2023年5月17日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(12)

すでに書きましたが、2000年代に入ってから、私はそれまで片田舎(って旧態然とした言葉遣いですね)に逼塞していたのが急に大都会のキラキラした雑踏に放り込まれたような具合になりました。2000年の外務省NGO共同評価については前々回と前回のブログで書きました。翌年の2001年には、今度はJICA・NGO共同評価というのがありました。今度はインドネシアです。今度の評価対象はJICAのプロジェクトだけ。そのプロジェクトのタイトルはズバリ「コミュニティ・エンパワーメント・プログラム」。通称はプロジェクトの頭文字をとってそれをインドネシア語読みにして「チェップ」。内容は米や牛を配るという、端的に言えば物を配るプロジェクトで、何がJICA的に画期的だったかというと、地元のNGOと組んでそれを実施した、実際に村で活動するのは地元インドネシアのNGOだったというところです。この評価には、NGO側から当時シャプラニールの職員だった長畑誠さん、中田さん、そして私が参加しました。中田さんも私も2年続けてこの種のプログラムに参加することになったわけですが、中部と関西でたまたま空いていたのが私と中田さんだったということで、私にとってみればそれまで行ったことのなかったインドネシアに行けてラッキーというところ。それにインド以外で地元のNGOと交流する機会が初めてだったこともあり、とても楽しみでした。

結果としていろいろ収穫がありましたが、一番の収穫は「チェップ」を担当していた西田基行さん、と友だちになれたことでしょう。彼は、当時JICAインドネシア事務所に企画調査員として勤務されていました。でも、JICAに勤務する人としては一風変わった人で、言ってしまえば役人臭の全くない、気さくなお兄さん、それもとても頼りになるお兄さんとでもいう人でした(今ではすでにお孫さんがいらっしゃいますが)。彼の一番の「特技」とも言えるのは、誰とでも分け隔てなく仲良くなれる、まさに私にすればその爪の垢でも煎じて飲みたいほどの社交性でした。気さく、気取らない、難しいことは言わない、ということで当時JICAのプログラムを実施していた、というか現場の実行部隊だった地元のNGOの皆さんとも肝胆相照らす間になっていることは、側で見ていてもよくわかりました。


その彼が現場のリーダー(現場に出るJICAの職員、正規、契約に関わらず、というのは極めて稀ですね)として頑張っていた「チェップ」ですが、私たちのような口うるさい者たちには、JICAとしてはNGOと直接コラボしていて画期的だけど、コミュニティ自立支援というお題目に照らせばただのばら撒きですね、という評価しかできませんでした。それを「自立支援事業」は一生懸命やったけど「自立支援」はできなかったね、というような表現で彼に伝えたような覚えがあります。彼が偉かったのは私たちの言ったことの意味を理解するために、インドネシアのNGOの活動家たちを2年連続して中田さん、長畑さん、そして私のところに送り込んできたことです。結果として、私たちのところに研修に来たNGOの活動家たちは大変身を遂げてインドネシアに戻りました。その結果を見て、西田さんは新たなJICAの技術協力プロジェクトを立ち上げました。その名も「市民社会の参加によるコミュニティ開発」。タイトルだけ見ても何をするのかさっぱり分からないプロジェクトで、しかしそこにあった彼の思いは、「JICAが主導するのではなく、現地のNGOがイニシアティブをとって、村人とともに村づくりをする。そんなプロジェクトを、JICAとNGOが連携して進めていきたい」(西田基行著「PKPM -ODAの新しい方法論はこれだ-」文芸社2008年p72)というもの。今思うとよくもまあこんなプロジェクトをJICAが裁可したもんだと思うのですが。このプロジェクトの成立こそ、2001年のJICA・NGO共同評価の落とし子と言っても過言ではありません。そしてこのプロジェクトが私に大きなチャンスをもたらしました。


