org/about/staff#a14

スンダリジャルからチョバールまで訪問する:モデル・レッスンでは上流のスンダリジャルから下流のチョバールまでの4~5か所で川を観察し、水質検査をおこなう。
モデル・レッスンのようすは、
でこぼこ通信第8号「マジシャンとファシリテーター」http://muranomirai.org/dekoboko-8を参照されたい。

『途上国の人々との話し方』『Reaching Out to Field Reality』:
ムラのミライ流ファシリテーションをまとめた書籍。ムラのミライスタッフ必読書。
購入はこちらから。http://muranomirai.org/bookorder

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2015年8月11日火曜日

要はどういうこと?

前回の私の記事では、「ことばを噛み砕くこと」のエピソードについて書きましたが、今回は、「要はどういうこと?をおさえること」についてです。

舞台のA村は、2012年から流域管理の活動に参加し、これまで隣のP村の指導員たちから流域管理のコンセプトと計画、実践について習ってきました。そして、そのモニタリングのために、私もA村には何度も足を運びました。
6月末日、事業評価のために2名のJICAスタッフの方と、和田元代表が事業地に訪れました。これまでの活動を紹介するA村の村人たち、話のなかでは「ウォーターシェッド(流域)」という言葉が飛び交います。そこで、和田さんがこんな質問をしました。

「ウォーターシェッドとは何だい?」
すると、若い村人たちがA村の模型を指さしながらしきりに説明します。
「ここに雨が降って、水が山をつたって川に流れて、、、」
「三つのゾーンに分かれて、、、」
和田さんは、続けます。
「ウォーターシェッドってのは何だい?」
今度は別の村人がウォーターシェッドについて同じような説明します。それでも、まだ和田さんは、「ウォーターシェッドとは何だ?」と質問を繰り返します。
 また若い村人たちが説明をくりかえし、年配の村人たちは黙っています。すると、和田さんが1人の村人にたとえ話を始めました。
「山に農作業に行って、すごく喉が渇いているとき、そこに小川を見つけたらどうやって水を飲む?」※
オッチャンは両手を合わせて、水をすくうしぐさをしました。そのとき
「それがウォーターシェッドだ。」
和田さんがそう言った瞬間、村人は皆
「はー」
と、村人たちは、何かが頭の中にストンッ、と入ってきた表情を見せました。そのとき私も村人たちと同じ顔をしていたに違いありません。
この一連の対話の更にすごいところは、「ウォーターシェッドって、要はなんだ?」ということA村の人たちに理解させるのと同時に、モニタリングを行ってきた私自身が、「要はどういうこと?」を上手くおさえることが出来ていなかったことに気付かせる点です。このやりとりを見ながら、私は途上国の人々の話し方で登場するクマールさんのことを考えていました。
村の若者たちが話した「ウォーターシェッド」の定義が、全て間違っていたわけではありません。A村にも、良く理解して説明できる村人はいます。ただ、このコンセプトを10歳のこどもから80歳のお年寄りまでが共有して、村全体での継続的な活動につなげるには、辞書の定義やプロジェクトの言葉ではなく、本当の意味で「ウォーターシェッドとは何だ?」「それはあなたにとって何だ?」ということに、気付いてもらう必要があります。そして、そのためには、まず自分自身が「要はどういうこと?」を理解していることが大前提です。
 前回の「ことばを噛み砕くこと」に加えて、「要はどういうことか?をおさえること」この二つは常に意識して活動を続けていきます。


文字数の関係でやりとりを短くしています。

(海外事業コーディネーター 實方

このインドでのプロジェクト通信はこちらから

2015年8月4日火曜日

ファシリテーション手順 その1

前回の記事中田さんは、対話型ファシリテーションをマスターするには日頃の練習が大切だとおっしゃっていました。会話を途切らせることなく事実質問を繰り返し、相手の課題を解決するにはどういう方向に質問をもっていけばいいのか、ファシリテーションの具体的な手順を今回から数回に分けてもう一度復習したいと思います。

I:セルフエスティームが上がるようなエントリーポイント(話しのきっかけとなるもの)をみつける
 →身の周りのものを褒める

相手が身につけている物の中から意味のありそうなものを見つけ、「それは何ですか」「その帽子おしゃれですね。いつ購入したのですか」とセルフエスティームが上がりそうな簡単な質問をします。話しを始めた直後に課題に関する質問をすることは避け、相手との信頼関係を築きます。事実質問の種類としては、大きく2つに分かれます。①「いつ」「どこ」「誰」「何」の簡単な疑問詞での質問 ②「〜したことがありますか」と相手の経験を尋ねる、「〜がありますか?」と存在や物事の有無を聞く、「〜を知っていますか」と相手の知識を問う質問です。この2種類の質問を駆使出来るようになると、長時間会話をすることができます。必ずしも最初に選んだエントリーポイントから話しが展開できるとは限りません。その場合は何度もエントリーポイントに戻っては進むことを繰り返し、次の段階へ入っていきましょう。

