2023年11月30日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(19)

のっけから横道に逸れます(って、いつもそうじゃないかというツッコミは無しに願います)。
今月の半ば頃(本稿を書いているのは、2023年10月)、膀胱結石の摘出手術を受けました。とても自力では排出できないほど肥大化した石が、私の体内に居座り続けていたわけで、それが膀胱まで降りてきて、「まあ、取った方がいいですね」と医師に言われ、「ではお願いします」ということで受けた手術です。別に開腹手術をするわけではなく、内視鏡ですかね、を尿道から差し込んで、中で石を砕いて摘出するというもの。順調に行けば1時間強で終わるようなオペです。

と、ここまではよかったのですが、私がびっくりしたのは、これをするのに全身麻酔をするということ。幸いにも(あるいは不幸中の幸いか?)、私は薬にもアレルギーがなく、これまで歯を抜いたり胃カメラを呑んだりしたときに部分麻酔をかけてもなんの問題もなく、今度も全身とは言え大丈夫だろうとは思ったのですが、正直、ちょっとビビりました。医師も、100%大丈夫だから、などとは決して言いません。万が一などと脅かされると(別に医師が脅かしているわけではありませんが)、元来が小心者の私は一抹の不安を抱えて手術に臨むことになります。で、終わってみればなんということはない、無事に手術も済み、この身もなんの問題もなく(血糖値とか尿酸値とかそういう話はこの際無しですよ)3泊4日で退院できたという次第でした。


で、何が言いたかったかというと、麻酔がかかっている間のことは、一切意識にない、記憶にない、つまり何が起こっていたのか全く分からないという状態だったということです。いつ麻酔で意識を無くしたのか、そしていつ麻酔から覚めたのか、全く分からず、いつの間にか「また」この世に存在していたという不思議な感覚を味わったのです。「また」というのは、記憶まで失ったわけではないので、己が何者かという記憶はあるわけで、人生の連続性とでもいうものはあった、和田信明は不滅だ、ではないにしても和田信明の人生は再開されたというわけです。


何を大袈裟な、普段でも深い睡眠の時は、記憶などないだろうに、とおっしゃるなら、その通りというしかないのですが、やはり、眠りに落ちてしまう前後がまるで違います。睡眠の場合は、うう、眠いな、眠いな、もう目を瞑って寝てしまおうという過程があり、そして目覚める前も妙な夢を見たり、あるいは尿意などを催したりして、夢現の中にぼちぼち目を覚まして起きるかなどという過程もあります。でも全身麻酔の場合は、このような諸々が全くない。いきなり意識がなくなり、いきなり目覚めている。気がつくと、あ、この世に存在していた、そんな感覚です。


それ以来、再び日常の些事に一喜一憂する生活をしているわけですが、思い返せば、この様な感覚は、あるいは似たような感覚はこれまでにも何度か持った記憶があります。それは例えば南インドの山の村で、インドネシアの南スラウェシの村で、イランのハマダーンの近郊の村で、あるいは…


この、あ、気がつくとここにいた(あるいは存在した)という様な感覚は、私の話し相手の村人のふとした表情と分かち難く結びついています。なんと言いますか、私が、あ、気がついたらここにいたという感覚を覚える時、相手は心持ち顔を横に向け微風に頬を嬲らせながら神々しいとでもいうほかない表情をしているのです。別にその人が神々しいとか、その人の人生が神々しいとか、そうではありません。そうではなくて、あえて言えば、存在自体の(その人の、ではありませんよ。存在すること自体の、とでも言いましょうか)神々しさとでも言うのでしょうか、侵し難さとでも言うのでしょうか、そんなものを感じさせる表情を、相手がふと見せるのです。この相手は名もない庶民、相対する私も名もない庶民、偶然この世に生まれ落ち、もちろん生まれ落ちた時間も場所も選んでいません。そして彼らも私も、日常の些事をこなしながら小さく、小さく地球の片隅で(死ぬまで)生きている、そんな感覚です。


