2023年1月17日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(6)

相手のことを知らなかったという自覚から

靄の中でモヤモヤしていた私が何を決心してやったかというと、インタビューです。私は「支援している」相手を知らないで「支援している」のではないか、恥ずかしながら、そして遅まきながら気付きました。で、相手のことを少しでも知ろうと思ったわけです。

ではどうするか。私はラマに頼んで、6つの村を選んでもらい(当時パタパトナム郡を含む3つの行政郡を対象としていたので、それぞれの郡から村を2つずつ)、さらに村ごとに1人インタビューの相手を選んでもらいました。一応ジェンダーバランスも考えて男女それぞれ3人ずつ。これを年に一回、3年間続けました。今思えば、この6人の方達もよく付き合っていただけたものです。私が曲がりなりにも現在もこの仕事を続けられているのは、紛れもなく、彼らのおかげです。


忘れもしません。最初にインタビューしたのは、山際にある小さなアウトカーストの村の女性でした。何を聞いたかは、ほとんど覚えていませんが、この時の私は謙虚でした。まあ、そうならざるを得ません。実は何も知らなかったという自覚があってのこのインタビューでしたから。まず、名を名乗り、「お話を伺ってよろしいですか」と相手の了解をとりました。彼女は少し驚いたようで、未だかって外から来た「偉い人」にこんな態度を取られたことはなかったからです。とりあえず、「話を聞いてくれていいよ」と快く(と私は解釈しました)承知してくれました。場所は、彼女の家の土間。呉座のようなものが敷いてあったでしょうか。CSSSのスタッフが通訳をしてくれました。

虚心坦懐に聞く、確かめる

私がこの時心に決めていたことは、知らないことは虚心坦懐に聞くこと。聞いたことがある程度で知っているつもりにならないこと。曖昧なところは、相手が不快にならない限りははっきりするまで確かめること。こんなところでしょうか。で、「まずはご家族のことから聞かせてください」というような調子で始めたと記憶しています。

この時、私はのちにメタファシリテーションと呼ばれるようになる手法の核のようなものに気づいたのです。それはこんなことでした。まず私はこの女性の家族の構成を聞きました。夫、息子2人、娘1人、夫の両親はもう亡くなっている、自分の両親も亡くなっている(彼女はよその村から嫁いできた)、息子のうち長男はビシャカパトナムに稼ぎに出ている、2番目の息子は隣町で勉強している、娘はよその村に嫁いでいる、とこんな具合に。

なるほど、では今はこの家にいるのは夫と自分の2人か、と思いながら、次に特に考えもなしに、偶然に、いや後から思えば幸運にも、「で、今ここに住んでいるご家族はお二人ですか」と尋ねたのです。それに対する答えはなんと「住んでる家族は8人です」。思わず「えっ?」となりますよね。実は、夫の弟とその妻、子ども4人が一緒に住んでいたのです。この時は、偶然の問いが私の思い込みをひっくり返してくれました。

危ない、危ない、ものごとはちゃんと確かめないといけないな、とこの時はそう思ったはずです。目の前の状況を、確実に把握しておくこと。これがそれからのインタビューの方針になったかというと、そうは簡単にはいきません。そういうことが、自然にできてくるようになるまでには、ひたすら経験を積み重ねる他にはありません。と、聞いた風なことを言っていますが、私の場合は本当にそうでした。

通訳を介する時間が生んだ質問の組み立て

こうして私のインタビュー修行と言いますか、そんなものが始まりました。当時はインタビューをすることより少しでも自分が関わる人々のことを知ろうとするのが目的だったわけですが、結果として人に話を聞く技術のようなものをだんだん会得する場になりました。

この私の「インタビュー修行時代」で、怪我の功名?とでも言えるようなこともありました。インドのこの地域の主要な言語は、テルグ語です。しかし私のテルグ語は、簡単な会話を理解する程度で、とてもインタビューができるレベルのものではありません。ということで、前述のようにCSSSのスタッフに通訳(英語−テルグ語)を頼んでいたのですが、この私の質問がテルグ語に訳されている間に、次の質問を考えることができるという思いがけない利点があったのです。


相手の話をスルーしていないか、ちゃんと知らないことは落とすことなく聞いているか、常にそんなことを確認しながら次の質問を考えなければならなかった当時の私には、この通訳が入ることでのタイムラグはありがたいものでした。

インタビュー相手が喜んだわけ

ところで、この最初のインタビュー、終わった時に相手の女性から思いがけない反応がありました。終わった時点で、私は長時間(1時間強といったところでしたかね)付き合っていただいたお礼を述べたのですが、だいぶ立ち入ったことまで聞いた自覚があったので少し恐縮もしていたのです。ところが、彼女は「話を聞いてくれて嬉しかった」と言うではありませんか。その晴れやかな表情を見ても、まんざらそれが社交辞令とは思えませんでした。

後から考えれば、それは私が、彼女が確実に答えられることしか聞いていなかったからだとしか思えません。つまり彼女の生活の具体的なことしか聞かなかった、そして少しでも分からない事があると必ずそのことについて補足の質問をした、そのことが自分のことにとても関心を持って話を聞いてもらえたと印象された、そんなことではなかったでしょうか。

立ち入ったことを聞いてしまったのに、かえって相手からは喜ばれた例としては、別の村の男性に話を聞いた時にもありました。彼は郡の議会の議員に立候補して選挙運動をした時、その選挙資金を借金で賄ったのでしたが、その借金の話を聞いていくと、次から次へとお金を借りていた事が判りました。誰からいくら借りていたのか、彼自身はっきりと分かっていなかったのです。ですから、私が聞くことによってその全体像がはっきりと判り、彼は喜んだのです。

本当は喜ぶどころではないはずですが、呑気ですね。でも、この村人たちの呑気さ、大らかさに接することができるのが、私にとってはこの仕事をする大きな魅力の一つなのです。何せ、普段の生活ではクヨクヨする事が多いですからね。

次回は、こんなインタビューを続けて、何が変わったのかということをお話しします。 

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)