2025年7月18日金曜日

18年ぶりの世代交代(3)名前のついていない時代に、橋をかける

 “空白の時代”を生きる私たちができること
経済、コミュニティ、環境のあいだに橋をかける――メタファシリテーションを片手に、“名前のついていないミライ”をつくる仲間を募ります!

分断を越えて橋をかける
こうした「ケアの危機」、「環境の危機」は、もはや未来の話ではなく、「今ここにある危機」です。私たちムラのミライは、そうした危機の最前線で、地域の実践者とともに取り組みを続けてきました。一人一人の力では決して背負いきれないその重みに向き合う仲間として、理事や監事認定トレーナー会員やサポーターのみなさんの存在があります。


 写真:セネガル・ンディアンダ村のため池。乾季に入っても水をたたえ、周囲の井戸水も干上がっていない。

“空白の時代”をつなぐ
イタリアの思想家アントニオ・グラムシが、20世紀前半に語った言葉です。
「古いものは死にかけていて、新しいものはまだ生まれていない。」まさにいま、私たちはその「空白の時代」を生きています。ムラのミライが目指すのは、この空白を“つなぐ”こと。あちらこちらで分断されてしまった領域のあいだに橋をかけることです。そして、その橋をかける技術が、メタファシリテーションです。

(出典:アントニオ・グラムシ『グラムシ獄中ノート』(三一書房、1978年/大月書店、1981年)原文:The old world is dying, and the new world struggles to be born.)


無視されてきた声に耳をすます
設立から32年間、ムラのミライが取り組んできたのは、インドやネパールでの水や森の保全、スラムの女性による信用金庫の立ち上げ、西宮での産前産後の家族支援の仕組みづくり、セネガルでの大地の再生、日本各地での子ども支援団体やひとり親家庭の支援団体との協働、そして公共の制度への働きかけなど、いずれも「無視されてきた声」に耳を傾け、そこから人びとが立ち上がっていく支援でした。

そして、これからも、就労困難を抱えた若者支援、子どもの権利を軸とした子ども支援団体・海外ルーツの子ども支援団体への伴走、ひとり親家庭の実態と可能性に関する調査、国内外でのメタファシリテーション研修や認定トレーナー等育成、自然資源の再生への取り組みなど、複数の現場で展開していきます。

橋をかけるという挑戦
昨年、前代表の中田は年次報告の中でこう語りました。「いま求められているのは、“自助”と“公助”のあいだに橋をかける試み」

その橋をどうかけるか——これは、いま私たちが直面する問いです。

ムラのミライは、まだ名前のついていない時代へ、迷いながらも一歩ずつ、仲間とともに歩んでいきます。これからも、名前のついていないミライづくりへのご参加、ご支援をどうぞよろしくお願いいたします。

 写真:京都の会場で参加してくださった新旧役員・会員・サポーターの皆さん

原康子 ムラのミライ代表理事)

【お知らせ】7/27に記念イベント「18年ぶりの世代交代とこれから」を開催します。
初めての方も、お久しぶりの方もぜひご参加ください!
https://muranomirai.org/event/20250707/


2025年7月11日金曜日

18年ぶりの世代交代(2)グラスを洗いながら思った誕生日

新しい理事・監事との出会い
総会では、新しく選ばれた理事、監事の挨拶がありました。ベテランのライター、フェアトレードの先駆者、伝統野菜を使った企業の経営者、企業CSR部門で長年NPO支援をしてきた方など。この日は欠席でしたが、メディアで活躍する記者も新しく理事に加わってくれました。彼女たちと一緒に、新しいスタートが切れることが嬉しくてワクワクが止まりませんでした。また再任された河合監事は、「ここは気をつけないと!」と毎年ビシッと背筋を伸ばすのを手伝ってくださる組織基盤強化のプロフェッショナルです。新しい理事・監事たちに向けて「NPO法人の理事って?監事ってどんな役割、ムラのミライでは何をする?」という勉強会も予定しています。とっても心強い皆さんなのです。

話を元に戻すと、会場に集まった新旧の会員やサポーターの新理事、監事の皆さんは、初対面の方が多いとは思えない空気感。なんというか「お久しぶり!」という雰囲気で、オンライン参加の皆さんも含め、なんともいえないほんわかした空気が会場に満ちていました。