ならば私はその「小さい、小さい些事(意味重複ですがあえて)」をできる限り知りたい、できる限り詳しく知り、相手と私、その場は狭い空間ながらも彼我の間に何か繋がるものがあるのか、見てみたい、といつの間にか思うようになっていたのでしょう。昔々、クロード・レヴィ・ストロースの本を、一生懸命赤線を引っ張りながら読んでいたら、「神は詳細に宿る」みたいなフレーズがありました。どの本のどのページだったか覚えていません。そもそも、読んだ内容も、このフレーズ以外はさっぱり忘れているのですから、私も余程学問からは見離された存在なのでしょう。でも、このフレーズだけはその時から半世紀以上経っても忘れず、今は、ひたすらこの「詳細」を知るために相手の話を聞いています。


そう、「詳細(英語で言うと‘detail’ですね)」には神か何かは知りませんが、明らかに何かが宿っているのです。相手の話を丁寧に、詳細に(分解して、というメタファシリテーション定番の方法です)聞いていくと、その人の個人史もさることながら、その人が生きてきた時代、環境の変化など浮かび上がってきます。そして、「彼らの問題」ではなく、彼我を貫く問題まで浮かび上がってきます。言い換えれば、社会や文化や文明の問題ではなく、中田豊一さんが言うように「私の問題」が浮かび上がってくるのです。中田豊一さんが練り上げた、そして、彼に続く認定トレーナーたちが日々改良を加えているメタファシリテーションを使う醍醐味は、まさにそんなところにあります。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月16日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(18)

前回は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません、というか、相手の腑に落ちるような譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということをお話ししました。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません、ということころで終わりましたね。

メタ認知と言ってもそんなに難しいことではありません。自分だったらこんな時は楽をしたいな、休みたいな、そんな時にどうしたら自分はモチベーションが上がるだろうか、など具体的な状況で自分ならどう反応するか、それを自分の胸に手を当てて正直に考えてみればいいだけの話です。それでも、これがなければ、相手に対する想像力も働きません。こうあるべきだ、などというメタ認知が決定的に欠けた上から目線では、相手の共感も何もあったものではないということです。相手に対する想像力が働けば、こんな状況ではどんな発想をするだろうかという想像も働きます。そして、そのような発想に沿った、相手の身近な習慣、話題、などを例え話として話すと、相手の腑に落ちるという可能性は高まります。


以下は、私の例え話の「最高傑作?」として、中田さんが「途上国の人々との話し方」(みずのわ出版、2010年)p336〜337に紹介してくれたものです。インドネシアのスラウェシ島北部の海岸沿いのバジョ族(海洋民族です)の村での話です。その村を訪れた時、村を案内してくれた女性リーダーが、「みんな(プラスチックゴミを)ポイポイ捨てるものだから、ご覧の通り村はゴミだらけです。(略)なにかいい方法はありませんか」と私に相談しました。そこで私は同行していた村人たちにこう語りかけました。

和田「命はどこから来ますか。」
村人「アッラーからいただいたものです。」
和田「では、終わったら誰に返しますか。」
村人「地上の生命が終われば、アッラーにお返しします。」
和田「そう、アッラーにいただいたものは、アッラーにお返しする。」
和田は天を指しながらそう言うと、次に波打ち際のプラスチックのゴミを指差して尋ねた。
和田「このゴミは、もともとはどこから来たものですか。」
村人「お店で買ったものです。」
和田「その商品はどこから来たのですか。」
村人「町の工場でしょうね。」
和田「これを捨てた人はどこに返したのですか。」
村人「海ですね。」
和田「工場から来たものを、この人は海に返したのですね。あなたたちはアッラーから来たものはアッラーに返すと言いました。では、工場から来たものはどこに返さなくてはならないのですか。」
村人「工場です。」
厳粛な顔つきになった村人に、和田が言い添えた。
和田「町から来たものは町に返す。陸から来たものは陸に戻す。海から来たものは海に返す。これがエコロジーです。」