II:課題を整理する

相手の課題が出てきたら「それが原因でどんな困ったことがあったか」を尋ね、相手の言う課題が本当に課題なのかを明確にします。会話の途中で「これは問題かどうか」と疑問が出てきたら、「その問題に対しどんな処置をしてきたのか」「それが原因で誰がどのように困っているのか」を質問します。もし、これらの問題に対して何も手を打っていなければ、それは問題解決への意思がないとし、またそれによって誰も具体的に困っていなければ、その課題は対処を要さないと判断しましょう。

いかがでしたか?今回は8つあるファシリテーション手順の中から2つ目まで紹介しました。それ以降の手順については、数週後にまた更新したいと思います。
詳しいファイシリテーション技法は書籍「途上国の人々との話し方」をご覧下さい。

引用
「途上国の人々との話し方」p293p297

インターン 池田)

でこぼこ通信_第19号_ 「ネパール地震、その後のその後」2015年8月4日発行

 第19号 「ネパール地震、その後のその後」2015年8月4日発行

In 601プロジェクト通信 ネパール「バグマティ川再生 でこぼこ通信」 by master

 

目次

1.はじめに
2.マノッジ先生の学校
3.壊れたDEWATSは誰が修理するの?

1. はじめに

2015年6月中旬のカトマンズ・トリブバン空港
相変わらず流暢な日本語をあやつるタクシーの客引きにつかまりそうになりながら、空港を出て、その“相変わらず”ぶりにちょっと安心した私(注1)。
前号まで「でこぼこ通信」を執筆していた、ショーコ(池崎翔子)の後を引き継ぎ、今回から三代目語り手こと私(田中十紀恵)が通信をお届けすることになりました。
あれこれと言ってみては、和田(注2)に代わってネパール人スタッフたちから「トキエさん、いやいやそれは…」と諭される、ヒヨッコもいいところですが、スッタモンダや失敗談、和田の名ファシリテーション、ネパール人スタッフたちの奮闘、そして時にはネパールの魅力も交えつつ、プロジェクトの様子をお届けできればと考えています。

さて、ネパールオフィスは5月からオフィス業務を再開。自身も被災しながら緊急支援活動に動いていたスタッフたちですが、私がカトマンズに到着する頃には、以前と変わらぬ様子が戻っていました。地震後、日本からスタッフ全員の無事を確認していたものの、実際この目で、一人も欠けることなく無事な姿を見て一安心。
今回の通信では、ネパール到着後1ヶ月のあいだに、ネパールオフィス新米の私が、現場についていって見聞きしたことをご紹介します。

  




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2.マノッジ先生の学校

震災後、カトマンズの多くの学校は6月から授業を再開しました。オフィスのあるボーダでも、朝夕に制服を着て歩く子どもたちの姿をよく見かけます。
カトマンズに到着して間もなく、ディベンドラ(注3)の案内で、昨年度に実施した訪日プログラムの参加者の一人、マノッジ先生の学校を訪問させてもらいました。
「ナマステ、マノッジジ。サンチャイフヌフンチャ?(こんにちは、マノッジさん。お元気ですか?)」とカタコトのネパール語で話しかけると
「サンチャイ(元気ですよ)」と答えてくれたマノッジ先生。久しぶりの再会です。
…とはいっても、最初に訪れたのはもともと学校があった場所とは別の仮校舎。
マノッジ先生をはじめ、その時に勤務していた先生たちに地震後の学校の状況について話を聞きました。
もともとあった校舎は地震による倒壊は免れたものの、建物に大きくヒビが入り、現在はトタンで作った仮校舎で授業をしています。仮校舎であることを除けば、普段と変わらないようにも見えましたが、8割の生徒の家が地震の被害にあい、親せきの家などに避難しているそうです。また、山あいにある地域のため、地震のあとに地滑りも起こったことで、この地域を離れる人々も多く、地震前と比べて生徒数は約6割に減っているとのこと。

  


その後、もともとの校舎にも案内してもらいました。現在、校舎は閉鎖されています。政府による「安全でない建物」の赤いステッカーが貼られていて、建物を利用することができないからです。中に入れてもらってぱっと目に入ったのが、壁に入った大きなヒビ。確かにこれでは今にも崩れそうで授業どころではない。


マノッジ先生によると、学校にPCや液晶モニターなどを導入して、これから設備を充実させていこうとしていた矢先の地震。仮校舎には電源がないので、敷地内にはこうした機材もそのまま置かれていました。
訪問したときには笑顔を見せてくれたマノッジ先生でしたが、今後のことを聞くと、
「仮校舎での授業は6ヶ月間の予定です。その後はこの土地で再開するのか、新しい場所に移転するかになるだろうけれど、政府の方針(注4)が決まっていないので先行きがわからないんですよ。」と。そう言って肩を落とすマノッジ先生にかけられる言葉もなく、その日は「案内してくれてありがとうございました」とお礼を言うしかできずに帰りました。

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3.壊れたDEWATSは誰が修理するの?

