2014年9月9日火曜日

コミュニティファシリテーターの卵が思うこと ~「意識して考えるということ」~

現在ネパール駐在員として環境教育を通した街づくりプロジェクトを担当しています。

前回の「ファシリテーターのたまご体験談 「自分もまるで同じ」という気づき」2014318日発信号)では、「自分は全く何も知らないし、分かっていないし、脳みそを使ってもいないということに気がつくこと。」の大切さを痛感していることをお伝えしました。

「頭を使って考えていない」と知ることはまず一つ。
そして実際に「使っていない」状態から「使えるようになる」というのも一つ別のこと。

「意識する」という行為なくして「考える」ことは始まりません。
怠け者の私を筆頭に、大抵のヒトは「考える」ことを放棄します。なぜなら、楽だから。

考えるという行為はまず「意識する」行為から始まり、考え続けるためには、常に意識し続ける行為が伴います。その「続ける」という部分こそが多くのヒトにとって苦痛であり試練でもあるのです。
しかしその試練を乗り越えることなしに、「頭を使わない」状況から「頭を使って考えることができるようになる」状況へはたどり着けません。ムラのミライ(旧称ソムニード)流のプロのファシリテーターになるには本当の意味で「頭を使う」ことが必須であり、避けて通れない道です。

そんなことは分かっていてもなかなかできないのが、ファシリテーターの卵を名乗るこの私。「うーむ。そうか。やっぱりちょっとは考えて、自分だったらどうするかを、いっちょ真剣に(!)考えてみるのだ!」と意識的に考えてみたものの、普段考え慣れていないヒトが考えようとしても、大したことは考えられません。それがよくわかったのが、でこぼこ通信第11号「吸い込まれる落とし穴」の章でお伝えしたところです。

地元のコミュニティからの要請を受けて、ムラのミライがゴミやリサイクルに関する研修を行った時のことです。今回が初めて要請を受けての研修であり、そんな研修が私や他のネパール人スタッフにまだまだできるはずもないということで、ファシリテーター・和田(ムラのミライ共同代表:和田信明、ムラのミライ流ファシリテーションという方法論を確立した1人、)が、ファシリテーションを使った研修を行いました。

研修の前に、自分ならどうするかを考えてみました。
①自己紹介
②参加者が何をしてきたかの確認
③手軽にできるゴミ処理・リサイクル活動案のブレスト(日常的、長期的)

大したことは考えきれていません。これはもしかすると考えたことには入らないことかもしれません。


そして和田の研修が一通り終わった後に気がついたこと。

私やディベンドラが行っていたであろうこと、まさにこれが「空中戦」である。

「ゴミ」について深く考えることもなく、いきなり「さぁ、ゴミの減量のために何ができるかを皆で一緒に考えましょう!」と入ってしまうところ。一体何を「ゴミ」と呼ぶのか。資源ゴミはゴミなのか。ゴミはどこから出てきて、どこからどこまでを「ゴミ」と呼ぶのか。100年も200年前にも、或いは人類が誕生する前からいわゆる「ゴミ」はあったであろうが、なぜ今はその同じ「ゴミ」が問題となっているのだろうか。
「ゴミ問題」をなんとかしたいとざっくりいっても、一体ゴミの正体を知ることなくして、どうやってその問題を特定し、その問題に対する対処法を考えることができるであろう。
言葉の響きだけでわかったような気になってしまう。それが落とし穴である。吸い込まれるようにはまっていった罠である。


小手先で表面上のことだけに意識を向けて「考えた」ことにしても、それは「考えたこと」には微塵もなりません。相変わらず「考える」ってどういうこと?と思ってしまう自分は馬鹿なのかと少し肩が落ちたりもします。

そもそも、このように「考える」ということは、日本で教育を受けた私の身に全くついていないということなのかと思うと愕然とします。あれほど高い授業料を払って、自分への教育として投資したこともあるのに、一体自分は何を学んできたのだろうとすら思います。しかし、同時にあれやこれやと自分を慰める術は持っている私。自分もいつかできるようになるはずだと楽観視しています。


意識することと反省することが次のステップへとつながると信じて、引き続き、「自分だったらどうするか」を忘れないように意識し続け、試練を少しずつ乗り越えていきたいと思います。




(ネパール事務所駐在員 池崎翔子)