2023年9月25日月曜日

再開します、思春期の子どもとのコミュニケーション講座

コロナ禍で中断

コロナ禍以前から、思春期に入った(入る直前の)お子さんとどう接していいのか、戸惑っている方の声を、私の周囲ではかなり頻繁に耳にしていました。
成長過程での一過性の問題で済む場合がほとんどなのでしょうが、この時期の親子のコミュニケーションの齟齬が、運悪くお子さんの心に傷を残したり、親子関係を将来にわたって損ねたりすることも少なくない現実を垣間見てきました。

ムラのミライの子ども・子育て支援チームの講師たちは、国際協力の現場では最強のコミュニケーションツールとして知られるメタファシリテーション(R)手法を使って、日本国内で子育てに悩む親御さん向けに研修を開催し、2016年以降、子どもとのコミュニケーションでも大きな成果を挙げてきました。特に小学校低学年くらいまでのお子さんを持つ保護者を対象にしたものは、コロナ禍の間もいろいろな形を取って続けてきました。

しかし、思春期の子どもたちとのコミュニケーションを扱う講座は、2020年以来中断されてきました。そこには、オンラインだけでは微妙なニュアンスを伝えにくいとい事情があったためです。

しかしながら、一般のメタファシリテーション(R)講座(ステップ1〜3)や子ども・子育て支援者向けの講座の参加者などから、思春期の子どもとのコミュニケーションに特化した講座を開催してほしいとの要望が多く寄せられて来たことを受けて、対面での講座が可能になった今、思春期の子どもとのコミュニケーション講座(以下略、思春期講座)を再開することになりました。


2019年から2020年にかけての思春期講座でわかったこと

2019年から2020年にかけて、コースごとに回数などは違うものの、合計3コース、延べ20名(講座回数、受講人数要確認)の講座を実施したところ、少なめに見積もって半分以上の参加者が、3回目の講座までに、お子さんとの関係がはっきり変わり始め、回を重ねるうちには、不登校などいくつかの深刻なケースにおいても、顕著な進展が見られたとの報告を受けています。
この手法をお伝えすることで、よりよい親子関係を築くための一助になること、そして、それによってお子さんの心身の成長に少しでもお役に立てると、関係者一同、強く思うようになってきました。

新講座をお勧めしたい保護者の皆さん

新思春期講座は、10歳から20歳くらいまでのお子さんとのよりよいコミュニケーションを望む保護者の方にお勧めしたいと思っています。
お一人の参加も、パートナーとの参加もどちらでも歓迎いたします。
講座で扱う内容は、親子間の日常的・一般的なコミュニケーションで、コミュニケーションや関係作りが深刻な状況にある場合も想定しています。
但し、不登校、引きこもり、DV、知的障害、発達障害などがある場合は、既に専門の支援機関に相談し、何らかの対処を始めているケースに限ることにさせていただきます。
それがまだの場合、個別の対応が必要となり、大きな時間とエネルギーを割かざるを得ない可能性があります。
他の受講者の方とのバランスを考慮して、この講座へのご参加は残念ながら遠慮願うこともありますが、該当するかどうか明確でない場合は、まずはご相談ください。
学習支援など、思春期のお子さんたちの居場所に勤務されておられる方や、教育、福祉などの専門職の方も、ご自身で養育されている思春期のお子さんとのコミュニケーションに実践していただける場合に限って、ご参加いただけます。

 

新講座の3つの特徴

講義・練習・互いの実践内容の共有と検討を繰り返しながら、コミュニケーション技術を習得していきます。少人数(定員4人)で丁寧に進めていく予定です。

1)    自己肯定感を高める対話の仕方を学ぶ

「事実質問」を使って質問を組み立てることで、お子さんの自己肯定感を高め、信頼関係を築くことができます。それが、主体性を育むことにも繋がります。
講座では、まず「自己肯定感を下げるやりとり」と「自己肯定感を高めるやりとり」を識別できるようになり、次によりよいものに変換していくための考え方と対話術を習得します。
たとえば、「どうして〇〇しなかったの?」のような質問の形を取った押し付けや非難を止め、当人の気づきを促すことができるような質問に変えていくスキルと関わり方を学びます。これまで無自覚だった自らのコミュニケーションのクセに自覚的になることさえできれば、誰でも習得でき、実践できる技能で、構成されており、この部分が講座の中心になります。

2)コミュニケーションの場の作り方を学ぶ

思春期に入ると、親子のコミュニケーションの時間が少なくなるのは自然です。
それに従って親はせっかくの機会を、提案や助言、場合によっては、何かを問いただすために使いがちですが、前のめり過ぎると、両者の距離をかえって遠ざけることになります。
講座では、コミュニケーションの場を意識的かつ計画的に作り出し、活用する技術を学びます。

3)感情的になった場合の対処方法を学ぶ

メタファシリテーション(R)の基本的な姿勢は、感情的にならないで、自分のコミュニケーションのあり方を冷静に観ることにあります。
とはいうものの、よそ行きの顔をする必要がない家族を相手にすると、つい感情的になるのは自然なことです。
しかしいつもそうだと対話は深まりません。講座では、冷静にお子さんと向かい合うためのセルフモニタリングとセルフコントロールの方法を、メタファシリテーション(R)手法の原理に基づいてお伝えします。

以上の3つを数回の講座で、すべて詳しくやるには時間的に無理があるものの、参加者の皆さんの実際の状況などを材料に使わせていただきながら、最低限のことは、具体的かつ実践的にお伝えします。
講座の日程や参加費などはホームページをご覧ください。
思春期のお子さんを持つ保護者の皆さんのご参加をお待ちしています。

中田 豊一(ムラのミライ 代表理事)

2023年9月1日金曜日

メタファシリテーションのできるまで(15)

JBIC(国際協力銀行)、JICA(国際協力機構)でやらせてもらった専門家とは、私にとっては、ある意味では武者修行のようなものでした。両方あわせて年に平均2、3回はやらせてもらったので、随分と色々な場所、と言っても主に村ですが、に行かせてもらいました。


JBICはインドです。インド一国と言っても、面積で日本の約9倍、隣の州まで行くと言っても、主に飛行機で移動するしかありません。同じ州内でも飛行機だったり夜行列車の寝台車で行ったり、州が変われば言葉も変わり、食べ物も大分様変わりします。イメージとしては、ロシアを含まないヨーロッパくらいの広さで様々な国に行ったようなものでしょうか。


JICAでは、インドネシアです。インドネシアも東西5千キロ、首都のジャカルタは日本と2時間の時差がありますが、東の果てのパプア州は、日本と何千キロも離れているのに、日本との時差はありません。ですから、インドでもインドネシアでも、村といっても地方によってそれぞれ成り立ちから言葉から違います。でも、その言葉の違いというのは、私にとっては特に困ったことではなく、何せ日本語と英語しか私には使えないのですから、どのみち通訳を介して住民とやり取りをするということになります。


ところで、この足掛け10年にはなる私の武者修行で何をしたかというと、一対一ではなく一対多のやり取りの修行です。修行といっても、一回ごとにそれなりにうまく行かなければ、次の仕事が来ませんから、それこそ毎回真剣勝負といったところでしょうか。


