2022年12月21日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(5)

植林も、コミュニティーのニーズに応えるというプログラムも、そして識字教室も、目的がなかった、根拠がなかったと前回書きましたが、一体何がいけなかったのでしょうか。

何のための森づくり?設計がない植林プログラム

まず植林とは言うものの、このプログラムが終了した時点でそれぞれの村で全体としてどんな森を作るのかという設計がありませんでした。果たして水源涵養なのか、果樹園なのか、土壌流出を防ぐのか、木材を生産するのか、どの目的に照らしても中途半端なものでした。いずれにせよ、収入源となるはずの果樹も木材も、専門的にマンゴーやカシューなどの果樹を栽培している農家や、木材を育てている林業家に対抗できるはずもなく、つまり市場で商品価値のある作物を育てるだけの技術もなく、収入にはほとんど結びつきません。

「貧困」への対症療法的プログラム

二つ目のプログラムも、目的がはっきりしない、何を目指すのか、各受益者が、例えばヤギを飼育して売ってその売り上げから得る収益はなんなのか、灌漑池は本当に期待した面積の田んぼを灌漑できるのか、プログラムが終了した時にどうなっていたいのか、そのことにどのような根拠があるのか、考えたこともなくやみくもに始めてしまったというお粗末さでした。そもそも、目に見える「貧困」はあっても、当時は貧困とは何かという理解、洞察がまるでありませんでした。例えば、頭痛がすると言っている人に、その原因を調べることもなく頭痛薬を与えて何とかなるだろうと思っているヤブ医者のようなものです。実際には、そんなお医者さんはいないでしょうが。ヤギを売って数百ルピーを得て、それが一人一人の受益者にどんな効果を与えるのか、マイナスの家計がプラスになるのか、マイナスが少しマシなマイナスになるだけなのか、この売り上げが家計の何パーセントになるのか、ヤギを育てるコストはいくらなのか、そんなことも考えずにやっていたのです。


高揚感に満ちた日々に、もたげてきた疑念

灌漑用のため池も、井戸掘りも似たようなものです。水の需要と供給を正確に把握してやっていたわけでもなく、さらには水の保全活動と組み合わせてやっていたわけでもありません。このような村の資源、環境全体を視野に入れて活動できるようになるには、水利系の概念を知るまで後十年ほど年を待たねばなりませんでした。

識字教育も、今考えればいくつも欠点がありました。まずは目的の曖昧さ。何をどこまで教えて、どこで終了とするかがハッキリないまま始めています。そして、教育そのものの方法論がなかったこと。特に子どもたちの理解に合わせた方法論がなかったこと。そして何よりも、インストラクターたちに対する研修もなしに、実施したこと。当時の私に対してはツッコミどころだらけです。

しかしツッコミどころだらけだった私は、それでもそれほど自分たちがやっていることを全面的に肯定していたわけではありません。前回も書きましたが、これらのプログラムを実施するのは、そしてその現場に赴くのは実に高揚感に満ちた日々であったことは間違いありません。特に、田んぼの畦道を懐中電灯で照らしながら、村の夜間識字教室を見に行くときなど、この高揚感は一際大きかったものです。教室に当てられた村の家には、石油ランプしかなく、その灯火のもと石板に字を一生懸命書く子どもたちを見るのは感動的でした。その場でやたら感動していたのは、間違いなく私だけだったでしょうが。


ところが、そんな私にもときどき疑念のようなものがむくむくと頭をもたげてくる時がありました。村では、必ずと言っていいほど個人的なものを含んださまざまな要求をされました。そんな時は、一体いつまでこういう要求に応えなければならないのだろうという、ある種の恐怖を伴った疑念が湧きます。また、各プログラムにはさしたる目的も、それを検証する方法もなかったと述べましたが、それはある意味気楽なことではある反面、かえってそのことがいつまでこれを続ければいいのだろうかという疑念を生む土壌にもなっていました。普段は、なるべくそんなことを直視しないようにしていたのですが。

しかし直視しなくても翌年の予算は立てずにはいかないわけで、そのときこそ、どのプログラムを止めるのか続けるのかの判断をしなければなりません。それこそ、お金は無限にないどころか、元々雀の涙程度のものしか用意できなかったのですから。しかし、当時の私には、プログラムを何か止めるにせよ、どのように優先順位をつけていいかわかりません。それはそうですよね。そもそも、始める時に明確な目標、そしてそれが達成できたかどうかの指標もなかったのですから。ですから、何も止めることができずにそれぞれ予算を減らすとか(増やすという選択肢は当然ありませんでした)、そんなことでお茶を濁すしかありませんでした。

気がついてみると、相手のことははっきり見えず、なんだか靄がかかった状態で、1人で望まれもしないダンスを踊っているような、なんだか情けない話です。で、私はあることを決心し、実行しました。それは次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)