2024年10月30日水曜日

セネガルで学んだ「自分の認知を知る」ということ 〜ムラのミライのプロジェクト視察〜

 「ムラのミライの海外事業地へ行く和田さんに同行し、ファシリテーションスキルを見てみたい!」
ということを和田さんに伝えると、OKの返事をいただいたので和田さんと原さんの渡航に合わせてセネガル農村部で行っている持続可能な農業プロジェクト地を訪問させてもらいました。


セネガルの農村部では、近代農業の普及と人口増加が自然環境に負担をかけ、農業が続けられない状況が広がっています。若者たちは希望を求めて都市部に移り住み、農村は活力を失いつつあります。
そんな中で、ムラのミライは地域資源を活用し、雨水を効率的に土壌に浸透させる技術を導入することで、作物の生産性を向上させるプロジェクトを推進しています。
このプロジェクトが始まって3年、住民たちはその成果を実感し始めていました。

 

訪問の目的は、プロジェクトを遂行する中でどのようにメタファシリテーションを使っているのかを学ぶことでした。
 

実際に和田さんの質問を聞けたのは、村の関係者による会議に参加したときのことです。
 

プロジェクトが来年初めに終了するため、ため池を管理するための土壌保全委員会の結成について話し合っていました。
村人たちは新しい委員会を作るべきか、他に方法はないかと議論していましたが、和田さんはその間、ずっと耳を傾けているだけでした。

そのうちに、既存の村落自治委員会で管理はできないかという提案がありました。
和田さんはそこでもただ聞いていましたが、最後にこう質問しました。
「その定款を最後に読んだのは誰ですか?」

村人たちは「読んでない」「どこにある?」と話し始め、最終的には「次回のミーティングまでに定款を読んでおきます」という結論に。

和田さんは「ではそうしましょう。次回のミーティングはいつにしましょうか?」と確認して会議は終了しました。
 

「その定款を最後に読んだのは誰ですか?」と和田さんが聞いた時、ただ「事実を確認する質問」に見えますが、実は自分も知らないことを知りたいという姿勢がそこにあると思います。
この質問により、村人たちは「自分たちがやるべきこと」を自然に意識し始め、和田さんが答えを押し付けるのではなく、彼ら自身で気づきを得る場となりました。


会議後、和田さんにこの対話について聞いたところ「質問というのは、自分がわからないことを聞くことだ」とおっしゃっていました。
この言葉はシンプルですが非常に重要です。
 

メタファシリテーションでは、相手に気づきを与えることだけでなく、相手を知ろうとする姿勢が欠かせません。
事実に基づいた質問をすることで信頼関係が築かれ、対話は自然と深まり、相手との関係も強くなっていくのです。
 

もしあなたが誰かに自分のことを聞いてもらう場を想像してみてください。質問してくる相手が本当に自分のことを知ろうとしてくれる、その気持ちが伝わると嬉しいですよね!
相手を知ろうとする気持ちから生まれる質問は、決して上から目線ではなく、対等な対話の中で生まれるものなのです。
 

次回のブログでは、セネガルで学んだもう一つの重要なポイント、「要素を分解すること」について具体的な対話事例を用いてお話しします。
特に、相手の話を聞きながら、どのように重要なポイントを見極めて深掘りするか、そのプロセスについてご紹介します。
お楽しみに!


松浦史典 ムラのミライ認定トレーナー) 

 


2023年12月28日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(20)

この連載は、一応今回で終わりということにします。タイトルで「できるまで」と謳っておきながら、「できてしまった」後のことまで延々と書いているので、看板に偽りありと言われそうですが、メタファシリテーションは、技法、教授法、そしてそれを支える制度までまだ発展途上なので、完成形ではないという意味で「できるまで」なんだとご了解ください。


「メタファシリテーションができるまで」の現在までを3つの時期に分けるなら、私が国際協力の世界で、自分で団体を立ち上げた1993年から2006年辺りまでが、メタファシリテーションの「ネタ」の仕込みの時期と言えます。この間、私の南インドの現場での悪戦苦闘があり、徐々に自分なりの方法論と言いますか、技術を身につけ始め、それに従って資金を調達する以外の現場仕事が楽しくなってきた時期です。この間、中田豊一さんとの第2の出会いがあり、彼が私の現場でのパフォーマンスに感心してくれ、彼と様々な議論をする中で、私自身の学びもパフォーマンスの向上もあり、自分のやり方があながち的外れなことをやっているのではないという自信がついてきた時期でもあります。