私は、2004年から2006年まで短期専門家として毎年3ヶ月このプロジェクトに関わりました。ここでの私の役割はファシリテーター養成研修。これがまたJICAとしては前代未聞で、私のやる研修には一切縛りなし。思うままに組み立て、思うままに実施するという、つまり私のやりたいようにトレーニングしてくださいというもの。西田さんがプロジェクトリーダーでなかったら、こんなことは不可能だったでしょう。私が何をしたかというと、東インドネシアの10州から集まる地方行政官、NGOの活動家を村で活動するファシリテーターとしてトレーニングすることと、トレーニングの後、フォローアップのために彼らの現場を訪ねてその場で必要な指導をすることでした。おかげでインドネシア東半分の様々な村を訪ねることができ、また当然ながら村人の話をじっくり聞く機会を得ることができました。


ところで、この頃私のフィールドでのパフォーマンスはどう見られていたのか、西田さんの前掲書からちょっと長文になりますが引用させてもらいます。文中ファリー、アスハール、エディとあるのはいずれもこの通称「PKPM(ペーカーペーエムと読んでください)」プロジェクトで私の研修生だったインドネシアのNGOの活動家たち。特に、ファリーとアスハールは、このプロジェクトのインドネシア人専門家となり、私が研修の後先に地方周りをするごとにどちらかが私に同行してくれました。

「私たちは3台の車に分乗してアマイ村に向かった。ファリーとアスハールが同乗を拒むので、私(西田)とエディが和田さんの車に乗り込んだ。2人はそれまでも和田さんとともに、いろいろな村を訪問していた。その際に目のあたりにした和田さんの驚異的なスキルに、すっかり自信をなくし萎縮してしまったのだ。南スラウェシ州のとある村を訪問したときには、たった300メートル歩いただけで、ミラクル和田は『この村には馬が6頭いる』と当ててしまった。さらに『果樹は〇〇と〇〇、全部で6品種自生しているな。田んぼの広さは25ヘクタールくらいだな』、とすべてを的中させた。『村の農業普及員さえ知らないのに、なぜわかるのですか?』とアスハールが聞くと、和田さんは一言こう答えたそうだ。『村に入るまでに見たことを言っただけだ』『ぼくたちにはとてもできない。和田さんに突然何か聞かれたら困るから、いっしょに車に乗るのはいやだ』2人そろってこう訴えたのには笑ってしまった。」(同p125)。


私に言わせれば、こんなことは驚異的なスキルでもなんでもないのですが、同行していたファリーとアスハール、そして現地で出会ったNGOの活動家たちに、まずは村をよく観察しなさいということを分からせるためにこういうことをやっていました。実際に地元のNGOの活動家たちが村のことを知らないことは呆れるばかりで、しかも困ったことに本人たちは村のことをよく知っているつもりになっている。ファシリテーター養成の第一歩は、彼らのこのような思い込みを取り除くことからでした。

この引用文に出てくる「とある村」では、某国の「〇〇エイド」という機関が「貧困削減プロジェクト」をやっていました。さすがに、一国のODAを担う機関ですので、やることも大掛かり。インドネシア全国展開で、実施は地元のNGO、そしてどうもその上に国レベルのコーディネーターと呼ばれるNGOの活動家たちがいて、実施レベルの地元のNGOを指導するという体制らしいのでした。事業は「住民参加型」で、村人と一緒に村の地図を作る。どんな地図かというと、村の世帯を「富裕層」、「貧困世帯」そしてその「中間の人々」に分けて地図に落とし込むというもの。そして見事「貧困世帯」のステータスをもらった人々には「収入向上」事業をしてもらうという内容でした。もちろん「〇〇エイド」がやることです。プロジェクトの実施要領を記した分厚いマニュアルがあります。地図の作り方も詳細に説明されています。まあ、やり方としては当時はやっていたPRA(Participatory Rural Appraisal:参加型農村調査法)の焼き直しですけど、内容の説明を聞いた時、思わず吹き出しそうになりましたね。これを、村人を巻き込んで大真面目にやるんかい?ということで、付き合う村人も大変だなあと。最初に、アプリオリに「富裕層」、「中間層」、「貧困層」というカテゴリー分けをしてあるところから、すでにこれは調査としてはアウト!です。そして、「貧困層」はどんな人々かと言えば、「1日に1食しか食べられない人」とくるのですね。私の目の前に、村のオジサンが1人いたので、試しに彼に聞いてみました。「調査の結果、あなたはこの3つのどの層に入りましたか?」「貧困層だよ。」「ところで、今朝、朝食は食べましたか?」「食べたよ。」「昨晩夕食は食べられましたか?」「食べたよ。」「昼ご飯は?…」という具合に聞いていくと、3食毎日食べています。ちなみにオジサンのお腹はぽっこりと出ていて、栄養のバランスはともかく量的には十分か十分以上にとっていることは明らかでした。中田豊一風に言うなら、架空の現実を元に展開される典型的な「開発援助劇場」でしたね。