インドでもインドネシアでも、本当に沢山の村に行きましたが、インドとインドネシアでは、今思えば村への入り方に、というより村人との最初の接し方に大きな違いがありました。これは、別に私がインドとインドネシアで村人との接し方を変えたというのではなく、そもそもの背景の違いです。インドでは、州政府の森林局を相手の仕事でしたから、どこの村に行くにもお役人がゾロゾロ付いてきます。そして、村では大きなテントが張ってあったり、集会所であったりで、すでに壇上に椅子が並べられ、村人は一段低いところに座って待っている、そんなしつらえでした。まさに、最初から「上から目線」の設定です。それに比べて、インドネシアでは、村に行くのはNGOの職員と地方政府のお役人、平たく言えば、村役場、町役場のお役人ですから、地域住民との距離は州政府レベルのお役人よりはずっと近いのです。ですから、最初から村人とは、少なくとも同じ平面で対面し、こちらが気を付ければ「上から目線」になることはありませんでした。もっとも、この「上から目線」、自分がそうなっているという自覚がある人は、援助業界では残念ながらほとんどいません。むしろ、善意の塊のような人たちが、「相手に寄り添う」などと言いながら無自覚に「上から目線」になっているのがほとんどなので、ある意味タチが悪い。ところで、インドネシアですが、同じ目線で対面するというのは、この国が回教国であることがそのことにある程度寄与しているかもしれません。何せ、回教は対人関係がフラットですから。


それに比べて、インドは圧倒的な階級社会。何せ、ヒンドゥー教が多数の国では、人間そのものがカーストという階級で分けられていますから。これに、経済力やその他の要因で、明らかに目に見える形の階級社会となっています。まあ、その中でも役人の世界は階級社会の権化のようなもので、ほんの僅かなエリートが圧倒的な権力を握っています。この話をしているとキリがないのでやめておきますが、そういう背景なので、村に行くと常にひな壇が設けられていて、前に並べられた椅子に座るのは、キャリアのお役人たち、そして私ということになります。目の前には、明らかに動員された村人たちが座っています。正面には、いかにも村の有力者みたいなおじさんたち。そしてその他大勢。その他大勢のすみっこの方には、何でこんなところにいるんだろうと、所在なげな表情の婆ちゃんたちがポツポツと何人か。この婆ちゃんたちこそ、私のターゲットです。どういうことかというと、集会が終わった時に、婆ちゃんたちの表情から所在なさが消え、いや、なかなか面白い集まりだったべさ(何弁だ?というツッコミは無しで願います)という表情が浮かんでいれば、私と集会にいた村人たちとのやり取りは成功ということです。


私は、日頃から私のトレーニングを受けるNGO、NPOの職員のみならず、公務員でも、住民と直接やり取りする可能性のある人たちには、たとえ相手が80歳を超えた非識字者の女性でも10歳の子どもでも分かるような表現で話してください、と伝えています。これは、幼児語を使って話せばいいということではありません。そうではなくて、例えば「分析」とか「評価」とかいう概念を、80歳を超えた非識字者の女性でも10歳の子どもでも分かるような表現で伝えることができますか、ということです。先進国では、年齢、性別に関係なく、中等教育を終えていない人というのはごく稀だと思われますが、途上国では、特に農村部では、高齢の女性は小学校も行っていないという例がまだ珍しくありません。しかしながら、高齢の女性とはいっても、まだ現役で何らかの作業労働をし、家族に貢献している人が多いのです。住民参加を謳うプロジェクトなら、彼女たちを無視していいわけがありません。また、彼女たちは隣近所のおしゃべりの中心、あるいは中心とまではいかなくても重要なメンバーであることが多いのです。そうすると、自分で理解し、納得できたことは、そのような場で話してくれる可能性があります。話してくれるということは、言語化できなければいけないわけで、自分がしゃべる言葉に、集会で聞いたことが落とし込まれていなければなりません。私が集会で彼女たちをボトムラインに置いて話を進める所以です。


さて、これから少し演技力が要求されます。と言っても、ほんのちょっと体を動かすだけです。壇上から降りて、集会参加者に近づきます。そして、そこで床に座ります。これで参加者と同じ目線になります。場合によっては立ったまま話すこともあります。それは、人数が多くて、後ろの方の人に私が見えない場合です。ま、大した演技ではないのですが、これでまず掴みはOK。皆が私の方に好奇の目を向けてくれます。一体このおじさん、何をするんだろう。これで、最初に私が発する言葉を皆待ってくれるという状態になりました。

 

私:この中で、一番お年を召した方はどなたですか。
しばらく待つと、隅の方で婆ちゃん一人がおずおずと手を挙げます。こうなると、期待通りの展開なので、私はしめしめと思い、こう聞きます。
私:私は、〇〇歳ですけど(相手の歳を聞くときは、このように自分の歳を最初に言います。ちなみに、私も今は爺さんですが、当時はまだ還暦前でおじさんでした)、あなたはおいくつですか。
婆ちゃん(以下O):わしゃ、80だよ。(実際は、おそらくそれよりずっと若い。村で高齢者に年齢を聞くと、のきなみ80歳だと答える傾向にあります。)
私:お生まれは、この村ですか。
O:いや、A村じゃよ。
私:ということは、この村にお嫁に来たんですね。
O:(笑う)
私:お嫁に来たときは、何歳だったか覚えてますか。
O:17、8だったかねぇ。
私:お子さんはいらっしゃいますか。
O:おるよ。4人。
私:一番上のお子さんがお生まれになったのは、この村に来てから何年後だったか覚えてますか。
O:翌年だったかね。
私:息子さんですか。娘さんですか。
O:息子だよ。
私:(他の参加者に対して)この中で、この方の息子さん、いらっしゃいますか。

すると、参加者の中の一人のおじさんが、恥ずかしそうに手を挙げて、
男:俺だ、俺だ。
私:あなた、今お幾つですか。
男:53歳だよ。
私:なるほど。(ここで心の中で計算し、おばあちゃんは70歳前後でこの村に来て55年くらいということが分かる)

ここで、再びおばあちゃんに向かって、
私:あなたがこの村に来た時、森はどのあたりまであったか、覚えてますか。
O:ああ、あの〇〇があるところまであった。

ここで、再び他の参加者に対して、
私:他に、その頃のことを覚えている方、いらっしゃいますか。

この問いに対して、おじいさんが一人声をあげる。
O J:覚えてる、覚えてる。確かに、あそこまで森があった。
私:あなたは、その頃おいくつでした。
O J:小学校に通い始めてたかな。

と、こんな調子で始めて、これから、当時森で何をしていたか、薪は?牛の牧草は?その他に利用していたものは?そして、だんだん森が遠のいていく、あるいは減っていったことで何が起きたのかを聞いていきます。そうすると、今は遠くまで牛を連れて行かないと放牧できない、そして、他の村と草地をめぐって争いが起きている、薪も以前は1日かければ必要な分量を確保できていたのに、今は2日以上かけないと必要量が確保できない、それも覚束なくなっている、などという話が出てきます。そうなると、森は大切だなどとお役人から説教されて、そうだそうだと上べだけで頷いていたのが、森が日常の自分ごととして意識されるようになってきます。ここからが、住民参加の始まりです。どうです。ここまで来れば、話のきっかけを作ってくれた婆ちゃんに感謝、ですね。

 

次回は「例え話」についてお話しします。
 

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)

 


2023年8月3日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(14)