第2の時期が、2006年あたりから、中田さんがメタファシリテーション(当時はメタファシリテーションという言葉はありませんでした)の講座をやり始めた、つまり私の現場でのパフォーマンスを言語化し、体系化し、それを教授し始めた頃からの時期です。中田さんの偉いところは、この言語化という作業の過程で、様々な練習方法を自ら編み出し、それを自身で実践し、技術を身につけていったことです。そして、途上国の現場で現地のNGOや日本人の駐在員に、地元住民とのやり取りをやって見せて、技法の有効性を示していることです。自分で言うのも気が引けますが、「和田の現場でのやりとりはすごいんだよ、でも、こう言う理屈を理解してこうやって練習すれば、和田のようにできるんだよ」と言うことを実践しているわけで、まさに彼が体系化した技法の中身が「看板に偽り無し」ということを実証して見せています。


この間、2010年には、メタファシリテーションとは何か、ということを詳細に説いた「途上国の人々との話し方-国際協力メタファシリテーションの技法」を中田さんと私の共著で上梓しました。思えば、「メタファシリテーション」という言葉を公に使ったのは、この時が初めてです。そして、これ以降、私も中田さんが編み出した「メタファシリテーション」の講座を少しずつ講師としてやるようになってきました。このような講座をやることの最大の利点は、受講生の中からメタファシリテーションをより深く学び、自分も講師になるという人たちが出てくることです。言語化され、体系化された手法の凄さは、こういうところにあります。メタファシリテーションという手法として確立される以前は、私のパフォーマンスを実際に現場で見て、それを真似していく、つまりは徒弟制度の親方と弟子のような継承のされ方しかなかったわけで、中田さんも、当初はわざわざ私の現場まで訪ねてきて、私を観察するということをしていたわけです。しかし、手法として確立し、教授方法も確立してくると、多くの人が私を直接見ることなく、技法を学び、望めば自分で習得していく道が開けるわけです。おかげで、私が長年現場で直接鍛えた数少ない弟子たち以外に、講座の講師としてメタファシリテーションを広めてくれる人たちが、段々と増えていきました。


第3の時期が、2016年頃以降、現在に至る時期です。宮下和佳さんが中心になって、メタファシリテーションの制度化を積極的に進めてくれた時期になります。中田さんや私の次の世代に、メタファシリテーションが引き継がれた時期です。私は現場の職人、中田さんはいわば現場の思想家なので、きちんと制度を整えたり、さらに多くの人々へのアクセスをよくしたり、など必要性は理解していても中々できません。中田さんが開いた課程をステップ1からステップ3という形で展開し、教材を整え、ビジュアルの面でも工夫を凝らし、さらには、3段階の検定試験を設け、誰でも望む人は試験を受けて講師の資格を得ることができる認定トレーナーの制度を設けるなど、中田さんや私などの手を煩わせることは、何もなくなっていると言って過言ではありません。


何よりも嬉しいのは、次世代の皆さんそれぞれ、職場、子育て、医療、福祉など、そもそもの国際協力の現場を超えた分野で、メタファシリテーションを応用し実績を積み上げつつあることです。この後、どんな展開を遂げていくのか、楽しみです。今後、メタファシリテーションのプロジェクトでの応用など、まだまだ言語化しなければならないことがあるように思えます。それは、才能豊かな後輩たちがやってくれるでしょう。


最後に、蛇足であることを恐れずに言えば、私がのちにメタファシリテーションと名付けられた手法を発見し、その手法に熟練していくにつれ分かってきたことは、この手法を身につけると余計なことで思い悩むようなことがなくなってきたことです。もやもやしていることなど、その根拠が明らかになってみれば、なあんだ、こんなことでクヨクヨしていたのか、ということが多いのです。そうなると、私にとっての悩み事は、家族のために作るご飯を何にしようかということだけになります。歳をとるにつれてあれこれ出てくる体の不調はともかく、心だけは随分と軽くなります。
では皆さん、いずれまた。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 




2023年11月30日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(19)

のっけから横道に逸れます(って、いつもそうじゃないかというツッコミは無しに願います)。
今月の半ば頃(本稿を書いているのは、2023年10月)、膀胱結石の摘出手術を受けました。とても自力では排出できないほど肥大化した石が、私の体内に居座り続けていたわけで、それが膀胱まで降りてきて、「まあ、取った方がいいですね」と医師に言われ、「ではお願いします」ということで受けた手術です。別に開腹手術をするわけではなく、内視鏡ですかね、を尿道から差し込んで、中で石を砕いて摘出するというもの。順調に行けば1時間強で終わるようなオペです。