さて、だいぶ寄り道をしてしまいましたが、ファリーやアスハールも含めて、のちに私の弟子になる人たちは、私の目立つと言うのでしょうか、見た目で分かりやすいパフォーマンスには感心するものの、私が村人たちと行う基本的には一問一答のやりとりにはあまり関心をはらいませんでした。彼らが感心するところの私のパフォーマンスというものは、観察もさることながら実は村人たちとのその場での一問一答(のちにメタファシリテーションと呼ばれるようになった、コミュニケーションですね)の上に成り立つということには、この時点ではまだ気がついてもらえませんでした。ただし、私が彼らに現場で聞くこと、指摘することは相当インパクトがあったようで、3年間私のトレーニングに耐えた彼らは、その後見事なコミュニティ・ファシリテーターとなり、他のNGOが彼らの指導を仰ぐようになりました。ちなみに、この「とある村」で私の前に全国レベルのコーディネーターとして颯爽と現れた女性はエレナさんといって、この時私が彼女に何を聞いたのか覚えていませんが、答えられなくて悔しい思いをしたりカチンときたりしたらしく、あの日本人のオジサンはなんであんなことを聞くのだろうかと、それを確かめるために、自費でJICAの私の研修に参加し(彼女が参加する頃にはすでに研修は始まっていて、交通、宿泊、食費が出る枠に彼女は入れませんでした)、ついに3年間を通して私の研修に出続け、当時私がいたインドや、インドの後に赴任したネパールまで自分で飛行機代を出してまで私のトレーニングを受けにきました。彼女がこうして素晴らしいファシリテーターになっていったのは、いうまでもありません。

それはさておき、こうして足掛け3年トレーニングを続けるうちに、トレーニングを受けた人たちの何人かは、自分が受けたトレーニングを自主的に自分で人と資金を集めて自分の地域で行うということが起こり、そして外から持ち込まれたものではない自主的な活動を村人とともに政府の提供するプログラムなどを利用して起こすということが始まり、それこそ今までそんなことを経験したことのないJICAをびっくりさせるということが起きたのです。このPKPMプロジェクト3年間のおかげで、私にはインドネシアで直弟子、孫弟子あわせて数百人の弟子ができました。

長々と余計な話をしましたが、一応メタファシリテーションが自在にできるようになるとはどういうことなのか、そのことを具体的にイメージしてもらうために書いてみました。司馬遼太郎風に「これは余談だが」などとやれれば格好いいのでしょうけどね。
2001年の時点に戻ると、この時点で中田さんは私の「職人技」について以下のように書いています。

「とにかく和田のインタビューは、シンプルだった。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけだ。同行した長畑誠は、現場で早速自分でも試そうとしたが、聞いていくうちにすぐに尋ねることがなくなったり質問を次に繋げられなくなったりで、討死を重ねるだけだった。そう簡単に真似できるものではないことを、私は思い知らされた。
帰国後、私は、そのメカニズムの解明に自分なりの方法で着手した。和田自身、言語化しないままに使っていたので、手法として体系的に語るほど整理されていなかった。理屈ではなく体で覚えるのが職人技であるから、それは当然と言えば当然なのだが、他者がそれを学ぼうと思えば、ある程度の理論化と体系化はどうしても必要になる。私はそれを試みようとしたわけだ。」(「途上国の人々との話し方-国際協力のためのメタファシリテーションの手法-」みずのわ出版、2010年 p21)」)

というわけで、私の職人技の解明に着手した中田さんにとっては、いよいよ運命の2002年バングラデシュへとこの物語も展開していくわけです。それは次回で。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)