2000年代に入るとにわかに慌ただしくなった我が身、というほどでもありませんが、自分の団体以外の仕事が入るようになってきました。と言ってもJICAの短期専門家とJBIC(国際協力銀行)の短期専門家ですけどね。当時、ODAの方も機会があったらNGOを使ってみようという風潮(?)があったようで、インドでもJBICが活動をしている日本のNGOを調査していました。調査は東京の老舗NGOシャプラニールが委託されていて、下澤嶽さんがわざわざパタパトナムまで来てくれました。2002年のことです。その後、下澤さんが好意的に報告してくださったのか、南インドのある州政府の森林プロジェクトのインパクト調査の予備調査をやってみないか、というオファーをJBICのインド事務所からいただきました。2週間ほどの期間だったと思います。それまで契約を交わして、仕様書に従った仕事をするなど、しかもそれらがいきなり英語です、やったことがなかった小さな、けし粒のようなNGOにとっては、難儀なことでした。でも、どうにかこうにかやり遂げて、なんだか数十年ぶりで学生に戻った気分で、英語で報告書を書き上げ、提出しました。これがその後累積で数千ページになる英語での報告書の最初の一つとなったわけで、まさか50歳をすぎてこんなことをするようになるなんて、人生なんて分からないものです。その報告書が合格だったみたいで、その後、半年にわたる本調査も発注していただけました。この本調査は、本当に助かりました。なぜなら、その時、JICAの草の根技術協力プロジェクトが一つ決まっていたのですが、インド政府の許可がいつ来るのだろうかという宙ぶらりんの状態で、最も困ったのが、お金がないということ。どうやってJICAのプロジェクトが始まるまで生き延びようか、という状態だったのです。最も慢性金欠状態の小さなNGOにとっては、珍しいことではなかったのですが。


私たちが従事したインパクト調査の対象は、住民参加型森林プロジェクト。南インドのある州政府森林局のプロジェクトです。資金はJBICが供与していた日本の円借款、つまり円借款プロジェクトだったわけですね。確か5年のプロジェクトで、私たちが調査に入ったのはその最終年だったと記憶しています。まあ、確か何十億円というプロジェクトですから、私たちのようなささやかな団体からすれば、台所の隅からいきなり大きなスタジアムの真ん中に引き出されたような、そんな感覚ですかね。別に、私たちがこのプロジェクトをやったわけではないのですが、いきなり大掛かりな仕掛けのものに関わらなければならないというので、こんな気分にもなったわけです。この調査をするために、まず調査チームを立ち上げなければならず、わがムラのミライ(当時はソムニード)から私、原康子、ラマ・ラージュの3人、そしてJBICに紹介されたインド人の専門家が5人、タミール語-英語の通訳が2人、がメンバーとなりました。私がチームリーダーということで、実際に調査のマネージメントは原さんとラマに頼り切り。二人が頑張って取り仕切ってくれました。この時にチームに専門家として加わってくれた5人のうち3人は、その後、何度も一緒に仕事をするようになり、しかも3人ともそれぞれの専門分野では、私の師匠ともいう存在になりました。このお三方は、それぞれ灌漑、植物(森林)、マイクロクレジットの専門家で、しかもいわゆる机上の専門家ではなく、それぞれの活動で長年の経験と実績を持った方々でした。これから約10年というもの、随分と彼らと一緒に仕事をすることになりましたが、仕事をするたびに実地で勉強させてもらうという役得がありました。門前の小僧みたいなものですが。最も、植物の師匠には、「お前は、いつまで経ってもマンゴーとカシューナッツの木しか見分けられない」と呆れられたものです。


カシューナッツ

さて、この仕事は私の「それから」に大きな学びを与えてくれました。学びは二つあります。まず、第一に、この仕事を通じて私は「マイクロ・ウォーターシェッド」という考え方を学びました。なぜこんな考え方を私が学ぶことを得たかというと、関わったプロジェクトが、このマイクロ・ウォーターシェッドという枠組みで村単位の森林管理をしていたからです。この考え方が、私にどのように村を俯瞰的に見るかという視点を与えてくれました。まあ、いわば村を理解するための枠組みのようなものです。「ウォーターシェッド」と言うのは、日本語では分水嶺です。例えば、「〇〇峠は、日本海側と太平洋側を分ける分水嶺です」などという言い方を耳にされたことがあると思います。一つの地域にこの分水嶺はいくつもあります。特に周囲を山や丘で囲まれている村があるとすると、その村は、要は分水嶺で囲まれていると言うことができます。そして、この村は分水嶺から流れてきた水が集まったところから流れる渓流や川、あるいは地下水を利用して暮らしを営むことになります。さらには、この村の周囲の自然、森や林、草原などもこの水を利用して成り立っています。このような枠組みが与えられると、自然資源の維持管理なども総合的に、系統的に計画、実施することができます。この話をしだすと、キリがないのでこの辺でやめておきます。ところで、この考え方がメタファシリテーションのどこにどう関わるのか、それはおいおいお話しすることにします。

マンゴー

二番目は、「住民参加型」ということについての学びです。何せ、調査したプロジェクトが前面に押し出しているのが、この「住民参加型」。プロジェクトの柱となるコンセプトが「Joint Forest Management」、つまり政府と住民が「一緒に(joint)」に森林管理をしようというのです。これには、それまでの政府森林局と国有林周辺の住民(周辺の村の住民ということですね)の長い確執の歴史がありました。はっきりと言えば、森林局にとって住民は取り締まりの対象でしかなかったのです。住民から言えば、森林局は自分たちの資源を使うことを取り締まりの対象とする圧政者、よく言って煙たいお上というわけです。この数十年、インドの森林は危機的状況にあります。有体に言えば、森林が荒廃していっています。その大きな原因が周辺住民による囲い込み、違法伐採、家畜による被害などです。で、森林局の職員は、違法伐採の取り締まり、囲い込みに対する裁判、など、住民に対しては、警察や検事みたいなことをするのが、仕事になっていました。しかし、それではキリがない。それでは、いっそのこと住民にある程度国有林を利用する権利を与え、その代わり地域住民が森林を保護、管理する組織を作って森林の保護育成を図っていく、というのがこのジョイント・フォレスト・マネージメント(共同森林管理)というわけです。


これは典型的な「住民参加型」のプロジェクトです。で、どんなプロセスを踏んでいたかというと、まず対象となる村に「管理委員会」を組織してもらう。そしてその「管理委員会」と共同森林管理の協定書を取り交わす。この協定書には、簡単に言えば、住民がしていいこと、してはいけないこと、どんな権利を森林に対して持つかなどが書いてあるわけで、共同管理のバイブルみたいなものです。そして、そのような共同管理をするご褒美として、5年間の村の開発プロジェクトを実施します。そのために作られるのが「マイクロ・プラン」。村でどんなプログラムを実施するのか、年度ごとの計画が記載されています。これだけ見ると、なんだか素晴らしい「住民参加型」のように見えますが、そうは問屋がおろさない、というのが実態でした。私がここで学んだのは、本当に住民主体で何かをやろうとしたら、絶対こういうプロセスを踏んではいけない、ということでした。この教訓は、その後私たち自身がやったプロジェクトに反映され、住民参加型、というより住民主体のプロジェクト、住民主体の活動を作り出すのはこうやればできるのだ、という方法論を確立するのに随分と役立ってくれました。反面教師として。