と、ここまではよかったのですが、私がびっくりしたのは、これをするのに全身麻酔をするということ。幸いにも(あるいは不幸中の幸いか?)、私は薬にもアレルギーがなく、これまで歯を抜いたり胃カメラを呑んだりしたときに部分麻酔をかけてもなんの問題もなく、今度も全身とは言え大丈夫だろうとは思ったのですが、正直、ちょっとビビりました。医師も、100%大丈夫だから、などとは決して言いません。万が一などと脅かされると(別に医師が脅かしているわけではありませんが)、元来が小心者の私は一抹の不安を抱えて手術に臨むことになります。で、終わってみればなんということはない、無事に手術も済み、この身もなんの問題もなく(血糖値とか尿酸値とかそういう話はこの際無しですよ)3泊4日で退院できたという次第でした。


で、何が言いたかったかというと、麻酔がかかっている間のことは、一切意識にない、記憶にない、つまり何が起こっていたのか全く分からないという状態だったということです。いつ麻酔で意識を無くしたのか、そしていつ麻酔から覚めたのか、全く分からず、いつの間にか「また」この世に存在していたという不思議な感覚を味わったのです。「また」というのは、記憶まで失ったわけではないので、己が何者かという記憶はあるわけで、人生の連続性とでもいうものはあった、和田信明は不滅だ、ではないにしても和田信明の人生は再開されたというわけです。


何を大袈裟な、普段でも深い睡眠の時は、記憶などないだろうに、とおっしゃるなら、その通りというしかないのですが、やはり、眠りに落ちてしまう前後がまるで違います。睡眠の場合は、うう、眠いな、眠いな、もう目を瞑って寝てしまおうという過程があり、そして目覚める前も妙な夢を見たり、あるいは尿意などを催したりして、夢現の中にぼちぼち目を覚まして起きるかなどという過程もあります。でも全身麻酔の場合は、このような諸々が全くない。いきなり意識がなくなり、いきなり目覚めている。気がつくと、あ、この世に存在していた、そんな感覚です。


それ以来、再び日常の些事に一喜一憂する生活をしているわけですが、思い返せば、この様な感覚は、あるいは似たような感覚はこれまでにも何度か持った記憶があります。それは例えば南インドの山の村で、インドネシアの南スラウェシの村で、イランのハマダーンの近郊の村で、あるいは…


この、あ、気がつくとここにいた(あるいは存在した)という様な感覚は、私の話し相手の村人のふとした表情と分かち難く結びついています。なんと言いますか、私が、あ、気がついたらここにいたという感覚を覚える時、相手は心持ち顔を横に向け微風に頬を嬲らせながら神々しいとでもいうほかない表情をしているのです。別にその人が神々しいとか、その人の人生が神々しいとか、そうではありません。そうではなくて、あえて言えば、存在自体の(その人の、ではありませんよ。存在すること自体の、とでも言いましょうか)神々しさとでも言うのでしょうか、侵し難さとでも言うのでしょうか、そんなものを感じさせる表情を、相手がふと見せるのです。この相手は名もない庶民、相対する私も名もない庶民、偶然この世に生まれ落ち、もちろん生まれ落ちた時間も場所も選んでいません。そして彼らも私も、日常の些事をこなしながら小さく、小さく地球の片隅で(死ぬまで)生きている、そんな感覚です。


ならば私はその「小さい、小さい些事(意味重複ですがあえて)」をできる限り知りたい、できる限り詳しく知り、相手と私、その場は狭い空間ながらも彼我の間に何か繋がるものがあるのか、見てみたい、といつの間にか思うようになっていたのでしょう。昔々、クロード・レヴィ・ストロースの本を、一生懸命赤線を引っ張りながら読んでいたら、「神は詳細に宿る」みたいなフレーズがありました。どの本のどのページだったか覚えていません。そもそも、読んだ内容も、このフレーズ以外はさっぱり忘れているのですから、私も余程学問からは見離された存在なのでしょう。でも、このフレーズだけはその時から半世紀以上経っても忘れず、今は、ひたすらこの「詳細」を知るために相手の話を聞いています。