 


グラスを洗いながら思ったこと
総会後の理事会も無事終わり、ほっとして会場の後片付けをしている時ことです。流し台で、使ったグラスを洗っているとき「あっ、今日は新しいムラのミライの誕生日だ!」という気持ちになりました。グラスを洗う手を止めた途端、その場にはおられないけれど、何十年も支えてくださった正会員や、サポーターの皆さんの顔が、浮かんできました。そのおかげなのかどうか、グラスをよく割る私も、その日は1つもグラスを割らずに片付けることができました(「誕生日!」と私がぼーっとしている間に、新理事の一人が素早く洗ってくれましたし)。

“見えないもの”と向き合う
少しだけ、認定トレーナーの現場で起きていることの続きを、そして新理事・監事のみなさんの専門分野にも共通するテーマについて触れたいと思います。
私たちは「資本主義」という巨大な構造の中にいます。この仕組みを成り立たせてきたのは、本来は不可欠であるにもかかわらず、ずっと“見えないもの”とされ、正当に評価されてこなかった存在たちです。たとえば、植民地主義の名残として奪われた土地や資源、女性が担うものとされてきた再生産(ケア労働)、一方的に搾取・収奪されてきた生態系、そして国家が支える制度やインフラ。これらは「便利な土台」として当然のように資本主義社会で消費され続け、疲弊しきってしまっています。


写真:セネガルの土壌の塩化が進む大地(白い水玉模様の箇所が塩化している部分)

「今ここにある」危機の現実
その影響は、私たちの活動地でも危機的でした。たとえばセネガルでは、過酷な植民地時代を経てなお、今も土地と水資源の枯渇が猛スピードで進んでいます。そんな中、2024年度にはンディアンダ村から「よみがえる大地」の報告が届きました。動画もありますのでぜひご覧ください。

一方、日本では148カ国中118位というジェンダーギャップのなか、母親ひとりによる子育てが極めて困難な現実があります。そして、10〜19歳の死因の1位が「自殺」であること。2024年度には小中高生の自殺者が529人と過去最多となり、女子が初めて男子を上回ったことなどです。女性や子ども、若者にとって、どれほどこの国が生きづらいか、数字でも突きつけられています。さらに、高齢化の進行により、国民の5人に1人が75歳以上という時代に入り、医療・介護体制の整備は待ったなしの課題となっています。続きは3回目で!


写真:困難を抱える若者の就労応援プログラム(休眠預金等活用事業カウンターパート団体 一般社団法人nimo alcamo開催@京都)

原康子 ムラのミライ代表理事)

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2025年7月4日金曜日

18年ぶりの世代交代(1)出演者ほぼ総入れ替えから始まる新シリーズ

「代表就任の日、もうマンゴーラッシーしか喉を通らない!?」

2025年6月、ムラのミライに訪れた18年ぶりの世代交代。プレッシャーに押しつぶされそうになりつつのぞんだ代表就任日の出来事を3回にわけてお伝えします。

代表就任のご挨拶

みなさん、こんにちは。このたび、認定NPO法人ムラのミライの代表理事に就任しました原康子です。2025年6月、18年間にわたって代表を務めてくださった中田豊一に続いて、代表理事のバトンを受け取りました。また10年〜30年の長きにわたって支えてくださった理事・監事の皆さんの多くが任期満了で退任されていきました。これはもう、ドラマなら最終回どころか「出演者ほぼ総入れ替え」の衝撃展開なのですが、ムラのミライはここで終わりません。むしろ、ここからが新シリーズのはじまりなのです。


プレッシャーとラッシーと代表初日

そんなわけで、人生初の代表挨拶を書いているのですが、あまりの緊張で喉を通るのはマンゴーラッシーくらい。大手出版社からを出されたばかりの中田の後の代表挨拶ですよ。中田さんの前なんて、ムラのミライ創設者の和田信明の挨拶だったのですよ。お二人の代表挨拶や年次報告書の巻頭言は、いつも読みやすくて、簡潔で、知性と教養にあふれていて…。(たまに小難しすぎて読み飛ばしていたのは、私です。すみません。)