だって、これまで警官のような制服を着て、場合によっては鉄砲を持って違法伐採者や違法開墾をする村人たちを追いかけ回していた現場の森林局職員が、急にニコニコしながら村にやって来て、「お困りごとはありませんか」、「こんなプロジェクトを一緒にやりませんか」などと言っても、すぐに相互の信頼関係が生まれるはずがありません。で、「お困りごと」を聞くと、村人はここぞとばかりに「ああして欲しい」「こうして欲しい」というおねだりをします。すると、本来は、村の主体的開発計画になるはずのマイクロプランは、おねだりリストと化します。そして、プロジェクトの初年度に、予算が許す限りの「おねだり」を実現してしまうと、後は、マイクロプランの存在は忘れられます。あるいは、マイクロプランの存在は村の有力者しか知らない、さらに極端な場合は、村人は誰もその存在を知らないという場合さえあります。ですから、村人がマイクロプランの存在を知っているだけでも、それは大したものだ、という認識を私たちは持つようになりました。とほほ、な話ですけどね。この州の話ではありませんが、私が別の州で調査をしていて、村人に、この村の開発計画はどこに書いてあるかという質問をしたときに、「マイクロプラン!」と即座に村人が答えたのに感心したことがありました。ところが、ではそのマイクロプランを読んだことはあるかと聞くと、これもまた即座に「ない!」と答えるではないですか。思わず「なぜ?」と聞くと、「英語で書いてあるから読めない」そうです。この時、そばにいた森林局の偉い人が、そっと耳打ちしてくれました。村人のおねだりを全部マイクロプランに書いてしまった。ところが、それを全部やる予算がない、この村には有力な政治家がいてなぜ実行しないんだと追求されると困る、だから、村人には読めない英語だけのマイクロプランを作った・・・。これを聞いた私と中田さん(中田さんもこの時は調査団のメンバーでした)は、思わずその場で吹き出しそうになって、笑いを飲み込むのに必死でした。


また、この頃はマイクロクレジットが大流行りで、どこの団体も、政府系であろうと、西欧のおきなNGOであろうと、多くの組織が競い合うようにマイクロクレジットを村に、都会のスラムに持ち込んでいました。やり方としては、女性にマイクロクレジットのグループを作らせ、そのグループにクレジット(貸付金)を与えるというものです。その代わり、グループでは貯金をする、その貯金を銀行に預け、それが貸付金に対するギャランティーになる、ざっとこんな仕組みです。貸付金は、やれ教育資金だの起業資金だのとお題目がついている場合が多かったのですが、借りる方にとっては、それは建前。私の知る限りそのほとんどが生活資金として日々の消費や他の借金の返済に消えていくものでした。この共同森林管理のプロジェクトも、そのプログラムの一つとしてマイクロクレジットをやっていました。実は、植林をした際、苗木の天敵はヤギや羊です。新芽を食べてしまうから。だから、このプロジェクトでは、ヤギを売ったらクレジットを与えるというふうにしていました。で、ある村のある女性グループに話を聞いたところが、その答えが以下のよう。
「ヤギを売ったのですか。」
「はい、売りました。」
「で、貸付金はもらえたのですか。」
「はい、もらえました。」
「その貸付金は、何に遣いましたか」
「ヤギを買いました。」
これには、私も、彼女たちの話を聞いていた他の調査団のメンバーも腹を抱えて笑いました。グループのおばちゃんたちも、一緒に大笑いです。この会話は一部を切り取ったものですが、このようなおばちゃんたちの本音話を聞き出すためには、それまでにどのようにどのように話を聞いていくかにかかっていることは言うまでもありません。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント) 


2023年7月11日火曜日

メタファシリテーションのできるまで(13)

運命の2002年、というと大げさですが、この年がメタファシリテーションの誕生の年だと言っても過言ではありません。より正確に言えば、私が生み出した「職人技」が、皆が学べる体系化、理論化された手法となるその一歩を決定的に歩み出した年と言えます。


さて、その2002年に何が起こったのか、中田さんの語るところによるとこうです。2002年の初め頃、バングラデシュでシャプラニール(日本の草分けのNGOの一つで、中田さんもそのバングラデシュ駐在員を1986年から1989年まで務めていた)の現地スタッフに対して「和田のインタビュー術」の研修をすることになった中田さんに突如啓示があったのです。「私はまだその時分では仕組みを解明できていなかったのだが、ここは何とかやるしかないと腹を括って彼女らの前に立ったところ、次のようなやり取りのアイデアがふと頭に浮かんできた…」(「途上国の人々との話し方-国際協力のためのメタファシリテーションの手法-」みずのわ出版2010年p28)


この「ふと頭に浮かんできた」アイデアが、その後メタファシリテーションの研修では必ずと言っていいほど出てくる次の3つの質問です。

「朝ごはんには、あなたは何が好きですか」
「普段、あなたは(朝ごはんに)何を食べていますか」
「今朝、何を食べましたか」


この時、中田さんはこの3つの質問のうち「事実を聞いている質問」はどれですか、と尋ねています。いうまでもなく、事実を聞いているのは3番目の質問です。ただここで中田さんにとって決定的だったのは、「事実を聞く質問」と「事実を聞いていない質問」を区別することができるようになったことです。つまり「事実を聞いていない質問」とは何かということを明確に認識できたということが重要なのです。


前回も書きましたが、私のインタビューが事実を聞く質問で成り立っているということは、実は中田さんはすでに分かっていました。もう一度その部分を引用すると、「とにかく和田のインタビューは、シンプルだった。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけだ…」(「前掲書p21)と2001年のインドネシアでの観察をもとにすでに「単純な事実」をと書いています。ただ、私がしていたのが事実を聞く質問だったとして、では自分が質問をするとき、果たして自分が事実を聞いているかどうか、それをどのように即座に判断するか、その判断の基準は何か、それが中田さんの課題ではなかったかと、この「途上国の人々との話し方」のこの部分を読み返してみて思うのです。そしてその答えをゆくりなくも見つけたのが、この啓示とも思える瞬間、上記の三つの質問を思いついた瞬間だったと思うわけです。


それが心理学の本を読んで得た知識の、たまたまの援用であったわけですが、質問をこのような形で解析した例を私は他に知らないので、これはまさに中田さんの慧眼であったというほかないわけです。しかし、我ながら間の抜けた疑問だと思いますが、では私はこのような知識も慧眼もなく、なぜ「単純な事実」を延々と聞くというような芸当ができたのでしょうか。いまさらでお恥ずかしいのですが、この本を読み返してみるまで自分でこんなことを考えたことは今までなかったのです。無意識にやってしまうのが、恐らく中田さんの言う「職人技」という事なのでしょうが、そもそもなぜこういうことができるようになったのか、ということを考えたとき、行き着くのはこの連載の第6回に書いた村人へのインタビューです。この一連のインタビューを始めるにあたって私が心したことを、このように書いています。

「私がこの時心に決めていたことは、知らないことは虚心坦懐に聞くこと。聞いたことがある程度で知っているつもりにならないこと。曖昧なところは、相手が不快にならない限りははっきりするまで確かめること。」(メタファシリテーションができるまで 6)

これはいわば心構えであって、では実際にこれをどうやって実現したかというと、知らないことを聞くということは、自分だったらどうするのか、どのような手順で何をするのか、ということを聞くようにしたということです。例えば田植え。田植えという言葉は、日本人なら誰しも生まれてから恐らく数え切れないくらい耳にする言葉です。で、5月あたりになると、田植えをする。田植えとは、田んぼに水を入れて苗を植える。そんなことを知っています。そのような映像をテレビで見る、いわゆるその季節になるとニュースで流される定番の年中行事の一つ、そう言っていいでしょう。でも、いざ自分で田植えをすると想像してみると、何から手をつけていいのか分からない。朝起きて、田んぼに出かける前に準備することは何でしょう?道具は?一反当たりどのくらいの苗を準備する?そもそも、何時頃田んぼに出かける?やったことがないのだから、知らないことだらけ、というより、ほとんど何も知らないと言ってもいいくらいです。そういうことを一つ一つ、田植えの前、田植えの最中、田植えが終わってから、という順で聞いていきます。このとき行うのが、「田植え」というイベントを細部にわたって分解するということです。分解できるのは、当然ながら行為です。感情や考えは、分解できません。また、分解するとなると、「普通何時に出かけますか」などという一般的な聞き方もできません。つまり、一つ一つ事実を聞いていく以外の選択肢はないのです、というより、私の場合は、本人はそれと自覚せず(そんなことを考えたこともなかったので)「自動的」に事実のみを聞く質問をしていたわけです。


