2023年9月1日金曜日

メタファシリテーションのできるまで(15)

JBIC(国際協力銀行)、JICA(国際協力機構)でやらせてもらった専門家とは、私にとっては、ある意味では武者修行のようなものでした。両方あわせて年に平均2、3回はやらせてもらったので、随分と色々な場所、と言っても主に村ですが、に行かせてもらいました。


JBICはインドです。インド一国と言っても、面積で日本の約9倍、隣の州まで行くと言っても、主に飛行機で移動するしかありません。同じ州内でも飛行機だったり夜行列車の寝台車で行ったり、州が変われば言葉も変わり、食べ物も大分様変わりします。イメージとしては、ロシアを含まないヨーロッパくらいの広さで様々な国に行ったようなものでしょうか。


JICAでは、インドネシアです。インドネシアも東西5千キロ、首都のジャカルタは日本と2時間の時差がありますが、東の果てのパプア州は、日本と何千キロも離れているのに、日本との時差はありません。ですから、インドでもインドネシアでも、村といっても地方によってそれぞれ成り立ちから言葉から違います。でも、その言葉の違いというのは、私にとっては特に困ったことではなく、何せ日本語と英語しか私には使えないのですから、どのみち通訳を介して住民とやり取りをするということになります。


ところで、この足掛け10年にはなる私の武者修行で何をしたかというと、一対一ではなく一対多のやり取りの修行です。修行といっても、一回ごとにそれなりにうまく行かなければ、次の仕事が来ませんから、それこそ毎回真剣勝負といったところでしょうか。


インドでもインドネシアでも、本当に沢山の村に行きましたが、インドとインドネシアでは、今思えば村への入り方に、というより村人との最初の接し方に大きな違いがありました。これは、別に私がインドとインドネシアで村人との接し方を変えたというのではなく、そもそもの背景の違いです。インドでは、州政府の森林局を相手の仕事でしたから、どこの村に行くにもお役人がゾロゾロ付いてきます。そして、村では大きなテントが張ってあったり、集会所であったりで、すでに壇上に椅子が並べられ、村人は一段低いところに座って待っている、そんなしつらえでした。まさに、最初から「上から目線」の設定です。それに比べて、インドネシアでは、村に行くのはNGOの職員と地方政府のお役人、平たく言えば、村役場、町役場のお役人ですから、地域住民との距離は州政府レベルのお役人よりはずっと近いのです。ですから、最初から村人とは、少なくとも同じ平面で対面し、こちらが気を付ければ「上から目線」になることはありませんでした。もっとも、この「上から目線」、自分がそうなっているという自覚がある人は、援助業界では残念ながらほとんどいません。むしろ、善意の塊のような人たちが、「相手に寄り添う」などと言いながら無自覚に「上から目線」になっているのがほとんどなので、ある意味タチが悪い。ところで、インドネシアですが、同じ目線で対面するというのは、この国が回教国であることがそのことにある程度寄与しているかもしれません。何せ、回教は対人関係がフラットですから。


それに比べて、インドは圧倒的な階級社会。何せ、ヒンドゥー教が多数の国では、人間そのものがカーストという階級で分けられていますから。これに、経済力やその他の要因で、明らかに目に見える形の階級社会となっています。まあ、その中でも役人の世界は階級社会の権化のようなもので、ほんの僅かなエリートが圧倒的な権力を握っています。この話をしているとキリがないのでやめておきますが、そういう背景なので、村に行くと常にひな壇が設けられていて、前に並べられた椅子に座るのは、キャリアのお役人たち、そして私ということになります。目の前には、明らかに動員された村人たちが座っています。正面には、いかにも村の有力者みたいなおじさんたち。そしてその他大勢。その他大勢のすみっこの方には、何でこんなところにいるんだろうと、所在なげな表情の婆ちゃんたちがポツポツと何人か。この婆ちゃんたちこそ、私のターゲットです。どういうことかというと、集会が終わった時に、婆ちゃんたちの表情から所在なさが消え、いや、なかなか面白い集まりだったべさ(何弁だ?というツッコミは無しで願います)という表情が浮かんでいれば、私と集会にいた村人たちとのやり取りは成功ということです。