そんな二人に続く代表理事が、どれだけ大きなプレッシャーか!?胃をキリキリさせながら、代表理事就任の日となる2025年6月14日の活動報告会・総会・理事会にのぞみました。


 写真:一番暑いときが一番おいしいマンゴー


全国各地のトレーナーたちの実践

当日は22名もの方が(オンライン5名含む)参加してくださいました。朝からの雨にも関わらず、遠方から参加くださった方も多数おられました。彼女/彼らたちは、私の心細さやプレッシャーなどを吹っ飛ばしてくれた面々でした。その日は、活動報告会と総会、理事会と朝から丸一日がかり。まずは午前中の認定メタファシリテーション®トレーナーによる活動報告会でした。その報告会を皮切りに、私の胃の痛みは次第に消えていきました。

青森県、秋田県、福島県、東京都、神奈川県、兵庫県と各地で活躍する8人の認定トレーナーたち。子ども支援、高齢者向けのアートサロン、上司と部下のコミュニケーション、福祉系の大学の授業、農村の獣害対策、日本語教室、まちづくり、中間支援NPO、と多様な現場でメタファシリテーションを駆使している報告がされました。認定トレーナーたちの活躍ぶりに圧倒されたのと同時に、メタファシリテーションが使われている現場の意味を考え、その感動でウルウルしてしまいました。「現場の意味」については、後述します。

次回、新しい理事、監事との出会いに続きます。

写真:6月14日認定トレーナー活動報告会開始前の様子

原康子 ムラのミライ代表理事)

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2024年10月30日水曜日

セネガルで学んだ「自分の認知を知る」ということ 〜ムラのミライのプロジェクト視察〜

 「ムラのミライの海外事業地へ行く和田さんに同行し、ファシリテーションスキルを見てみたい!」
ということを和田さんに伝えると、OKの返事をいただいたので和田さんと原さんの渡航に合わせてセネガル農村部で行っている持続可能な農業プロジェクト地を訪問させてもらいました。


セネガルの農村部では、近代農業の普及と人口増加が自然環境に負担をかけ、農業が続けられない状況が広がっています。若者たちは希望を求めて都市部に移り住み、農村は活力を失いつつあります。
そんな中で、ムラのミライは地域資源を活用し、雨水を効率的に土壌に浸透させる技術を導入することで、作物の生産性を向上させるプロジェクトを推進しています。
このプロジェクトが始まって3年、住民たちはその成果を実感し始めていました。

 

訪問の目的は、プロジェクトを遂行する中でどのようにメタファシリテーションを使っているのかを学ぶことでした。
 

実際に和田さんの質問を聞けたのは、村の関係者による会議に参加したときのことです。
 

プロジェクトが来年初めに終了するため、ため池を管理するための土壌保全委員会の結成について話し合っていました。
村人たちは新しい委員会を作るべきか、他に方法はないかと議論していましたが、和田さんはその間、ずっと耳を傾けているだけでした。

そのうちに、既存の村落自治委員会で管理はできないかという提案がありました。
和田さんはそこでもただ聞いていましたが、最後にこう質問しました。
「その定款を最後に読んだのは誰ですか?」

村人たちは「読んでない」「どこにある?」と話し始め、最終的には「次回のミーティングまでに定款を読んでおきます」という結論に。

和田さんは「ではそうしましょう。次回のミーティングはいつにしましょうか?」と確認して会議は終了しました。
 

「その定款を最後に読んだのは誰ですか?」と和田さんが聞いた時、ただ「事実を確認する質問」に見えますが、実は自分も知らないことを知りたいという姿勢がそこにあると思います。
この質問により、村人たちは「自分たちがやるべきこと」を自然に意識し始め、和田さんが答えを押し付けるのではなく、彼ら自身で気づきを得る場となりました。


会議後、和田さんにこの対話について聞いたところ「質問というのは、自分がわからないことを聞くことだ」とおっしゃっていました。
この言葉はシンプルですが非常に重要です。
 