このようなことをやり始めた頃は、即座に分解して質問を繰り出すなんてことはできません。ところが、幸運なことに村でのインタビューは通訳を介してのインタビューで、質問をする、通訳が入る、答えがくる、またまた通訳が入るというやり取りでしたので、分解して次の質問を考える間が持てたのです。もちろん、相手の答えで次の質問も変わってくるわけですから、答えが予想通りでその答えに対して用意していた質問がそのまま使えたなんてことがそうそうあるわけではありません。だから、そんなに余裕があったわけではないのですが、それにしてもあまり焦らなくていい程度の間がありました。しかし、だんだん慣れてくると、即座に分解でき、そして相手の答えもいくつか予想し、それに対して質問もいくつか用意しておく、なんてことができるようになってきました。そうなると、インタビューもスムーズに運ぶようになります。そのようなスムーズに運んだ例の一つを、中田さんは次のように紹介しています。


「私たちは、南スラウェシのある村で、農家の若い奥さんを相手に、マイクロ・クレジットの使用状況などについてひとしきり聞き取りを行った。…和田は、例によって事細かな質問を重ねていった。…彼女が、借りたお金をどのように使い、そこからどのような利益があったのかなかったのかが、具体的に浮かび上がってきた…インタビューを切り上げる際に、和田は(彼女に)ねぎらいの言葉をかけた……すると彼女は…私のことを聞いてもらって本当に嬉しかった…と嬉々とした顔で応えた。…和田は、このやり取りを、現地語と日本語の通訳を介して行っていたのだが、通訳を務めてくれた現地出身の大学の先生が、その後、私に陶然とした表情でこう漏らした。『なんてすごいインタビューなんでしょう。まるで二人の間に私がいないみたい』通訳たる自分の存在を、彼女自身が忘れるほどに、二人のやり取りが自然でスムーズだったということなのだろう。」(同p20)


会心のインタビューなんて、そんなにいつもできるわけではありませんが、こんなこともあるのです。しかし、会心とまではいかなくとも、相手の答えに対して連続して質問を繰り出すということは、練習を重ねればできるようになると確信をもって言うことができます。


次回は、インタビューを超えたメタファシリテーションの技術へ至る道です。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)



 

2023年5月17日水曜日

メタファシリテーションのできるまで(12)

すでに書きましたが、2000年代に入ってから、私はそれまで片田舎(って旧態然とした言葉遣いですね)に逼塞していたのが急に大都会のキラキラした雑踏に放り込まれたような具合になりました。2000年の外務省NGO共同評価については前々回と前回のブログで書きました。翌年の2001年には、今度はJICA・NGO共同評価というのがありました。今度はインドネシアです。今度の評価対象はJICAのプロジェクトだけ。そのプロジェクトのタイトルはズバリ「コミュニティ・エンパワーメント・プログラム」。通称はプロジェクトの頭文字をとってそれをインドネシア語読みにして「チェップ」。内容は米や牛を配るという、端的に言えば物を配るプロジェクトで、何がJICA的に画期的だったかというと、地元のNGOと組んでそれを実施した、実際に村で活動するのは地元インドネシアのNGOだったというところです。この評価には、NGO側から当時シャプラニールの職員だった長畑誠さん、中田さん、そして私が参加しました。中田さんも私も2年続けてこの種のプログラムに参加することになったわけですが、中部と関西でたまたま空いていたのが私と中田さんだったということで、私にとってみればそれまで行ったことのなかったインドネシアに行けてラッキーというところ。それにインド以外で地元のNGOと交流する機会が初めてだったこともあり、とても楽しみでした。

結果としていろいろ収穫がありましたが、一番の収穫は「チェップ」を担当していた西田基行さん、と友だちになれたことでしょう。彼は、当時JICAインドネシア事務所に企画調査員として勤務されていました。でも、JICAに勤務する人としては一風変わった人で、言ってしまえば役人臭の全くない、気さくなお兄さん、それもとても頼りになるお兄さんとでもいう人でした(今ではすでにお孫さんがいらっしゃいますが)。彼の一番の「特技」とも言えるのは、誰とでも分け隔てなく仲良くなれる、まさに私にすればその爪の垢でも煎じて飲みたいほどの社交性でした。気さく、気取らない、難しいことは言わない、ということで当時JICAのプログラムを実施していた、というか現場の実行部隊だった地元のNGOの皆さんとも肝胆相照らす間になっていることは、側で見ていてもよくわかりました。


その彼が現場のリーダー(現場に出るJICAの職員、正規、契約に関わらず、というのは極めて稀ですね)として頑張っていた「チェップ」ですが、私たちのような口うるさい者たちには、JICAとしてはNGOと直接コラボしていて画期的だけど、コミュニティ自立支援というお題目に照らせばただのばら撒きですね、という評価しかできませんでした。それを「自立支援事業」は一生懸命やったけど「自立支援」はできなかったね、というような表現で彼に伝えたような覚えがあります。彼が偉かったのは私たちの言ったことの意味を理解するために、インドネシアのNGOの活動家たちを2年連続して中田さん、長畑さん、そして私のところに送り込んできたことです。結果として、私たちのところに研修に来たNGOの活動家たちは大変身を遂げてインドネシアに戻りました。その結果を見て、西田さんは新たなJICAの技術協力プロジェクトを立ち上げました。その名も「市民社会の参加によるコミュニティ開発」。タイトルだけ見ても何をするのかさっぱり分からないプロジェクトで、しかしそこにあった彼の思いは、「JICAが主導するのではなく、現地のNGOがイニシアティブをとって、村人とともに村づくりをする。そんなプロジェクトを、JICAとNGOが連携して進めていきたい」(西田基行著「PKPM -ODAの新しい方法論はこれだ-」文芸社2008年p72)というもの。今思うとよくもまあこんなプロジェクトをJICAが裁可したもんだと思うのですが。このプロジェクトの成立こそ、2001年のJICA・NGO共同評価の落とし子と言っても過言ではありません。そしてこのプロジェクトが私に大きなチャンスをもたらしました。


私は、2004年から2006年まで短期専門家として毎年3ヶ月このプロジェクトに関わりました。ここでの私の役割はファシリテーター養成研修。これがまたJICAとしては前代未聞で、私のやる研修には一切縛りなし。思うままに組み立て、思うままに実施するという、つまり私のやりたいようにトレーニングしてくださいというもの。西田さんがプロジェクトリーダーでなかったら、こんなことは不可能だったでしょう。私が何をしたかというと、東インドネシアの10州から集まる地方行政官、NGOの活動家を村で活動するファシリテーターとしてトレーニングすることと、トレーニングの後、フォローアップのために彼らの現場を訪ねてその場で必要な指導をすることでした。おかげでインドネシア東半分の様々な村を訪ねることができ、また当然ながら村人の話をじっくり聞く機会を得ることができました。


