2023年11月16日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(18)

前回は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません、というか、相手の腑に落ちるような譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということをお話ししました。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません、ということころで終わりましたね。

メタ認知と言ってもそんなに難しいことではありません。自分だったらこんな時は楽をしたいな、休みたいな、そんな時にどうしたら自分はモチベーションが上がるだろうか、など具体的な状況で自分ならどう反応するか、それを自分の胸に手を当てて正直に考えてみればいいだけの話です。それでも、これがなければ、相手に対する想像力も働きません。こうあるべきだ、などというメタ認知が決定的に欠けた上から目線では、相手の共感も何もあったものではないということです。相手に対する想像力が働けば、こんな状況ではどんな発想をするだろうかという想像も働きます。そして、そのような発想に沿った、相手の身近な習慣、話題、などを例え話として話すと、相手の腑に落ちるという可能性は高まります。


以下は、私の例え話の「最高傑作?」として、中田さんが「途上国の人々との話し方」(みずのわ出版、2010年)p336〜337に紹介してくれたものです。インドネシアのスラウェシ島北部の海岸沿いのバジョ族(海洋民族です)の村での話です。その村を訪れた時、村を案内してくれた女性リーダーが、「みんな(プラスチックゴミを)ポイポイ捨てるものだから、ご覧の通り村はゴミだらけです。(略)なにかいい方法はありませんか」と私に相談しました。そこで私は同行していた村人たちにこう語りかけました。

和田「命はどこから来ますか。」
村人「アッラーからいただいたものです。」
和田「では、終わったら誰に返しますか。」
村人「地上の生命が終われば、アッラーにお返しします。」
和田「そう、アッラーにいただいたものは、アッラーにお返しする。」
和田は天を指しながらそう言うと、次に波打ち際のプラスチックのゴミを指差して尋ねた。
和田「このゴミは、もともとはどこから来たものですか。」
村人「お店で買ったものです。」
和田「その商品はどこから来たのですか。」
村人「町の工場でしょうね。」
和田「これを捨てた人はどこに返したのですか。」
村人「海ですね。」
和田「工場から来たものを、この人は海に返したのですね。あなたたちはアッラーから来たものはアッラーに返すと言いました。では、工場から来たものはどこに返さなくてはならないのですか。」
村人「工場です。」
厳粛な顔つきになった村人に、和田が言い添えた。
和田「町から来たものは町に返す。陸から来たものは陸に戻す。海から来たものは海に返す。これがエコロジーです。」

この例え話はよく覚えています。その時の詳しい状況は、もう忘れてしまっていますが、村の海の波打ち際にプラスチックのゴミが散乱していたことは、よく覚えています。この浜辺にプラスチックゴミが散乱しているという光景は、このスラウェシ島のバジョ族の村ではなくとも、現在は途上国の海岸の至る所で目にする光景です。日本の海岸も、散乱というほどひどくはなくとも、プラスチックゴミを見かけます。敢えて言えば、この「海辺のプラスチックゴミ」が象徴する課題を私たちムラのミライは、彼我の共通の課題として解決するために、日本と途上国で活動しているのです。この辺りの事情は、中田と私の共著「ムラの未来、ヒトの未来」(竹林館 2016年)に書いていますので、よかったら読んでみてください。

さて、話を戻せば、例え話をするとして、毎回クリーンヒットというわけにはいかないので、できのよかったネタは覚えています。このバジョの村での話も、よく覚えているのですが、残念なのは、できがよくても2度と使う機会は巡ってきません。私の場合の例え話とは、その場の状況に合わせてその場で思い付かなければならないもので、同じ状況が2度と巡ってこない以上、せっかくいいネタを思いついても、その場で1度使えば終わりということです。

まさに、そのような状況そのものが滅多にはないことですが、状況が巡ってくれば私は「神様ネタ」を時々使います。私自身は特定の宗教、信仰に帰依することがこれまではありませんでしたが(そして、これからもないのではないかと思っていますが、何が起こるか分からないのが人の世の常、断定はしないでおきましょう)、他人の信仰は尊重します。途上国では敬虔な信仰心を持った人が多いし、特に回教国では、そのように感じます。彼らは、たとえ研修中でもお祈りの時間が来れば、研修を中座して、祈りを捧げに行きます。ここで紹介した例え話は、そのような彼らの信仰心への信頼とも言えるものがなければ出てくるものではありません。彼らの敬虔さ、誠実な信仰心を日頃感じていたからこそ、このような例え話を真摯に受け止めてくれるだろうという確信めいたものがあり、その場で咄嗟に出てきた話だったわけです。

ところで、この例え話は私が一方的に話したものではなく、あくまでも私が問いかけ、相手に答えてもらうという形をとっています。そして、「掴み」のところの「命はどこからきたか」という問いかけ以外は、すべて事実を聞いています。つまり、メタファシリテーションの基本に沿って対話を組み立てています。くどい様ですが、相手が多数でも、例え話をするときも、必ず問いかけ、相手とともに事実を確認していくというのが基本です。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)