メタファシリテーションでは、相手に気づきを与えることだけでなく、相手を知ろうとする姿勢が欠かせません。
事実に基づいた質問をすることで信頼関係が築かれ、対話は自然と深まり、相手との関係も強くなっていくのです。
 

もしあなたが誰かに自分のことを聞いてもらう場を想像してみてください。質問してくる相手が本当に自分のことを知ろうとしてくれる、その気持ちが伝わると嬉しいですよね!
相手を知ろうとする気持ちから生まれる質問は、決して上から目線ではなく、対等な対話の中で生まれるものなのです。
 

次回のブログでは、セネガルで学んだもう一つの重要なポイント、「要素を分解すること」について具体的な対話事例を用いてお話しします。
特に、相手の話を聞きながら、どのように重要なポイントを見極めて深掘りするか、そのプロセスについてご紹介します。
お楽しみに!


松浦史典 ムラのミライ認定トレーナー) 

 


2023年12月28日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(20)

この連載は、一応今回で終わりということにします。タイトルで「できるまで」と謳っておきながら、「できてしまった」後のことまで延々と書いているので、看板に偽りありと言われそうですが、メタファシリテーションは、技法、教授法、そしてそれを支える制度までまだ発展途上なので、完成形ではないという意味で「できるまで」なんだとご了解ください。


「メタファシリテーションができるまで」の現在までを3つの時期に分けるなら、私が国際協力の世界で、自分で団体を立ち上げた1993年から2006年辺りまでが、メタファシリテーションの「ネタ」の仕込みの時期と言えます。この間、私の南インドの現場での悪戦苦闘があり、徐々に自分なりの方法論と言いますか、技術を身につけ始め、それに従って資金を調達する以外の現場仕事が楽しくなってきた時期です。この間、中田豊一さんとの第2の出会いがあり、彼が私の現場でのパフォーマンスに感心してくれ、彼と様々な議論をする中で、私自身の学びもパフォーマンスの向上もあり、自分のやり方があながち的外れなことをやっているのではないという自信がついてきた時期でもあります。


第2の時期が、2006年あたりから、中田さんがメタファシリテーション(当時はメタファシリテーションという言葉はありませんでした)の講座をやり始めた、つまり私の現場でのパフォーマンスを言語化し、体系化し、それを教授し始めた頃からの時期です。中田さんの偉いところは、この言語化という作業の過程で、様々な練習方法を自ら編み出し、それを自身で実践し、技術を身につけていったことです。そして、途上国の現場で現地のNGOや日本人の駐在員に、地元住民とのやり取りをやって見せて、技法の有効性を示していることです。自分で言うのも気が引けますが、「和田の現場でのやりとりはすごいんだよ、でも、こう言う理屈を理解してこうやって練習すれば、和田のようにできるんだよ」と言うことを実践しているわけで、まさに彼が体系化した技法の中身が「看板に偽り無し」ということを実証して見せています。


この間、2010年には、メタファシリテーションとは何か、ということを詳細に説いた「途上国の人々との話し方-国際協力メタファシリテーションの技法」を中田さんと私の共著で上梓しました。思えば、「メタファシリテーション」という言葉を公に使ったのは、この時が初めてです。そして、これ以降、私も中田さんが編み出した「メタファシリテーション」の講座を少しずつ講師としてやるようになってきました。このような講座をやることの最大の利点は、受講生の中からメタファシリテーションをより深く学び、自分も講師になるという人たちが出てくることです。言語化され、体系化された手法の凄さは、こういうところにあります。メタファシリテーションという手法として確立される以前は、私のパフォーマンスを実際に現場で見て、それを真似していく、つまりは徒弟制度の親方と弟子のような継承のされ方しかなかったわけで、中田さんも、当初はわざわざ私の現場まで訪ねてきて、私を観察するということをしていたわけです。しかし、手法として確立し、教授方法も確立してくると、多くの人が私を直接見ることなく、技法を学び、望めば自分で習得していく道が開けるわけです。おかげで、私が長年現場で直接鍛えた数少ない弟子たち以外に、講座の講師としてメタファシリテーションを広めてくれる人たちが、段々と増えていきました。


