中田豊一さんとは、月並みな言い方をすれば長い付き合いです。初めて会ったのが1986年ですから、今年2022年で36年の付き合いとなります。中田さんと知り合ったのは、彼がシャプラニールのバングラデシュ駐在員としてダッカに赴任した1986年5月のことです。当時バックパッカーをやっていた私は、縁があってシャプラニールのダッカ事務所にお世話になり、というより居候をし(そんな呑気な時代でした)、それ以来の付き合いということになります。年月の長さだけを言えば、それはお互いに歳を取ったというだけのことですから、ことさらにその長さを言い募ってもどうということはありません。ただ、この付き合いには、西暦2000年という節目の年があります。
西暦2000年問題など喧しかった21世紀の初めの年、和暦でいうと平成12年というなんだか平凡な響きの年、この年は私にとってもある意味運命の年でした(私は運命論者ではないので、天命とか運命とかいう言葉を使う趣味はありません。しかし、そうは言いながら「運命の年」などと言ってしまうのは、私の語彙力が乏しいからだと思ってください)。この年、中田さんと2度目の出会いがあったからです。この時の出会いの前と後では、彼との付き合い方が全く違います。それ以前は、親しいと言ってもたまに会えば楽しく語り合うだけの仲、これ以降はいわば共に同じ目的のために戦う同士とでも言う仲となります。ただし、その出会いのインパクトについて言えば、中田さんにとっては「青天の霹靂」、私にとっては「遅効性の漢方薬」のようなもので、その意味を中田さんに教えてもらうまで私は気づかないという理解の遅さでした。中田さんに何が起こったかということは、「途上国の人々との話し方」 の序章に詳しく書いてありますので気になる方は本を読んでいただくとして、中田さんにとって何が「青天の霹靂」だったか、ちょっと長くなりますがこの本から引用させてもらいます。それは、「外務省とNGOの共同評価」という行事で、その評価団に中田も私もメンバーの1人として参加し、ラオスに行った時のことです。
「…私は和田との再会を心から喜んだ。しかし、結果としてそれが私にもたらしたものは、旧交を温めるなどという生やさしいものでなかった。調査団の団長をつとめた和田は、行く先々の村で、率先して村人や担当職員へのインタビューを行った。その方法やスタイルは、私にとって実に衝撃的なものだった。…和田がやり取りを重ねているうちに、必ずと言って良いほど、人々の本音やことの真相が相手の口から飛び出してくる。それらの本音や現実は、私がバングラデシュやネパールの村人からは決して聞いたこのとない類のものだった。もっと言えば、私が無意識のうちに敢えて聞きだそうとしていなかったようなことばを、和田は、巧妙なインタビューによって、自由自在に引き出して見せたのだった。」 (「途上国の人々との話し方」17~20ページ)
中田さんはこう書いていますが、実は、私は何がそれほど衝撃的だったのか理解できませんでした。色々言い訳じみてきますが、そもそも「調査団」というのは、当時「外務省とNGO
の共同評価」という行事が毎年あって、政府のODAの資金をNGOが使うのがようやく軌道に乗り始めた頃、お互いの交流を深めるという趣旨で始めたことで、内容としては、JICAのプロジェクトとNGOのプロジェクトをちょっと視察、簡単に評価するということで、調査をして評価したところで何が変わるというほどのものではありませんでした。その調査団の団長といったところで、たまたま私が最年長ということでそういうことになっただけで、それだけのことです。そもそも、私はその年中部地方のNGOの代表ということで参加していたのですが、それもたまたまその時期スケジュールが空いていたのが私だけということで声をかけられただけで、中部地方を代表してなどというご大層なものではありませんでした。
前回の稿にも書いたように、この頃村人とのやり取りが楽しくなっていた私は、中田さんに「村のオヤジたちとのやり取りは任せてくれ」程度のホラを吹いていたような気がします。それで、中田さんたちは「じゃあ、やってごらん」と私に「率先して」やらせてくれたのでしょう。私にとって、ラオスという国はその時初めて訪れた国であり、その国について、そしてラオスの村についてはほとんど何も知らないという状態でした。結果として、村で色々話を聞いて、自分でも納得のいくやり取りができ、「なんだ、インドもラオスも、村のおっちゃんたちは変わらんな」という自分なりの達成感、そして「村人とのやり取りの技術」がインド以外でも通じることが嬉しかったのを覚えています。