そう、「詳細(英語で言うと‘detail’ですね)」には神か何かは知りませんが、明らかに何かが宿っているのです。相手の話を丁寧に、詳細に(分解して、というメタファシリテーション定番の方法です)聞いていくと、その人の個人史もさることながら、その人が生きてきた時代、環境の変化など浮かび上がってきます。そして、「彼らの問題」ではなく、彼我を貫く問題まで浮かび上がってきます。言い換えれば、社会や文化や文明の問題ではなく、中田豊一さんが言うように「私の問題」が浮かび上がってくるのです。中田豊一さんが練り上げた、そして、彼に続く認定トレーナーたちが日々改良を加えているメタファシリテーションを使う醍醐味は、まさにそんなところにあります。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月16日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(18)

前回は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません、というか、相手の腑に落ちるような譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということをお話ししました。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません、ということころで終わりましたね。

メタ認知と言ってもそんなに難しいことではありません。自分だったらこんな時は楽をしたいな、休みたいな、そんな時にどうしたら自分はモチベーションが上がるだろうか、など具体的な状況で自分ならどう反応するか、それを自分の胸に手を当てて正直に考えてみればいいだけの話です。それでも、これがなければ、相手に対する想像力も働きません。こうあるべきだ、などというメタ認知が決定的に欠けた上から目線では、相手の共感も何もあったものではないということです。相手に対する想像力が働けば、こんな状況ではどんな発想をするだろうかという想像も働きます。そして、そのような発想に沿った、相手の身近な習慣、話題、などを例え話として話すと、相手の腑に落ちるという可能性は高まります。


以下は、私の例え話の「最高傑作?」として、中田さんが「途上国の人々との話し方」(みずのわ出版、2010年)p336〜337に紹介してくれたものです。インドネシアのスラウェシ島北部の海岸沿いのバジョ族(海洋民族です)の村での話です。その村を訪れた時、村を案内してくれた女性リーダーが、「みんな(プラスチックゴミを)ポイポイ捨てるものだから、ご覧の通り村はゴミだらけです。(略)なにかいい方法はありませんか」と私に相談しました。そこで私は同行していた村人たちにこう語りかけました。

和田「命はどこから来ますか。」
村人「アッラーからいただいたものです。」
和田「では、終わったら誰に返しますか。」
村人「地上の生命が終われば、アッラーにお返しします。」
和田「そう、アッラーにいただいたものは、アッラーにお返しする。」
和田は天を指しながらそう言うと、次に波打ち際のプラスチックのゴミを指差して尋ねた。
和田「このゴミは、もともとはどこから来たものですか。」
村人「お店で買ったものです。」
和田「その商品はどこから来たのですか。」
村人「町の工場でしょうね。」
和田「これを捨てた人はどこに返したのですか。」
村人「海ですね。」
和田「工場から来たものを、この人は海に返したのですね。あなたたちはアッラーから来たものはアッラーに返すと言いました。では、工場から来たものはどこに返さなくてはならないのですか。」
村人「工場です。」
厳粛な顔つきになった村人に、和田が言い添えた。
和田「町から来たものは町に返す。陸から来たものは陸に戻す。海から来たものは海に返す。これがエコロジーです。」

この例え話はよく覚えています。その時の詳しい状況は、もう忘れてしまっていますが、村の海の波打ち際にプラスチックのゴミが散乱していたことは、よく覚えています。この浜辺にプラスチックゴミが散乱しているという光景は、このスラウェシ島のバジョ族の村ではなくとも、現在は途上国の海岸の至る所で目にする光景です。日本の海岸も、散乱というほどひどくはなくとも、プラスチックゴミを見かけます。敢えて言えば、この「海辺のプラスチックゴミ」が象徴する課題を私たちムラのミライは、彼我の共通の課題として解決するために、日本と途上国で活動しているのです。この辺りの事情は、中田と私の共著「ムラの未来、ヒトの未来」(竹林館 2016年)に書いていますので、よかったら読んでみてください。

さて、話を戻せば、例え話をするとして、毎回クリーンヒットというわけにはいかないので、できのよかったネタは覚えています。このバジョの村での話も、よく覚えているのですが、残念なのは、できがよくても2度と使う機会は巡ってきません。私の場合の例え話とは、その場の状況に合わせてその場で思い付かなければならないもので、同じ状況が2度と巡ってこない以上、せっかくいいネタを思いついても、その場で1度使えば終わりということです。

まさに、そのような状況そのものが滅多にはないことですが、状況が巡ってくれば私は「神様ネタ」を時々使います。私自身は特定の宗教、信仰に帰依することがこれまではありませんでしたが(そして、これからもないのではないかと思っていますが、何が起こるか分からないのが人の世の常、断定はしないでおきましょう)、他人の信仰は尊重します。途上国では敬虔な信仰心を持った人が多いし、特に回教国では、そのように感じます。彼らは、たとえ研修中でもお祈りの時間が来れば、研修を中座して、祈りを捧げに行きます。ここで紹介した例え話は、そのような彼らの信仰心への信頼とも言えるものがなければ出てくるものではありません。彼らの敬虔さ、誠実な信仰心を日頃感じていたからこそ、このような例え話を真摯に受け止めてくれるだろうという確信めいたものがあり、その場で咄嗟に出てきた話だったわけです。