ところで、この頃私のフィールドでのパフォーマンスはどう見られていたのか、西田さんの前掲書からちょっと長文になりますが引用させてもらいます。文中ファリー、アスハール、エディとあるのはいずれもこの通称「PKPM(ペーカーペーエムと読んでください)」プロジェクトで私の研修生だったインドネシアのNGOの活動家たち。特に、ファリーとアスハールは、このプロジェクトのインドネシア人専門家となり、私が研修の後先に地方周りをするごとにどちらかが私に同行してくれました。

「私たちは3台の車に分乗してアマイ村に向かった。ファリーとアスハールが同乗を拒むので、私(西田)とエディが和田さんの車に乗り込んだ。2人はそれまでも和田さんとともに、いろいろな村を訪問していた。その際に目のあたりにした和田さんの驚異的なスキルに、すっかり自信をなくし萎縮してしまったのだ。南スラウェシ州のとある村を訪問したときには、たった300メートル歩いただけで、ミラクル和田は『この村には馬が6頭いる』と当ててしまった。さらに『果樹は〇〇と〇〇、全部で6品種自生しているな。田んぼの広さは25ヘクタールくらいだな』、とすべてを的中させた。『村の農業普及員さえ知らないのに、なぜわかるのですか?』とアスハールが聞くと、和田さんは一言こう答えたそうだ。『村に入るまでに見たことを言っただけだ』『ぼくたちにはとてもできない。和田さんに突然何か聞かれたら困るから、いっしょに車に乗るのはいやだ』2人そろってこう訴えたのには笑ってしまった。」(同p125)。


私に言わせれば、こんなことは驚異的なスキルでもなんでもないのですが、同行していたファリーとアスハール、そして現地で出会ったNGOの活動家たちに、まずは村をよく観察しなさいということを分からせるためにこういうことをやっていました。実際に地元のNGOの活動家たちが村のことを知らないことは呆れるばかりで、しかも困ったことに本人たちは村のことをよく知っているつもりになっている。ファシリテーター養成の第一歩は、彼らのこのような思い込みを取り除くことからでした。

この引用文に出てくる「とある村」では、某国の「〇〇エイド」という機関が「貧困削減プロジェクト」をやっていました。さすがに、一国のODAを担う機関ですので、やることも大掛かり。インドネシア全国展開で、実施は地元のNGO、そしてどうもその上に国レベルのコーディネーターと呼ばれるNGOの活動家たちがいて、実施レベルの地元のNGOを指導するという体制らしいのでした。事業は「住民参加型」で、村人と一緒に村の地図を作る。どんな地図かというと、村の世帯を「富裕層」、「貧困世帯」そしてその「中間の人々」に分けて地図に落とし込むというもの。そして見事「貧困世帯」のステータスをもらった人々には「収入向上」事業をしてもらうという内容でした。もちろん「〇〇エイド」がやることです。プロジェクトの実施要領を記した分厚いマニュアルがあります。地図の作り方も詳細に説明されています。まあ、やり方としては当時はやっていたPRA(Participatory Rural Appraisal:参加型農村調査法)の焼き直しですけど、内容の説明を聞いた時、思わず吹き出しそうになりましたね。これを、村人を巻き込んで大真面目にやるんかい?ということで、付き合う村人も大変だなあと。最初に、アプリオリに「富裕層」、「中間層」、「貧困層」というカテゴリー分けをしてあるところから、すでにこれは調査としてはアウト!です。そして、「貧困層」はどんな人々かと言えば、「1日に1食しか食べられない人」とくるのですね。私の目の前に、村のオジサンが1人いたので、試しに彼に聞いてみました。「調査の結果、あなたはこの3つのどの層に入りましたか?」「貧困層だよ。」「ところで、今朝、朝食は食べましたか?」「食べたよ。」「昨晩夕食は食べられましたか?」「食べたよ。」「昼ご飯は?…」という具合に聞いていくと、3食毎日食べています。ちなみにオジサンのお腹はぽっこりと出ていて、栄養のバランスはともかく量的には十分か十分以上にとっていることは明らかでした。中田豊一風に言うなら、架空の現実を元に展開される典型的な「開発援助劇場」でしたね。


さて、だいぶ寄り道をしてしまいましたが、ファリーやアスハールも含めて、のちに私の弟子になる人たちは、私の目立つと言うのでしょうか、見た目で分かりやすいパフォーマンスには感心するものの、私が村人たちと行う基本的には一問一答のやりとりにはあまり関心をはらいませんでした。彼らが感心するところの私のパフォーマンスというものは、観察もさることながら実は村人たちとのその場での一問一答(のちにメタファシリテーションと呼ばれるようになった、コミュニケーションですね)の上に成り立つということには、この時点ではまだ気がついてもらえませんでした。ただし、私が彼らに現場で聞くこと、指摘することは相当インパクトがあったようで、3年間私のトレーニングに耐えた彼らは、その後見事なコミュニティ・ファシリテーターとなり、他のNGOが彼らの指導を仰ぐようになりました。ちなみに、この「とある村」で私の前に全国レベルのコーディネーターとして颯爽と現れた女性はエレナさんといって、この時私が彼女に何を聞いたのか覚えていませんが、答えられなくて悔しい思いをしたりカチンときたりしたらしく、あの日本人のオジサンはなんであんなことを聞くのだろうかと、それを確かめるために、自費でJICAの私の研修に参加し(彼女が参加する頃にはすでに研修は始まっていて、交通、宿泊、食費が出る枠に彼女は入れませんでした)、ついに3年間を通して私の研修に出続け、当時私がいたインドや、インドの後に赴任したネパールまで自分で飛行機代を出してまで私のトレーニングを受けにきました。彼女がこうして素晴らしいファシリテーターになっていったのは、いうまでもありません。

それはさておき、こうして足掛け3年トレーニングを続けるうちに、トレーニングを受けた人たちの何人かは、自分が受けたトレーニングを自主的に自分で人と資金を集めて自分の地域で行うということが起こり、そして外から持ち込まれたものではない自主的な活動を村人とともに政府の提供するプログラムなどを利用して起こすということが始まり、それこそ今までそんなことを経験したことのないJICAをびっくりさせるということが起きたのです。このPKPMプロジェクト3年間のおかげで、私にはインドネシアで直弟子、孫弟子あわせて数百人の弟子ができました。

長々と余計な話をしましたが、一応メタファシリテーションが自在にできるようになるとはどういうことなのか、そのことを具体的にイメージしてもらうために書いてみました。司馬遼太郎風に「これは余談だが」などとやれれば格好いいのでしょうけどね。
2001年の時点に戻ると、この時点で中田さんは私の「職人技」について以下のように書いています。

「とにかく和田のインタビューは、シンプルだった。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけだ。同行した長畑誠は、現場で早速自分でも試そうとしたが、聞いていくうちにすぐに尋ねることがなくなったり質問を次に繋げられなくなったりで、討死を重ねるだけだった。そう簡単に真似できるものではないことを、私は思い知らされた。
帰国後、私は、そのメカニズムの解明に自分なりの方法で着手した。和田自身、言語化しないままに使っていたので、手法として体系的に語るほど整理されていなかった。理屈ではなく体で覚えるのが職人技であるから、それは当然と言えば当然なのだが、他者がそれを学ぼうと思えば、ある程度の理論化と体系化はどうしても必要になる。私はそれを試みようとしたわけだ。」(「途上国の人々との話し方-国際協力のためのメタファシリテーションの手法-」みずのわ出版、2010年 p21)」)

というわけで、私の職人技の解明に着手した中田さんにとっては、いよいよ運命の2002年バングラデシュへとこの物語も展開していくわけです。それは次回で。


和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)

2023年4月20日木曜日

メタファシリテーションのできるまで(11)

