2014年2月18日火曜日

自らを「眺める」

コミュニティに対して働きかけをおこなっていくなら、自分自身の立ち位置をはっきりさせておく必要があります。その立ち位置、あるいは基本姿勢は、先輩ファシリテーターや人生の先輩たちに学びながら、自分自身で作り上げていく以外にありません。基本姿勢を培おうとする中で影響を受け続けている、私がとても共感する本をご紹介します。

「うらおもて人生録」(著者・色川武大)です。

以前から何度も読み返している本なのですが、対話型ファシリテーションに出会ってから読むと、ますます腑に落ちるのです。

たとえば、色川さんがばくちの世界から足を洗い、堅気な会社勤めに転じてまずやったこと=眺めることについて解説した、こんな文章。

当たり前以前のところまで後戻りして下から下からとだんだん押し上げていくんだ。そうしないとね、思いこみをそのまま通過してしまうということもあるしね。
それから、当たり前のことであってもいつも忘れないでいるとはかぎらないからね。物事の原理原則のところにしょっちゅう戻るということは必要なことだよ。
俺たちは飛行機とちがって、計器がないからね。常識だとか道徳だとかいうものは、人々の思いこみが多くて、計器ほどには当てにならない、と思った方がいいな。だから、いつもきちんと眺める癖をつけないとね。

眺める、といっても、その目的は、全容を解明して最適な解を割り出すなんて「チャッコイ」ことではないんです。

「どこから見ても名案だから、皆が動くはずだというのは、やはりすこし甘いな。人はそんなに都合よく素直じゃないからね。俺だって素直じゃない。めったに他人のいうとおりなんかにならないよ」
「ぼくは、名案ならば、メンツもなにも捨てて賛成すると思うけど、やっぱりちがうのかな」
「おおむねは、そうじゃないと思った方が無難だな。(中略)相手はポイントを稼いだようだけれども、俺のいうとおりに動きを示した結果、そこでまた俺にポイントを返したことになって、つまりはプラスマイナスゼロに近いことになるんだ。そうでないと、本来の対等の関係というものが維持されにくいんだよな」

ここで明快に示されている、他人に対する対等さ、物事に対する思い込みのなさ、の根本には、色川さんの人生観があります。

苦あれば楽、楽あれば苦、それじゃどっちにしたって、もとっこじゃないか、というんだがね。だから、人生、おおざっぱにいって、五分五分だといったろう。
でも、これは虚無(むなしさ)じゃないんだよ。原理なんだ。
(中略)
それでね、苦と楽がワンセットならどっちが先でも同じだ、人生どうでもいいや、ということにはならないだろう。どうせ老いて死ぬのなら、どう生きたって同じだ、ってことにはならない。
結局もとっこだとわかっているけれど、がんばってみよう。
この思いの深さが、その人のスケールになるんだ。

事実に徹底的に向き合うファシリテーションの根底を支えるのは、「結局もとっこだとわかっているけれど、がんばって」いる自分自身を含む人間たちへの、慈悲の心ともいえる深い広い愛情であるな~と、考えさせられる一冊です。

(事務局長代行 宮下和佳)