ところで、この例え話は私が一方的に話したものではなく、あくまでも私が問いかけ、相手に答えてもらうという形をとっています。そして、「掴み」のところの「命はどこからきたか」という問いかけ以外は、すべて事実を聞いています。つまり、メタファシリテーションの基本に沿って対話を組み立てています。くどい様ですが、相手が多数でも、例え話をするときも、必ず問いかけ、相手とともに事実を確認していくというのが基本です。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月7日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(17)

おばあちゃんがふむふむと頷いてくれるような例え話

前回の続きから。おばあちゃんにどんな例え話をすれば、空気中の酸素の存在をそれなりに納得させることができるか、というのがお題でしたね。みなさん、何か思い付かれましたか。私のは、こうです。


「サンバル(南インドの、野菜がいっぱい入ったいわば“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るとき、何を入れる?」。
恐らく毎日のようにサンバルを作っているおばあちゃんは、即座に材料を答えてくれる。
「じゃあ、ダル(ま、これも豆の“味噌汁”のようなものだと思ってください)を作るときは?」。
これも毎日作っているので、即座に材料を答えてくれる。
「で、この二つに共通の材料は?」。
ふむふむと考えながら、これもおばあちゃんは答えてくれる。そこで、次の問い。
「この中で、入れると溶けちゃって見えなくなる材料は?」。
数秒の間ののち、「あっ、塩だ!」とおばあちゃんは答えてくれる。
「そうだね。塩は溶けちゃうと見えなくなるね。でも、入っていないと食べてみれば絶対分かるよね。」
おばあちゃん、頷く。「塩の入っていない料理なんて、考えられないよね。」
おばあちゃん、これにも当然だという表情で頷く。
「料理に塩が入っていないと、料理にならないように、空気の中にも、見えなくてもないと困る、それがあるから私らが、息ができる、それが酸素というものなの。」ここでおばあちゃんは、なるほどという表情で頷く(はず)。

実際には、集会の後で思いついたので、こういう風に行ったかどうかは分かりませんが、まずこんな感じで行けたのではないかという予想というか、確信というかは、これまでの経験からあります。残念ながら、この譬え話のネタはこれまで使う機会がなく、これがあの時できていればなぁ、という私のほろ苦い経験としていつまでも覚えています。だいたいうまく行った時の話なんてすぐ忘れてしまうものですが、失敗というか、後でああすればよかった、しまったな、という経験はいつまでも覚えているものです。

無自覚な上から目線

ところで、海外協力、援助(国内の支援活動でも同じことが言えますが)をする側が陥りやすいのが、自らの使命の高尚さ、崇高さとでも言うのでしょうか、理想の社会の実現に向けて活動をする、しているという思いの強さ、思い込みの強さが、ともすると相手にも理想の姿を求めてしまう傾向があります。決してスーパーヒューマンを求めるのではないにしても、これはコミュニティのためだから、このくらいは無償でボランティアするのは当たり前、自分の健康のためだから毎日薬を飲むのは当たり前、子どもの学校を建てるのだから積極的に協力するのは当たり前、自分たちのための施設だから、自分たちで管理運営していくのは当たり前、などなど、相手側の役所、住民に対してこのような期待を持ってしまうことが多々あります。というか、ほとんど百パーセントがこんな具合ですかね。

なぜ私が確信を持ってそんなことを言えるのか。それは、私たちのところに持ち込まれる国際協力NGOの相談事が、全て「相手がこちらの期待通りに動かない」というものだからです。これは、相談を持ちかけてくれるNGOの規模の大小には関わりません。それこそ、その名を聞けば誰でも知っているような大きな団体から、みんなが無償ボランティア、予算規模も年間せいぜい100万円前後というような小さな団体まで、事情は変わりません。


メタ認知が欠如すると例え話はできない

こんなことが起こる理由は、簡単です。それは一言で言えば、要求する側のメタ認知が足りない、あるいは全くないからです。平たく言えば、あんたは他人に理想のあり方を求めるほど理想的な人間か、ということ(つまり、他人に要求するようなことを、自国で、自分の生活圏で、自分の日常でやっているか?ということ)に対する自覚がない、ということに尽きます。