この例え話はよく覚えています。その時の詳しい状況は、もう忘れてしまっていますが、村の海の波打ち際にプラスチックのゴミが散乱していたことは、よく覚えています。この浜辺にプラスチックゴミが散乱しているという光景は、このスラウェシ島のバジョ族の村ではなくとも、現在は途上国の海岸の至る所で目にする光景です。日本の海岸も、散乱というほどひどくはなくとも、プラスチックゴミを見かけます。敢えて言えば、この「海辺のプラスチックゴミ」が象徴する課題を私たちムラのミライは、彼我の共通の課題として解決するために、日本と途上国で活動しているのです。この辺りの事情は、中田と私の共著「ムラの未来、ヒトの未来」(竹林館 2016年)に書いていますので、よかったら読んでみてください。

さて、話を戻せば、例え話をするとして、毎回クリーンヒットというわけにはいかないので、できのよかったネタは覚えています。このバジョの村での話も、よく覚えているのですが、残念なのは、できがよくても2度と使う機会は巡ってきません。私の場合の例え話とは、その場の状況に合わせてその場で思い付かなければならないもので、同じ状況が2度と巡ってこない以上、せっかくいいネタを思いついても、その場で1度使えば終わりということです。

まさに、そのような状況そのものが滅多にはないことですが、状況が巡ってくれば私は「神様ネタ」を時々使います。私自身は特定の宗教、信仰に帰依することがこれまではありませんでしたが(そして、これからもないのではないかと思っていますが、何が起こるか分からないのが人の世の常、断定はしないでおきましょう)、他人の信仰は尊重します。途上国では敬虔な信仰心を持った人が多いし、特に回教国では、そのように感じます。彼らは、たとえ研修中でもお祈りの時間が来れば、研修を中座して、祈りを捧げに行きます。ここで紹介した例え話は、そのような彼らの信仰心への信頼とも言えるものがなければ出てくるものではありません。彼らの敬虔さ、誠実な信仰心を日頃感じていたからこそ、このような例え話を真摯に受け止めてくれるだろうという確信めいたものがあり、その場で咄嗟に出てきた話だったわけです。

ところで、この例え話は私が一方的に話したものではなく、あくまでも私が問いかけ、相手に答えてもらうという形をとっています。そして、「掴み」のところの「命はどこからきたか」という問いかけ以外は、すべて事実を聞いています。つまり、メタファシリテーションの基本に沿って対話を組み立てています。くどい様ですが、相手が多数でも、例え話をするときも、必ず問いかけ、相手とともに事実を確認していくというのが基本です。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月7日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(17)

おばあちゃんがふむふむと頷いてくれるような例え話

前回の続きから。おばあちゃんにどんな例え話をすれば、空気中の酸素の存在をそれなりに納得させることができるか、というのがお題でしたね。みなさん、何か思い付かれましたか。私のは、こうです。


「サンバル(南インドの、野菜がいっぱい入ったいわば“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るとき、何を入れる?」。
恐らく毎日のようにサンバルを作っているおばあちゃんは、即座に材料を答えてくれる。
「じゃあ、ダル(ま、これも豆の“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るときは?」。
これも毎日作っているので、即座に材料を答えてくれる。
「で、この二つに共通の材料は?」。
ふむふむと考えながら、これもおばあちゃんは答えてくれる。そこで、次の問い。
「この中で、入れると溶けちゃって見えなくなる材料は?」。
数秒の間ののち、「あっ、塩だ!」とおばあちゃんは答えてくれる。
「そうだね。塩は溶けちゃうと見えなくなるね。でも、入っていないと食べてみれば絶対分かるよね。」
おばあちゃん、頷く。「塩の入っていない料理なんて、考えられないよね。」
おばあちゃん、これにも当然だという表情で頷く。
「料理に塩が入っていないと、料理にならないように、空気の中にも、見えなくてもないと困る、それがあるから私らが、息ができる、それが酸素というものなの。」ここでおばあちゃんは、なるほどという表情で頷く(はず)。