第3の時期が、2016年頃以降、現在に至る時期です。宮下和佳さんが中心になって、メタファシリテーションの制度化を積極的に進めてくれた時期になります。中田さんや私の次の世代に、メタファシリテーションが引き継がれた時期です。私は現場の職人、中田さんはいわば現場の思想家なので、きちんと制度を整えたり、さらに多くの人々へのアクセスをよくしたり、など必要性は理解していても中々できません。中田さんが開いた課程をステップ1からステップ3という形で展開し、教材を整え、ビジュアルの面でも工夫を凝らし、さらには、3段階の検定試験を設け、誰でも望む人は試験を受けて講師の資格を得ることができる認定トレーナーの制度を設けるなど、中田さんや私などの手を煩わせることは、何もなくなっていると言って過言ではありません。


何よりも嬉しいのは、次世代の皆さんそれぞれ、職場、子育て、医療、福祉など、そもそもの国際協力の現場を超えた分野で、メタファシリテーションを応用し実績を積み上げつつあることです。この後、どんな展開を遂げていくのか、楽しみです。今後、メタファシリテーションのプロジェクトでの応用など、まだまだ言語化しなければならないことがあるように思えます。それは、才能豊かな後輩たちがやってくれるでしょう。


最後に、蛇足であることを恐れずに言えば、私がのちにメタファシリテーションと名付けられた手法を発見し、その手法に熟練していくにつれ分かってきたことは、この手法を身につけると余計なことで思い悩むようなことがなくなってきたことです。もやもやしていることなど、その根拠が明らかになってみれば、なあんだ、こんなことでクヨクヨしていたのか、ということが多いのです。そうなると、私にとっての悩み事は、家族のために作るご飯を何にしようかということだけになります。歳をとるにつれてあれこれ出てくる体の不調はともかく、心だけは随分と軽くなります。
では皆さん、いずれまた。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 




2023年11月30日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(19)

のっけから横道に逸れます(って、いつもそうじゃないかというツッコミは無しに願います)。
今月の半ば頃(本稿を書いているのは、2023年10月)、膀胱結石の摘出手術を受けました。とても自力では排出できないほど肥大化した石が、私の体内に居座り続けていたわけで、それが膀胱まで降りてきて、「まあ、取った方がいいですね」と医師に言われ、「ではお願いします」ということで受けた手術です。別に開腹手術をするわけではなく、内視鏡ですかね、を尿道から差し込んで、中で石を砕いて摘出するというもの。順調に行けば1時間強で終わるようなオペです。

と、ここまではよかったのですが、私がびっくりしたのは、これをするのに全身麻酔をするということ。幸いにも(あるいは不幸中の幸いか?)、私は薬にもアレルギーがなく、これまで歯を抜いたり胃カメラを呑んだりしたときに部分麻酔をかけてもなんの問題もなく、今度も全身とは言え大丈夫だろうとは思ったのですが、正直、ちょっとビビりました。医師も、100%大丈夫だから、などとは決して言いません。万が一などと脅かされると(別に医師が脅かしているわけではありませんが)、元来が小心者の私は一抹の不安を抱えて手術に臨むことになります。で、終わってみればなんということはない、無事に手術も済み、この身もなんの問題もなく(血糖値とか尿酸値とかそういう話はこの際無しですよ)3泊4日で退院できたという次第でした。


で、何が言いたかったかというと、麻酔がかかっている間のことは、一切意識にない、記憶にない、つまり何が起こっていたのか全く分からないという状態だったということです。いつ麻酔で意識を無くしたのか、そしていつ麻酔から覚めたのか、全く分からず、いつの間にか「また」この世に存在していたという不思議な感覚を味わったのです。「また」というのは、記憶まで失ったわけではないので、己が何者かという記憶はあるわけで、人生の連続性とでもいうものはあった、和田信明は不滅だ、ではないにしても和田信明の人生は再開されたというわけです。


何を大袈裟な、普段でも深い睡眠の時は、記憶などないだろうに、とおっしゃるなら、その通りというしかないのですが、やはり、眠りに落ちてしまう前後がまるで違います。睡眠の場合は、うう、眠いな、眠いな、もう目を瞑って寝てしまおうという過程があり、そして目覚める前も妙な夢を見たり、あるいは尿意などを催したりして、夢現の中にぼちぼち目を覚まして起きるかなどという過程もあります。でも全身麻酔の場合は、このような諸々が全くない。いきなり意識がなくなり、いきなり目覚めている。気がつくと、あ、この世に存在していた、そんな感覚です。