そうやって、自分の胸に手を当てて考えてみると、プロジェクト先の住民には地域の保健委員として家庭訪問を定期的に巡回することを要求しながら、自分は住む地域でボランティアをやったこともない、せいぜい年に一度か二度お祭りなどのイベントに参加するだけだ、などということはザラにあります。ましてや、外国の任地に長期間いる場合、本国でそのような時間はないということです。


また、地域の助け合いが必要などと呼びかける側の地方自治体職員が、自分は家には寝に帰るだけで、地域の助け合いどころではないというのもよくある話で、これも自分のことは棚に上げて、という例です。

当然ながら、自治体の職員はいくつものプログラムを兼務して極端に忙しいという方も大勢います。ですから、問題は、さまざまな事情があって地域のボランティア(持続的、かつ定期的な)ができないことではありません。問題は、そのような自分に対するメタ認知があるかどうか、そして、自分がそうなら働きかける相手も十分にそのような事情にあるのではないか、という想像力があるかどうかの問題です。

しかも、働きかける方は、給料をもらいながら仕事としてそれをやっている。働きかけられる方は、特に途上国では、それでなくても身を粉にして必死に働いて生き延びている。例え、家庭の主婦といえども、朝から晩まで厳しい労働をしている(水汲み、農作業、薪取りなどなど)ので、自分が地域でボランティアができない以上の厳しい条件にあるかもしれないということです。


要は、そのような想像力もなく(従って必要な配慮もできず)、そしてメタ認知もないのに上から目線で偉そうに相手に要求するなということです。しかも、住民参加というのはこのような現状認識に立って、初めて築き始めることができるものなのです。で、例え話は、実はこのような現状認識がないとうまく使えないということを言いたかったのですが、そこに辿り着くまでに長々と語ってしまいましたね。

要は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません。というか、相手の腑に落ちる譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということです。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません。

この続きは、次回。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)


2023年10月23日月曜日

思春期の子どもとのコミュニケーション講座ができるまで

子育てに活かした3原則とメタファシリテーション(R)

私(中田)が、メタファシリテーション(R)手法のもともとの創設者である和田信明の開発援助の現場でのあまりに見事な対話術に出会って驚愕したのが2000年。
それを自分のものにすべく練習を始めたのですが、その際に私が練習相手に選んだのが、一番手近にいて、しかもやり取りにいくらでも時間を割ける2人の子どもでした。

本格的に練習を始めた2002年頃、娘が10歳、息子が6歳ほどでしたが、その後、彼らが大学を出る頃までの間、対話術の練習と試行、さらには体系化のための分析にフルに利用させてもらいました。


そこで依拠した主な原則は、次の3つでした。

1)「なぜ?」「どうして?」と聞かない

特に、終わったことに対して、「なぜ〇〇しなかったのか?」とは絶対に尋ねない。

2)相手が求めてこない提案(アドバイス)をしない

相手が求めてこない提案やアドバイスをこちらから与えることを厳に慎み、できる限り質問の形をとる。

3)他者との比較をしない・一般論に基づく働きかけをしない

「〇〇君はこんなことができるそうだが、お前はできないのか?」などという他者との比較、あるいは「お姉ちゃんなんだから、〇〇すべき」などという一般論に基づく働きかけは決してしない、などでした。

これだけの制約を自分に課すだけでも本当にたいへんでしたし、それに代わる働きかけ方を見出して実行するのはますます容易でありませんでした。

対等で信頼関係に満ちた親子関係と子どもの主体的な進路選択

しかしながら、これらを地道に積み重ねていった結果、私の対話術は着実に上達し、さらにうれしいことには、子どもたちとは対等で信頼に満ちた関係が築かれて行ったのです。それが、子どもたちの自由で主体的な進路選択にも繋がったようです。
長い人生ですので、これからもこの関係が続くかどうか、その選択が本当によかったかの保証はまったくありません。とはいえ、子育て期間を振り返ってみて、業務上の目的のために子どもたちを練習台に使わせてもらったことが、結果としてお互いにとっての豊かな関係に繋がったことは、幸運以外の何ものでもありませんでした。

成果がでる/でないの分かれ道

今さらながらですが、この経験を、私に比べれば年若い皆さまと共有することで、よりよい親子関係のために少しでもお役に立てていただければという思いから、この手法の開発と普及に努めてきたわけです。
関係は複数の要素の相互作用で成り立っています。
コミュニケーションの改良だけで、確実に改善するという保証はないわけものの、これまでの経験から改めてわかったのは、成果が出るかどうかは、まず、ご自分の状況をどのように受け止め、それに基づき、どう自分を変えていけるかにかかっているということです。
 