私は、日頃から私のトレーニングを受けるNGO、NPOの職員のみならず、公務員でも、住民と直接やり取りする可能性のある人たちには、たとえ相手が80歳を超えた非識字者の女性でも10歳の子どもでも分かるような表現で話してください、と伝えています。これは、幼児語を使って話せばいいということではありません。そうではなくて、例えば「分析」とか「評価」とかいう概念を、80歳を超えた非識字者の女性でも10歳の子どもでも分かるような表現で伝えることができますか、ということです。先進国では、年齢、性別に関係なく、中等教育を終えていない人というのはごく稀だと思われますが、途上国では、特に農村部では、高齢の女性は小学校も行っていないという例がまだ珍しくありません。しかしながら、高齢の女性とはいっても、まだ現役で何らかの作業労働をし、家族に貢献している人が多いのです。住民参加を謳うプロジェクトなら、彼女たちを無視していいわけがありません。また、彼女たちは隣近所のおしゃべりの中心、あるいは中心とまではいかなくても重要なメンバーであることが多いのです。そうすると、自分で理解し、納得できたことは、そのような場で話してくれる可能性があります。話してくれるということは、言語化できなければいけないわけで、自分がしゃべる言葉に、集会で聞いたことが落とし込まれていなければなりません。私が集会で彼女たちをボトムラインに置いて話を進める所以です。


さて、これから少し演技力が要求されます。と言っても、ほんのちょっと体を動かすだけです。壇上から降りて、集会参加者に近づきます。そして、そこで床に座ります。これで参加者と同じ目線になります。場合によっては立ったまま話すこともあります。それは、人数が多くて、後ろの方の人に私が見えない場合です。ま、大した演技ではないのですが、これでまず掴みはOK。皆が私の方に好奇の目を向けてくれます。一体このおじさん、何をするんだろう。これで、最初に私が発する言葉を皆待ってくれるという状態になりました。

 

私:この中で、一番お年を召した方はどなたですか。
しばらく待つと、隅の方で婆ちゃん一人がおずおずと手を挙げます。こうなると、期待通りの展開なので、私はしめしめと思い、こう聞きます。
私:私は、〇〇歳ですけど(相手の歳を聞くときは、このように自分の歳を最初に言います。ちなみに、私も今は爺さんですが、当時はまだ還暦前でおじさんでした)、あなたはおいくつですか。
婆ちゃん(以下O):わしゃ、80だよ。(実際は、おそらくそれよりずっと若い。村で高齢者に年齢を聞くと、のきなみ80歳だと答える傾向にあります。)
私:お生まれは、この村ですか。
O:いや、A村じゃよ。
私:ということは、この村にお嫁に来たんですね。
O:(笑う)
私:お嫁に来たときは、何歳だったか覚えてますか。
O:17、8だったかねぇ。
私:お子さんはいらっしゃいますか。
O:おるよ。4人。
私:一番上のお子さんがお生まれになったのは、この村に来てから何年後だったか覚えてますか。
O:翌年だったかね。
私:息子さんですか。娘さんですか。
O:息子だよ。
私:(他の参加者に対して)この中で、この方の息子さん、いらっしゃいますか。

すると、参加者の中の一人のおじさんが、恥ずかしそうに手を挙げて、
男:俺だ、俺だ。
私:あなた、今お幾つですか。
男:53歳だよ。
私:なるほど。(ここで心の中で計算し、おばあちゃんは70歳前後でこの村に来て55年くらいということが分かる)

ここで、再びおばあちゃんに向かって、
私:あなたがこの村に来た時、森はどのあたりまであったか、覚えてますか。
O:ああ、あの〇〇があるところまであった。

ここで、再び他の参加者に対して、
私:他に、その頃のことを覚えている方、いらっしゃいますか。

この問いに対して、おじいさんが一人声をあげる。
O J:覚えてる、覚えてる。確かに、あそこまで森があった。
私:あなたは、その頃おいくつでした。
O J:小学校に通い始めてたかな。

と、こんな調子で始めて、これから、当時森で何をしていたか、薪は?牛の牧草は?その他に利用していたものは?そして、だんだん森が遠のいていく、あるいは減っていったことで何が起きたのかを聞いていきます。そうすると、今は遠くまで牛を連れて行かないと放牧できない、そして、他の村と草地をめぐって争いが起きている、薪も以前は1日かければ必要な分量を確保できていたのに、今は2日以上かけないと必要量が確保できない、それも覚束なくなっている、などという話が出てきます。そうなると、森は大切だなどとお役人から説教されて、そうだそうだと上べだけで頷いていたのが、森が日常の自分ごととして意識されるようになってきます。ここからが、住民参加の始まりです。どうです。ここまで来れば、話のきっかけを作ってくれた婆ちゃんに感謝、ですね。

 

次回は「例え話」についてお話しします。
 

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)