それ以来、再び日常の些事に一喜一憂する生活をしているわけですが、思い返せば、この様な感覚は、あるいは似たような感覚はこれまでにも何度か持った記憶があります。それは例えば南インドの山の村で、インドネシアの南スラウェシの村で、イランのハマダーンの近郊の村で、あるいは…


この、あ、気がつくとここにいた(あるいは存在した)という様な感覚は、私の話し相手の村人のふとした表情と分かち難く結びついています。なんと言いますか、私が、あ、気がついたらここにいたという感覚を覚える時、相手は心持ち顔を横に向け微風に頬を嬲らせながら神々しいとでもいうほかない表情をしているのです。別にその人が神々しいとか、その人の人生が神々しいとか、そうではありません。そうではなくて、あえて言えば、存在自体の(その人の、ではありませんよ。存在すること自体の、とでも言いましょうか)神々しさとでも言うのでしょうか、侵し難さとでも言うのでしょうか、そんなものを感じさせる表情を、相手がふと見せるのです。この相手は名もない庶民、相対する私も名もない庶民、偶然この世に生まれ落ち、もちろん生まれ落ちた時間も場所も選んでいません。そして彼らも私も、日常の些事をこなしながら小さく、小さく地球の片隅で(死ぬまで)生きている、そんな感覚です。


ならば私はその「小さい、小さい些事(意味重複ですがあえて)」をできる限り知りたい、できる限り詳しく知り、相手と私、その場は狭い空間ながらも彼我の間に何か繋がるものがあるのか、見てみたい、といつの間にか思うようになっていたのでしょう。昔々、クロード・レヴィ・ストロースの本を、一生懸命赤線を引っ張りながら読んでいたら、「神は詳細に宿る」みたいなフレーズがありました。どの本のどのページだったか覚えていません。そもそも、読んだ内容も、このフレーズ以外はさっぱり忘れているのですから、私も余程学問からは見離された存在なのでしょう。でも、このフレーズだけはその時から半世紀以上経っても忘れず、今は、ひたすらこの「詳細」を知るために相手の話を聞いています。


そう、「詳細(英語で言うと‘detail’ですね)」には神か何かは知りませんが、明らかに何かが宿っているのです。相手の話を丁寧に、詳細に(分解して、というメタファシリテーション定番の方法です)聞いていくと、その人の個人史もさることながら、その人が生きてきた時代、環境の変化など浮かび上がってきます。そして、「彼らの問題」ではなく、彼我を貫く問題まで浮かび上がってきます。言い換えれば、社会や文化や文明の問題ではなく、中田豊一さんが言うように「私の問題」が浮かび上がってくるのです。中田豊一さんが練り上げた、そして、彼に続く認定トレーナーたちが日々改良を加えているメタファシリテーションを使う醍醐味は、まさにそんなところにあります。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 

2023年11月16日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(18)

前回は、例え話とは、相手に対する共感がないとできません、というか、相手の腑に落ちるような譬えは、自分が相手だったらどう考えるだろうという想像力、もっと言えば洞察が働かなければできないということをお話ししました。その相手に対する想像力とは、畢竟自分に対するメタ認知がなければ働きません、ということころで終わりましたね。

メタ認知と言ってもそんなに難しいことではありません。自分だったらこんな時は楽をしたいな、休みたいな、そんな時にどうしたら自分はモチベーションが上がるだろうか、など具体的な状況で自分ならどう反応するか、それを自分の胸に手を当てて正直に考えてみればいいだけの話です。それでも、これがなければ、相手に対する想像力も働きません。こうあるべきだ、などというメタ認知が決定的に欠けた上から目線では、相手の共感も何もあったものではないということです。相手に対する想像力が働けば、こんな状況ではどんな発想をするだろうかという想像も働きます。そして、そのような発想に沿った、相手の身近な習慣、話題、などを例え話として話すと、相手の腑に落ちるという可能性は高まります。