中田 豊一(ムラのミライ 代表理事)

 

→思春期の子どもとのコミュニケーション講座の詳細・お申し込みはこちら



 

2023年10月10日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(16)

今回は「例え話」の話から。


前回、一対多のやり取りでは、集会に集まった参加者の中で一番所在なげな表情をしているおばあちゃんをボトムラインに置く(というとモノみたいですが、要は、このおばあちゃんに話に加わってもらえないならこの集会はダメな集会だという基準になってもらう、もちろん私がそう心の中で定めているという意味ですよ)ということをお話ししました。そのボトムラインのおばあちゃん、ほぼ百パーセント動員され、そして話を聞いても分からないしつまらない。あるいは、分からないからつまらない。だから、集会が終わるまでぼんやりと過ごすしかない。こんなところでしょうか。難儀なことです。

そのおばあちゃんの胸中は、察するにあまりあるというほどではありませんが、私自身の類似の体験といえば、学校時代の入学式とか卒業式のうんざりする祝辞でしょうか。話に引き込まれて、思わず聞いてしまった、というような経験は皆無です。私の人生で他人の迷惑になったことがないと言い切れることは、自分がこのようなうんざりするような祝辞を述べる立場になったことがない、ということだけです。


さて、このようなおばあちゃんがいる集会で、私がなすことは、おばあちゃんが興味を持って話題についてきてくれる、発言もしてくれる、そんな集会にすることです。その手始めは、壇上から降りて会場のみなさんにできるだけ近づいてから話すこと。物理的に距離を縮めてしまうことですね。みなさんが床に座っている時は、私もなるべく床に座るようにします。これも、物理的に「上から目線」を解消するわけですね。もっとも、一旦座ってから、また立つこともあります。それは、会場の後ろの方から「おい、顔が見えないぞ」というリクエストというかクレームというか、声がかかった時です。少々あざといようですが、要は、これだけでも「こいつは何を話すんだろう」という期待を持ってもらうことができます。その期待が高まったところで、私が最初にすることは、会場に問いかけることです。例えば、こんな具合に。


「私は、今年で〇〇歳になりましたが、この会場で私より年上の方はいらっしゃいますか?」


すると、おずおずと手をあげるおばあちゃん(おじいちゃんの場合もあります)が大概いますね。ここで、おばあちゃん(場合によってはおじいちゃん)の歳を聞くようなことはしません。出生届とかないところで年寄りに年齢など聞いても、適当な答えが返ってくるだけです。自分でも、自分の正確な年齢など知らないでしょう。で、何を聞くかというと、
「あなたは、この村のお生まれですか。」から始めます。


すると、「いんや、ここではねぇ。〇〇村からお嫁に来ただよ。」というような答えが返ってくる確率が高い。こういう場合は、次に「お嫁に来たのは何年前か覚えてますか。」と聞きます。「さあて、50年以上前になるかねぇ」と答えが返ってくれば、大体15歳から20歳の間に嫁入りしてきたと考えて、このおばあちゃん、65から70歳くらいかな、という見当がつきます。今の日本では、70歳などというとまだまだ現役。でも、途上国の草深い田舎の村の70代と言えば、もうヨボヨボと言った見かけになります。きっと、日の光を浴びながら、日中激しい労働をしてきたのでしょうね。


私の知る限り、農村の女性は、朝暗いうちから夜遅くまで働き詰めです。朝暗いうちに起きてトイレを済ませ、というのはオープントイレットですからね。人目を避けなければいけません。そして、朝飯の用意をする、ミルクティーを作る、それもかまどの火を起こすところから始めます。朝飯を済ませると、家畜の世話、農作業などたくさんの仕事が待ってます。子どもがいたら、子どもの世話をしなければいけないしね。あ、忘れてました。朝飯前に、沐浴しますね。井戸端で、バケツ一杯の水で。この間、男どもは、トイレを済ませる、沐浴する、ミルクティーを飲みながら駄弁る、と、まあこんなところです。その間、女は水を汲みに行ったり、薪を撮りに行ったりと、くるくる働くんですね。都会と違って、時間はゆったりと流れてはいますが、それでも大変な労働量であることには、違いありません。そうやって年齢を重ねてきたおばあちゃんですからね、限りない共感を持って話を聞きましょう。