カトマンズ郊外の村ながら、政府からの十分な支援が届かず、雨除けのテントシートや水を配布したデシェ村。7月初めの天気のよい日、「デシェ村とDEWATSを見せてもらいたい」とお願いして、DEWATS建設の現場監督をしていたラングーと、緊急支援物資を運びずっと村の状況を見てきたウジャールに、デシェ村まで連れてきてもらいました。
ネワールの人たちが住むデシェ村。各地でネワール建築の建物が大きな被害を受けていますが、ここでも昔ながらの家は大きく損壊していて、テントやトタン板を使った仮設住宅に住んでいる人たちも見られました。また、比較的新しい家でも内部が壊れていて住めなくなっている家もありました。


DEWATSにたどり着くと、ラングーがさっそくDEWATSを歩き回って破損状況をチェック。地震によって破損した箇所が大きくなってきているとのこと。今のままでもDEWATSに流れ込んだ家庭排水はある程度はキレイになりますが、修繕しなければその能力を最大限に発揮することはできません。




その後、家庭排水をDEWATSにつなぐパイプラインに沿って村を歩きましたが、パイプラインもところどころ壊れています。
「パイプラインから水が漏れてて、臭いがひどいんだけど!」という村の人も。
その後も村を歩き回っていて、ふと(こういうことを私たちに言うということは、村の人たちによるDEWATS全体の破損状況のチェックはまだ?地震後で当然かもしれないけど。)と思い、
「ねえ、ウジャールさん、村の人たちは破損の状況をチェックしたのかな。これまでに「破損の状況を●●さんがチェックした」とかそんな話を村の人たちから聞いたことある?何か知ってます?」と聞いてみると、
「うーん、具体的な話は聞いてない。DEWATSのメンテナンス担当者を決めて、その人を中心にやっていこうとしていたんだけど、そんな時に地震が来て。その後は自分の生活を立て直すのに必死だったからね。」と、ある意味で予想していた答えが返ってきました。
2月に竣工式をおこない、デシェの人たちに引き渡したDEWATS。自分たちの手で本格稼働・運用し始めた、そんな間もないころに起こった地震。

地震から自分たちの生活を立て直すことで精一杯で、DEWATSの修理に目を向けられていなかったように見えたデシェ村の人たちではありますが、数日たって、ソムニード・ネパールのスタッフが管理組合メンバーから呼び出されて修理について相談を受けるようになりました。
“自分たちのDEWATS”を復活させるために、いつ、どこで誰が何をやるか?コストはいくらかかるのか?そのお金はどこから調達してくるのか?そんな彼ら自身のアクションプランを作って実行する…という私の理想。ではありますが、「「工事にかかる費用をソムニードからも出してもらえないだろうか」なんて発言がいきなり飛び出してきたよ…」というスタッフからの報告(現実)の前では、私の理想などいとも簡単に吹き飛んでしまう。
本格運用が始まり、村人たちの手で維持・管理を始めようとしたところでの、“重い”課題をどうデシェの人たちと乗り越えていくか。いきなりの正念場です。

マノッジ先生の学校やデシェ村がどうなるのか、再開したプロジェクトがどう動くのか…については、次回以降のプロジェクト通信でお伝えしたいと思います。乞うご期待!

※注
注1 私:本通信の3代目語り手の田中十紀恵。6月中旬に関西オフィス→ネパールオフィスに移動。覚えたてのネパール語を嬉しがって披露すると、ネパール人スタッフたちが練習に付き合ってくれるものの、彼らの話すネパール語に全く返答できず、結局はジェスチャーで乗り切る日々。

注2 和田:ムラのミライ設立者の和田信明。過去の通信をお読みの方にはおなじみの名ファシリテーター。日本に一時帰国中であるが、右も左もわからない筆者にメール、スカイプとあらゆる手段でネパールから追いかけられる日々。

注3 ディベンドラ、ウジャール、ラングー:ムラのミライの現地パートナー、ソムニード・ネパールのスタッフたち。

注4 マノッジ先生の働く学校は公立学校。