以下は、私の例え話の「最高傑作?」として、中田さんが「途上国の人々との話し方」(みずのわ出版、2010年)p336〜337に紹介してくれたものです。インドネシアのスラウェシ島北部の海岸沿いのバジョ族(海洋民族です)の村での話です。その村を訪れた時、村を案内してくれた女性リーダーが、「みんな(プラスチックゴミを)ポイポイ捨てるものだから、ご覧の通り村はゴミだらけです。(略)なにかいい方法はありませんか」と私に相談しました。そこで私は同行していた村人たちにこう語りかけました。

和田「命はどこから来ますか。」
村人「アッラーからいただいたものです。」
和田「では、終わったら誰に返しますか。」
村人「地上の生命が終われば、アッラーにお返しします。」
和田「そう、アッラーにいただいたものは、アッラーにお返しする。」
和田は天を指しながらそう言うと、次に波打ち際のプラスチックのゴミを指差して尋ねた。
和田「このゴミは、もともとはどこから来たものですか。」
村人「お店で買ったものです。」
和田「その商品はどこから来たのですか。」
村人「町の工場でしょうね。」
和田「これを捨てた人はどこに返したのですか。」
村人「海ですね。」
和田「工場から来たものを、この人は海に返したのですね。あなたたちはアッラーから来たものはアッラーに返すと言いました。では、工場から来たものはどこに返さなくてはならないのですか。」
村人「工場です。」
厳粛な顔つきになった村人に、和田が言い添えた。
和田「町から来たものは町に返す。陸から来たものは陸に戻す。海から来たものは海に返す。これがエコロジーです。」

この例え話はよく覚えています。その時の詳しい状況は、もう忘れてしまっていますが、村の海の波打ち際にプラスチックのゴミが散乱していたことは、よく覚えています。この浜辺にプラスチックゴミが散乱しているという光景は、このスラウェシ島のバジョ族の村ではなくとも、現在は途上国の海岸の至る所で目にする光景です。日本の海岸も、散乱というほどひどくはなくとも、プラスチックゴミを見かけます。敢えて言えば、この「海辺のプラスチックゴミ」が象徴する課題を私たちムラのミライは、彼我の共通の課題として解決するために、日本と途上国で活動しているのです。この辺りの事情は、中田と私の共著「ムラの未来、ヒトの未来」(竹林館 2016年)に書いていますので、よかったら読んでみてください。

さて、話を戻せば、例え話をするとして、毎回クリーンヒットというわけにはいかないので、できのよかったネタは覚えています。このバジョの村での話も、よく覚えているのですが、残念なのは、できがよくても2度と使う機会は巡ってきません。私の場合の例え話とは、その場の状況に合わせてその場で思い付かなければならないもので、同じ状況が2度と巡ってこない以上、せっかくいいネタを思いついても、その場で1度使えば終わりということです。

まさに、そのような状況そのものが滅多にはないことですが、状況が巡ってくれば私は「神様ネタ」を時々使います。私自身は特定の宗教、信仰に帰依することがこれまではありませんでしたが(そして、これからもないのではないかと思っていますが、何が起こるか分からないのが人の世の常、断定はしないでおきましょう)、他人の信仰は尊重します。途上国では敬虔な信仰心を持った人が多いし、特に回教国では、そのように感じます。彼らは、たとえ研修中でもお祈りの時間が来れば、研修を中座して、祈りを捧げに行きます。ここで紹介した例え話は、そのような彼らの信仰心への信頼とも言えるものがなければ出てくるものではありません。彼らの敬虔さ、誠実な信仰心を日頃感じていたからこそ、このような例え話を真摯に受け止めてくれるだろうという確信めいたものがあり、その場で咄嗟に出てきた話だったわけです。

ところで、この例え話は私が一方的に話したものではなく、あくまでも私が問いかけ、相手に答えてもらうという形をとっています。そして、「掴み」のところの「命はどこからきたか」という問いかけ以外は、すべて事実を聞いています。つまり、メタファシリテーションの基本に沿って対話を組み立てています。くどい様ですが、相手が多数でも、例え話をするときも、必ず問いかけ、相手とともに事実を確認していくというのが基本です。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)