実際には、集会の後で思いついたので、こういう風に行ったかどうかは分かりませんが、まずこんな感じで行けたのではないかという予想というか、確信というかは、これまでの経験からあります。残念ながら、この譬え話のネタはこれまで使う機会がなく、これがあの時できていればなぁ、という私のほろ苦い経験としていつまでも覚えています。だいたいうまく行った時の話なんてすぐ忘れてしまうものですが、失敗というか、後でああすればよかった、しまったな、という経験はいつまでも覚えているものです。

無自覚な上から目線

ところで、海外協力、援助(国内の支援活動でも同じことが言えますが)をする側が陥りやすいのが、自らの使命の高尚さ、崇高さとでも言うのでしょうか、理想の社会の実現に向けて活動をする、しているという思いの強さ、思い込みの強さが、ともすると相手にも理想の姿を求めてしまう傾向があります。決してスーパーヒューマンを求めるのではないにしても、これはコミュニティのためだから、このくらいは無償でボランティアするのは当たり前、自分の健康のためだから毎日薬を飲むのは当たり前、子どもの学校を建てるのだから積極的に協力するのは当たり前、自分たちのための施設だから、自分たちで管理運営していくのは当たり前、などなど、相手側の役所、住民に対してこのような期待を持ってしまうことが多々あります。というか、ほとんど百パーセントがこんな具合ですかね。

なぜ私が確信を持ってそんなことを言えるのか。それは、私たちのところに持ち込まれる国際協力NGOの相談事が、全て「相手がこちらの期待通りに動かない」というものだからです。これは、相談を持ちかけてくれるNGOの規模の大小には関わりません。それこそ、その名を聞けば誰でも知っているような大きな団体から、みんなが無償ボランティア、予算規模も年間せいぜい100万円前後というような小さな団体まで、事情は変わりません。


メタ認知が欠如すると例え話はできない

こんなことが起こる理由は、簡単です。それは一言で言えば、要求する側のメタ認知が足りない、あるいは全くないからです。平たく言えば、あんたは他人に理想のあり方を求めるほど理想的な人間か、ということ(つまり、他人に要求するようなことを、自国で、自分の生活圏で、自分の日常でやっているか?ということ)に対する自覚がない、ということに尽きます。

そうやって、自分の胸に手を当てて考えてみると、プロジェクト先の住民には地域の保健委員として家庭訪問を定期的に巡回することを要求しながら、自分は住む地域でボランティアをやったこともない、せいぜい年に一度か二度お祭りなどのイベントに参加するだけだ、などということはザラにあります。ましてや、外国の任地に長期間いる場合、本国でそのような時間はないということです。


また、地域の助け合いが必要などと呼びかける側の地方自治体職員が、自分は家には寝に帰るだけで、地域の助け合いどころではないというのもよくある話で、これも自分のことは棚に上げて、という例です。

当然ながら、自治体の職員はいくつものプログラムを兼務して極端に忙しいという方も大勢います。ですから、問題は、さまざまな事情があって地域のボランティア(持続的、かつ定期的な)ができないことではありません。問題は、そのような自分に対するメタ認知があるかどうか、そして、自分がそうなら働きかける相手も十分にそのような事情にあるのではないか、という想像力があるかどうかの問題です。

しかも、働きかける方は、給料をもらいながら仕事としてそれをやっている。働きかけられる方は、特に途上国では、それでなくても身を粉にして必死に働いて生き延びている。例え、家庭の主婦といえども、朝から晩まで厳しい労働をしている(水汲み、農作業、薪取りなどなど)ので、自分が地域でボランティアができない以上の厳しい条件にあるかもしれないということです。


要は、そのような想像力もなく(従って必要な配慮もできず)、そしてメタ認知もないのに上から目線で偉そうに相手に要求するなということです。しかも、住民参加というのはこのような現状認識に立って、初めて築き始めることができるものなのです。で、例え話は、実はこのような現状認識がないとうまく使えないということを言いたかったのですが、そこに辿り着くまでに長々と語ってしまいましたね。

要は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません。というか、相手の腑に落ちる譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということです。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません。

この続きは、次回。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)