2016年1月5日火曜日

コミュニケーションは「気合い」

この自主学習ブログを、ときどき見ています。日頃学習という行為から遠いところにいる身としては、特に書くこともないので投稿したことがなかったのですが、今日は、暇に任せて書いてみようと思います。で、何を書くか。やはり、この方法論の創造者である中田さんについてから書き始めます。


中田さんとは、ときどき一緒に出かけることがあります。この十数年を顧みてみると、2年に1回くらいの割合でしょうか。最近では、一昨年だったかな、セネガルに行きました。二人が出張で出かけるというのは、ムラのミライのスタッフ泣かせです。なにせ、もう初老と言っていいおじさん二人です。当人たちは楽しいのですが、物忘れが激しい。で、出張精算のときに、えーーーと、あの領収書はどうしたっけ?ということになります。それでも、中田さんは、私より気が確かだと思っていて、仕方がないので和田の面倒をみようと思っている気配がありありです。私たちが出張するときは、特に打合せをすることがない。私は、中田さんの言うとおり動きます。中田さんは、どうせ私に相談しても無駄だと思っている。でも、私にとっては、脳みそを人に預けるのは楽で良い。持つべきものは友です。その中田さんも、その日の気分で適当に動いているので、そんなに私を連れ回すストレスはないと思います。

 
中田さんと二人で出かければ、行くのは村です。村で中田さんが何をするかと言えば、ひたすら「何もしない」ということをする。私のことを観察している。というより、私の呼吸をはかっている。彼が見るのは、勘所です。私が村人とするやりとりなど、中田さんから見れば、飽きるほど見ている。恐らく、全てのパターンが、中田さんの頭脳に格納されていると思います。それは、相撲の四十八手ではないけれど、武道だって技の数は決まってる。私の「技」だって、1年も私と一緒にフィールドに行けば、あ、これね、という風にパターンは分かってしまう。それでも、中田さんは、私のやりとりに口を挟まず、じっと見ている。恐らく、透視している。何を見ているかと言えば、やはり、どのタイミングでどんな身体の動かし方をするのか、その呼吸を見ている。この「呼吸」と「勘所」というのは、言語化できないものです。

メタ・ファシリテーションは、畢竟「技」です。これは、肉体の運動に係わる領域です。幾ら口で説明しても、実際に自分で身体を(口が主ですが)動かしてみないことには分からない。中田さんが言語化したのは、骨格の部分です。あるいは、筋肉の部分も言語化したかもしれない。それは、暗黙知を説明知に変換するという作業だった。なぜ、それを中田さんはしたか。それは、自分で言語化したものを再び暗黙知に落とし込むためです。つまり、私の基本的な骨格、筋肉の動きを、中田さんが自分でなぞれるように言葉にした。そして、改めて自分でそれをなぞってみることをした。ただし、それだけでは、分からない部分があります。その分からない部分というのは、言語化できない部分です。それは、言ってみれば皮膚呼吸、気配を察知し、次の動作を骨格や筋肉に示唆する。これは、やはり師匠の動きを見て、その呼吸を覚えるしかない。そして、自分でできるようになるまで、なんどもその動きを練習するしかない。
 
中田さんのすごいところは、このことがよく分かっていることです。中田さんは、若い頃格闘技をやっていた。だから、いかにこの技がコミュニケーションをする技だと言っても、その辺りの、何というか皮膚感覚みたいなものをよく知っている。

特に、村などで一対多のコミュニケーションをするとき、その成否を決めるのは「気合い」です。気合いと言っても、別に相手を圧倒する波動を出すとか、そういうことではありません。気合いと言ったって、相手を牽制するものから相手を包み込むものまでいろいろあると思います。要は、その場を作り出す、共有の場を作り出す呼吸のようなものです。だから、この場合の気合いは空気のようなものを読むのだ、タイミングを読むのだ、と言っても、いわゆる「空気を読む、読まない」の空気とは対極のところにあります。いわゆる「KY」の空気とは、自分がそこに入れないか、入れるか、つまり入れない人は排除されるというものです。私の言っているのは、排除される人を作らない空気、場を創り出すということです。
 
よく、私の現場を見て、これは和田さんだからできる、という言い方をする人がいますが、当たり前です。今の私のレベルで私のようにできる人は、私しかいません。だって、私は日々進化しているから。というより、私の技は日々進化しているから。別の言い方をすれば、を読み、講座に出ただけでできるようになるものは、技とは言いません。技術と言いますが、技も術も基本的には同じことを言っています。敢えて区別をすれば、術とは、技を実現する方法です。これは、繰り返し、身体に馴染むまで練習するしかありません。本を読んで理解できることは、たかがしれています。それは、とりもなおさず、自分が理解できる部分だけ理解していると言っているのと同じです。

事実質問というのは、いわばサッカーでボールを蹴るという基本と同じです。足をボールに当てられるようになったからと言って、ゲームを理解し運営していくということにはなりません。問題は、その先です。一旦ゲームになったら、何を見越して、どこにボールを蹴るかということ、つまりゲームを作る蹴り方をしなければなりません。だから、会心の体技とは、自分の思ったところに思ったタイミングで、ボールを蹴ることができたときです。そして、大事なことは、それを受ける相手がいるということです。

だから、気合い、なんです。会心のできが味わえるようになるまで、倦まず弛まず精進してください。



(ネパールオフィス 和田信明 


ここに描かれた空気を共有できるフィールド研修
マスターファシリテーターを目指す旅@インドネシア


→和田信明・中田豊一の共著「途上国の人々との話し方