しかし、中田さんがなぜ衝撃を受けたのか、正直言って私にはよくわかりませんでした。なぜなら、当時私にとって中田さんは言わば雲の上の人。こちらは地方の小さな、本当に吹けば飛ぶような無名のNGO。かたや中田さんは、東京の老舗のNGOであるシャプラニールのダッカ駐在員を勤めた後、阪神大震災の時は、阪神大震災地元NGO救援連絡会議事務局長代行、そしてその後セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン事務局長を務め、ODAを含めた援助業界ではそれと知られた存在でした。手がけたプロジェクトも私が当時やっていたささやかなものとは比較にならない規模のものです。しかも、この評価の対象となったのは、NGOのものは東京のある大手のNGOのもの、そしてODA(実施はJICAです)のものが二つ。そういう「本格的な」プロジェクトを目にするのも初めての経験でした。だって、当時はまだ日本のODAも景気が良く、JICAのプロジェクトなんて、始める前の「悉皆調査」では、プロジェクト候補地の航空写真まで撮るのです。まあ、言わば私にとってはキラキラした世界です。田舎の素人芝居の役者が、突如東京の大舞台に紛れ込んだようで、私としては、中田さんを頼ってその陰で小さくなっている(はたからそう見えたかどうかはわかりませんが)しかないわけです。
では、初めての経験でしたけど、この目で見たキラキラしたプロジェクトはどうだったかというと、エンドユーザー、いわゆる受益者と呼ばれている地元住民(この場合都会に住んでいる人は対象となっていないので村人ですね)とは随分とすれ違っているなという印象でした。この規模のプロジェクトを実際に見たことのなかった当時の私にも、何人も村人から話を聞いて分かったのは、いずれも金の切れ目が縁の切れ目、村人の自主的な活動も持続性もまず無理というものでした。
しかも、です。NGOの端に連なる私にとって意外というのか、これはまずいなと思ったのは、住民、コミュニティを直接対象として、いわゆる「参加型」でプロジェクトをやる場合のODAとNGOの差が全くないことでした。つまり、このレベルではODAもNGOもやっていることは基本的に同じということです。それはすなわち、一番肝心なこと、つまり現場の活動の質でNGOはODAを批判できないということで、ラオス一国の、それもODAのプロジェクトが2つ、NGOのプロジェクトが1つ見ただけなので、それをもって全体がどうのと言うことはできませんが、では自分ならこの規模でプロジェクトをやるならどうするということをいつも考えるというきっかけになりました。
で、中田さんです。この時、私はこれまで述べたように自分なりの収穫があったのですが、そのことが中田さんに何をもたらしたかなどと考えもしませんでした。ところが、中田さんがこの期間、だんだん私に質問をしてくるようになりました。「和田さん、今のインタビューどうやったの?」「へっ?どうって…(いや、相手が答えやすい簡単な質問しただけですけど、それが何か?)」などなど、私にとっては、聞いての通りで何が分からないのか分からないのです。でも、質問の内容が、なぜ私が質問するといつの間にか相手が本音を語るのかということらしいと分かると、「だから、魚を網の中に追い込んでいくように質問を組み立てるの」などと、今から振り返れば呆れるようなことを答えたりしていました。ま、実は私も自分が何をしているのかよく分かっていなかったので、それ以上の気の利いた答えは出てこなかったというのが正直なところです。しかも、私が自然にできるようになったことだから、こんなことは誰だってやっているだろうに、と当時は本気でそう思っていました。だから、中田さんが何に感心しているのかよく分からなかったのです。
でも、その後が楽しかった。中田さんがインドの私のフィールドに来たり、またこの翌年には、この外務省の行事と同じような行事で、JICAとNGOの共同評価というものがあり、その時も、中田さんと一緒にインドネシアに行くことになったりしたからです。その間、中田さんに色々聞かれることで、私にも自分が何をしているのか、だんだん見えてくるものもありました。それは次回で。
和田信明(ムラのミライ海外事業統括)