さて、何年前にお嫁に来たのか分かったら、ここから他の人たちも巻き込みながらさまざまなことが聞けます。例えば、「お嫁に来た時、この村に何家族いたか覚えてますか?」とか。「さあてね、何家族(何軒家があったかでもいい)いたかね。〇〇家族くらいだったと思うがね。」と答えが返ってきたら、「他にその頃を覚えている方、いますか。」と全員を見渡しながら聞いてみます。すると、大概は「覚えてる、確かに〇〇家族くらいだった。」などという声が聞こえてきます。この辺りから、おばあちゃんを入り口として、私と村人全体、は大袈裟として、少なくとも集会に来ている人たち全員とのやりとりが始まります。その頃、どこまで森はあったか、あの山の木はどのあたりまで生えていたか、田んぼや畑はどの辺りまであったか、水はどこから汲んでいたか、井戸はいくつあったか覚えているか、など、集団としての記憶を辿っていくことができます。こういう時は、多数を相手にしている利点が出てきますね。個人では思い出せない時も、他人の記憶によって自分の記憶が蘇ってくる、なんてことはよくありますからね。で、こんなやり取りを重ねていくと、ああ、あの頃は山全体が木で覆われていたのに、頂上付近にほとんど残っていないな、など、過去と現在の違いがみんなに明確にビジュアライズされていきます。この辺りから、樹木と保水の関係、土壌の流出が水の保全に及ぼす影響とか、漠然とした知識ではなく、どのようなメカニズムが具体的に働き、彼らの日常の営みに具体的にどのように関わっているのかを徐々に考えていきます。もちろん、私が問いかけ、彼らの答えを促す、そうしながら少しずつ知識を導入していく、という場面になっていきます。このような時に、知識を落とし込むのに有効なのが「例え話」です。

例えば、こんな風に始めます。「あの山を見てください。雨が降ると何が起こりますか。」すると、「水が流れる?」などの答えがおずおずと返ってきます。「そう、水が流れますね。どんな風に水が流れる?」と再び問いかけると、ここで皆は考え始めます。その時、私は、近くにいる髪のふさふさした男性を指差し、「例えば、この方、はい、立派なお髪をお持ちですね、と、私が一緒に朝水浴びをします。その時、二人同時に頭から水を被ります。どちらの髪が早く乾きますか?」。そう、こういう時都合がいいことに、私の髪は申し訳程度にしか残っていません。少々あざといやり方ですが、なるほどそういうことかという表情がこの頃になると皆の顔に浮かびます。「山に木がないと、水が流れてしまって、すぐに乾いてしまう。木があると、水はすぐには流れないし、すぐには乾かない。地面に沁み込むチャンスが大きいんだ。」とこんな具合に考えて答えてくれます。そこで、私は続けます。「私の頭も昔からこんな寂しい状態ではありませんでした。昔は、ふさふさしていて、頭を洗うと、髪が乾くまで時間がかかったものです。さて、あの山も、先ほど話されていたように、昔は木で覆われていた。その頃は、2年や3年で新しく掘った井戸が干上がってしまうなんてことは、なかったのではないですか。」と、詳しくは書きませんが、これ、みんなとやり取りをしながら、その場で得た情報を再びみんなに返していくところです。


ま、髪の毛の例え話がうまい例えかと言われれば、私としては苦笑するしかないレベルの例えですが、要は、その場の皆がすぐに分かる、身近な例を持ってくるということが肝心なことなのです。これなら、おばあちゃんも時々笑いながら、最後まで付き合ってくれます。

ところで、いつも都合よく例え話が見つかるわけではなく、おばあちゃんに分かってもらえるように説明できないこともあります。その中でも特にこれからお話しする例は、何年経っても忘れることができない、私にとっては悔しい思い出です。


ある村で、植物が酸素を出してくれる、これが空気中にないと私たちは呼吸ができないということを説明しようとしてどうしてもおばあちゃんにすぐに分かってもらえるような例え話をその場で思いつかなかったことがあります。目に見えないものを、つまりおばあちゃんが、これだと目や肌で確認できるものではないので、どう説明したらいいのか。だから、集会が終わる時も、おばあちゃんの顔には?が残ったまま。うーん、悔しい、と思いながら集会場を後にして、帰りの車に乗った途端に、思いつきましたよ。いい例え話を。どんな例えだと思います?


答えは、次回ご紹介します。言ってみればなあんだ、というような話ですが、皆さんも考えてみてください。ヒントは、おばあちゃんも恐らく何十年と毎日やっているあれ、です。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)