中田さんが私のことを最初に触れたのは、中田さんの著書「ボランティア未来論」(コモンズ 2000年)の中でです。前回お話ししたラオスでの共同評価が終わって間もなく、中田さんは、プリントアウトした分厚い原稿の束を私に送ってきて、次に出す予定の本の原稿だけど読んでくれないかと頼んできたのです。私は、その原稿を出張先の宿で夜読み始めたのですが、途中で辞められなくてついにほとんど徹夜をして読んでしまいました。それほど面白かったというか、むしろ身につまされる内容でした。


ところで、この本で私がどんな「登場」の仕方をしたかというと、こちら側(先進国であると自認する日本)が途上国に持ち込むプロジェクトが持ち込まれた側の現状をしっかり把握していなければ齟齬を来す、双方の取り決めも形骸化するということを実際に評価のために視察したプロジェクトの現場で明らかにした場面でした。この時俎上に登ったのは森林保護案件と農村開発プロジェクトでしたが、

「…和田信明はNGO界きっての農村調査のエキスパートであって、彼の巧妙なインタビューが(保護林でのある程度の伐採を)村人だけでなく地域の役人も黙認していることを明らかにしたのだった…」(前掲書p222)という風に紹介されています。引用が長くなりますが、さらにその先には、「彼ら(プロジェクトを持ち込む側)には、残念ながら、村の人々が問題をどうとらえているか、その問題の真の原因は何なのか、村人にとって実行可能な解決方法にはどのようなものがあるのかを、村人の視点に立って分析し把握するという姿勢が余りなかった…和田は、このような村人と共に問題を分析していく一連のプロセスを、『共同体に基づく課題の分析』のプロセスと呼んで、開発援助プロジェクトを実行していく上で最も重要なプロセスであると位置づけた。私たちは彼のそうした考えに従って、調査したプロジェクトがどの程度それができているかを見ていったのである。」(同p223)


 
前回書いた通り、この「共同体に基づく課題の分析(Community-based issue analysis)」は「私の」ではなく借り物の概念です。しかし、その元ネタにはそれをどうやって具体的にやるのかは書いてありません。そのやり方そのものは、私が試行錯誤を繰り返しながら独自に築き上げたと言えるかもしれません。


さて、大いなる共感を持ちながら、というか身につまされながら原稿を読んでいた私は、突如私自身のことが記述された箇所が出てきて最初は驚きました。しかも「NGO界きっての農村調査のエキスパート」なんて言っちゃっていいのかな、なんて思いましたね。ただ、日本のNGOだけではなく、海外のNGOも知っている中田さんがこのような表現の仕方をするとは、一体この業界の農村調査って何を見ているんだろうと疑問にも思いました。実際、この評価においては、特にNGOもODAも「住民参加」というレベルでは、何の差も見られなかったし。つまり、両方とも「住民参加」は私の見るところではお題目に止まっているし、金の掛け方の差はあっても、方法論の差はなかったし、で、おやまあ、という感じでした。


この稿を書くにあたって「ボランティア未来論」を改めて読み返してみると、流石に中田さんは慧眼だったな、と思わせるところがあって、実はこの時すでに、「参加型コミュニケーション」のためには「問いを突きつける」技術が必要(同p273)だと喝破しています。その例に挙げているのが、堰の建設にいくらコストがかかったか知っているかという問いを村人に聞き続けた私のインタビューでした。ちょっと長くなりますが、そのくだりを以下引用します。


「…その際、団長の和田がひとつの質問への固執を見せた。それは、その堰の建設あるいは補修にいくらコストがかかったかを知っているか、という質問だった。村の水利組合の委員長にまずたずねたが、彼はそれを知らなかった。次に村長に聞いたが同じだった。さらに彼は、関係する数人の村人に同じ質問をしたがやはり彼らも知らなかった。…和田は、専門家たちの顔を横目で見ながら、村の責任者にさらに聞いた。『建設コストを知らないで、どうやって将来の補修に備えるのですか。』彼はそれに答えることができなかった。…住民参加を目指すといいながら、このプロジェクトでは、事業の核心部分である堰の建設は、自分たちだけでやっていた。セメント運びや水路掘には、村人が参加した事は確かだが、誰もコストを知らないのでは、本当の意味での参加とはいえない。…和田は、自らの経験から、『建設コストを知らなければ、自分たちで補修資金を積み立てようがない』という当たり前の理屈の重要性を知っていた。その前提に立って、彼は、その場でプロジェクトの構造についての仮説を作り、それに沿って質問を組み立てていった。これこそ、参加型開発のコミュニケーションの技法の真髄といえるものであった。ボランティアに必要とされている技能もこれなのである。ただし、この技能はマニュアル化によって伝えられるものではない。教室の中だけで学べるものでもない。相手との対話の中で、現実から学ぶよりほかないつまり、『共』に生きる中で身につけるしかないものである。」(同p274〜276)


中田さんは、私のパフォーマンスを表現するのに、「技術」、「技法」、「技能」という言葉を使っています。念のためにそれぞれの語義をネットの辞書で引いてみると、

 「技術」
1 物事を取り扱ったり処理したりする際の方法や手段。また、それを行うわざ。
2 科学の研究成果を生かして人間生活に役立たせる方法。

「技法」芸術などで、技術上の方法。手法。

「技能」あることを行うための技術的な能力。うでまえ。

とあります。それぞれ似たような意味ですが、決まった方法、手段があって、何事かに対処するとき必ず一定の結果、それも当然ながらポジティブな結果を出すというところでしょうか。たった一度、何か際立った結果を出しただけなら、それはまぐれということかもしれません。しかし、どのような場面でも同じように結果が出続けるなら、それはそのような結果を導き出せる技術なり技法なりがあるということなので、中田さんは私のパフォーマンスを表現するに、「技術」、「技法」などという言葉を使ったのでしょう。何だかくどくどと書いていますが、要するにこの時期の私には客観的に見て「技術」なり「技法」なりが確立していたと言えます。つまり、現場での自信のようなものは、あながち私の独りよがりではなかったということで、正直私は中田さんの原稿を読ませてもらうことで目の前が開けたような気分になりました。


ところで、のちに私の現場でのパフォーマンスをネタにメタファシリテーションという万人が使うことのできる方法を体系化した中田さんですが、この「ボランティア未来論」を脱稿した時点では、まだそのような意図はなかったようで、私のようなことができるようになるためには、「相手との対話の中で、現実から学ぶよりほかないつまり、『共』に生きる中で身につけるしかないものである。」としています。しかし、この後、私の「巧妙なインタビュー」を執拗に観察し続けた中田さんは、ついにそこにある法則性を見出すに至ります。そして舞台はインドネシアへ。

和田信明(ムラのミライ インハウスコンサルタント)

 


 

2023年3月31日金曜日

メタファシリテーションのできるまで(10)

中田豊一さんとは、月並みな言い方をすれば長い付き合いです。初めて会ったのが1986年ですから、今年2022年で36年の付き合いとなります。中田さんと知り合ったのは、彼がシャプラニールのバングラデシュ駐在員としてダッカに赴任した1986年5月のことです。当時バックパッカーをやっていた私は、縁があってシャプラニールのダッカ事務所にお世話になり、というより居候をし(そんな呑気な時代でした)、それ以来の付き合いということになります。年月の長さだけを言えば、それはお互いに歳を取ったというだけのことですから、ことさらにその長さを言い募ってもどうということはありません。ただ、この付き合いには、西暦2000年という節目の年があります。


西暦2000年問題など喧しかった21世紀の初めの年、和暦でいうと平成12年というなんだか平凡な響きの年、この年は私にとってもある意味運命の年でした(私は運命論者ではないので、天命とか運命とかいう言葉を使う趣味はありません。しかし、そうは言いながら「運命の年」などと言ってしまうのは、私の語彙力が乏しいからだと思ってください)。この年、中田さんと2度目の出会いがあったからです。この時の出会いの前と後では、彼との付き合い方が全く違います。それ以前は、親しいと言ってもたまに会えば楽しく語り合うだけの仲、これ以降はいわば共に同じ目的のために戦う同士とでも言う仲となります。ただし、その出会いのインパクトについて言えば、中田さんにとっては「青天の霹靂」、私にとっては「遅効性の漢方薬」のようなもので、その意味を中田さんに教えてもらうまで私は気づかないという理解の遅さでした。中田さんに何が起こったかということは、「途上国の人々との話し方」 の序章に詳しく書いてありますので気になる方は本を読んでいただくとして、中田さんにとって何が「青天の霹靂」だったか、ちょっと長くなりますがこの本から引用させてもらいます。それは、「外務省とNGOの共同評価」という行事で、その評価団に中田も私もメンバーの1人として参加し、ラオスに行った時のことです。

「…私は和田との再会を心から喜んだ。しかし、結果としてそれが私にもたらしたものは、旧交を温めるなどという生やさしいものでなかった。調査団の団長をつとめた和田は、行く先々の村で、率先して村人や担当職員へのインタビューを行った。その方法やスタイルは、私にとって実に衝撃的なものだった。…和田がやり取りを重ねているうちに、必ずと言って良いほど、人々の本音やことの真相が相手の口から飛び出してくる。それらの本音や現実は、私がバングラデシュやネパールの村人からは決して聞いたこのとない類のものだった。もっと言えば、私が無意識のうちに敢えて聞きだそうとしていなかったようなことばを、和田は、巧妙なインタビューによって、自由自在に引き出して見せたのだった。」 (「途上国の人々との話し方」17~20ページ)


中田さんはこう書いていますが、実は、私は何がそれほど衝撃的だったのか理解できませんでした。色々言い訳じみてきますが、そもそも「調査団」というのは、当時「外務省とNGO
の共同評価」という行事が毎年あって、政府のODAの資金をNGOが使うのがようやく軌道に乗り始めた頃、お互いの交流を深めるという趣旨で始めたことで、内容としては、JICAのプロジェクトとNGOのプロジェクトをちょっと視察、簡単に評価するということで、調査をして評価したところで何が変わるというほどのものではありませんでした。その調査団の団長といったところで、たまたま私が最年長ということでそういうことになっただけで、それだけのことです。そもそも、私はその年中部地方のNGOの代表ということで参加していたのですが、それもたまたまその時期スケジュールが空いていたのが私だけということで声をかけられただけで、中部地方を代表してなどというご大層なものではありませんでした。


前回の稿にも書いたように、この頃村人とのやり取りが楽しくなっていた私は、中田さんに「村のオヤジたちとのやり取りは任せてくれ」程度のホラを吹いていたような気がします。それで、中田さんたちは「じゃあ、やってごらん」と私に「率先して」やらせてくれたのでしょう。私にとって、ラオスという国はその時初めて訪れた国であり、その国について、そしてラオスの村についてはほとんど何も知らないという状態でした。結果として、村で色々話を聞いて、自分でも納得のいくやり取りができ、「なんだ、インドもラオスも、村のおっちゃんたちは変わらんな」という自分なりの達成感、そして「村人とのやり取りの技術」がインド以外でも通じることが嬉しかったのを覚えています。


しかし、中田さんがなぜ衝撃を受けたのか、正直言って私にはよくわかりませんでした。なぜなら、当時私にとって中田さんは言わば雲の上の人。こちらは地方の小さな、本当に吹けば飛ぶような無名のNGO。かたや中田さんは、東京の老舗のNGOであるシャプラニールのダッカ駐在員を勤めた後、阪神大震災の時は、阪神大震災地元NGO救援連絡会議事務局長代行、そしてその後セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン事務局長を務め、ODAを含めた援助業界ではそれと知られた存在でした。手がけたプロジェクトも私が当時やっていたささやかなものとは比較にならない規模のものです。しかも、この評価の対象となったのは、NGOのものは東京のある大手のNGOのもの、そしてODA(実施はJICAです)のものが二つ。そういう「本格的な」プロジェクトを目にするのも初めての経験でした。だって、当時はまだ日本のODAも景気が良く、JICAのプロジェクトなんて、始める前の「悉皆調査」では、プロジェクト候補地の航空写真まで撮るのです。まあ、言わば私にとってはキラキラした世界です。田舎の素人芝居の役者が、突如東京の大舞台に紛れ込んだようで、私としては、中田さんを頼ってその陰で小さくなっている(はたからそう見えたかどうかはわかりませんが)しかないわけです。


では、初めての経験でしたけど、この目で見たキラキラしたプロジェクトはどうだったかというと、エンドユーザー、いわゆる受益者と呼ばれている地元住民(この場合都会に住んでいる人は対象となっていないので村人ですね)とは随分とすれ違っているなという印象でした。この規模のプロジェクトを実際に見たことのなかった当時の私にも、何人も村人から話を聞いて分かったのは、いずれも金の切れ目が縁の切れ目、村人の自主的な活動も持続性もまず無理というものでした。


しかも、です。NGOの端に連なる私にとって意外というのか、これはまずいなと思ったのは、住民、コミュニティを直接対象として、いわゆる「参加型」でプロジェクトをやる場合のODAとNGOの差が全くないことでした。つまり、このレベルではODAもNGOもやっていることは基本的に同じということです。それはすなわち、一番肝心なこと、つまり現場の活動の質でNGOはODAを批判できないということで、ラオス一国の、それもODAのプロジェクトが2つ、NGOのプロジェクトが1つ見ただけなので、それをもって全体がどうのと言うことはできませんが、では自分ならこの規模でプロジェクトをやるならどうするということをいつも考えるというきっかけになりました。

で、中田さんです。この時、私はこれまで述べたように自分なりの収穫があったのですが、そのことが中田さんに何をもたらしたかなどと考えもしませんでした。ところが、中田さんがこの期間、だんだん私に質問をしてくるようになりました。「和田さん、今のインタビューどうやったの?」「へっ?どうって…(いや、相手が答えやすい簡単な質問しただけですけど、それが何か?)」などなど、私にとっては、聞いての通りで何が分からないのか分からないのです。でも、質問の内容が、なぜ私が質問するといつの間にか相手が本音を語るのかということらしいと分かると、「だから、魚を網の中に追い込んでいくように質問を組み立てるの」などと、今から振り返れば呆れるようなことを答えたりしていました。ま、実は私も自分が何をしているのかよく分かっていなかったので、それ以上の気の利いた答えは出てこなかったというのが正直なところです。しかも、私が自然にできるようになったことだから、こんなことは誰だってやっているだろうに、と当時は本気でそう思っていました。だから、中田さんが何に感心しているのかよく分からなかったのです。


でも、その後が楽しかった。中田さんがインドの私のフィールドに来たり、またこの翌年には、この外務省の行事と同じような行事で、JICAとNGOの共同評価というものがあり、その時も、中田さんと一緒にインドネシアに行くことになったりしたからです。その間、中田さんに色々聞かれることで、私にも自分が何をしているのか、だんだん見えてくるものもありました。それは次回で。

和田信明(ムラのミライ海外事業統括)