プロジェクト通信 番外編2「被災地で考える~支援で村は良くなるか?」(2016年3月1日発行)

In 601プロジェクト通信 ネパール「バグマティ川再生 でこぼこ通信」 by master

目次


1. はじめに
2.  オカルドゥンガまでの道のり~のどかな景色と必死のデコボコ道
3.  村の人はたくましい!仮設住宅と村の生活
4.  物資配布とさらなる支援のおねだり
5.  「支援で村は良くなる」??
6.  最後に―支援者のみなさまへお礼

1. はじめに

2016年1月、燃油不足が続くカトマンズは寒い。最低気温が1~2度、1日の計画停電が最長14時間になる冬、頼りになるのはガスを燃料にする暖房器具。しかし、料理にすら満足にガスを使えない状況のなか、ガスヒーターで部屋全体を暖かく・・・なんて夢のまた夢だ。ただ、日差しが強く、木枯らしが吹くこともほとんどないため、日中に外に出ると意外と暖かい。そのため、外に出るときは上着を脱ぎ、屋内に入ると着込むという、なんだかあまのじゃくのようなことを繰り返している。

さて、今回のプロジェクト通信【番外編】は、筆者がカトマンズよりさらに寒い山奥の村へ支援物資を届けに行ったときのお話。
4月の地震後、ムラのミライはソムニード・ネパールとともに緊急救援活動に行ってきた。今回は、その一環として、オカルドゥンガ郡バンジャレ村とツゥプル・バンジャン村でのトタン板や米の配布をした筆者の体験をお届けしたい。
同地域は、地震後半年経っても外部からの十分な支援を得られていないということから、支援が決定した。そして2016年1月下旬、カトマンズから南東約100㎞に位置するバンジャレ村とツゥプル・バンジャン村へ、4日間かけての往復・物資配布を行うこととなった。

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2.  オカルドゥンガまでの道のり~のどかな景色と必死のデコボコ道

1月22日朝5時半、街頭の少ない真っ暗闇と濃い霧の中、カトマンズを出発した。
筆者にとっては初めて訪れる場所のため、ツゥプル・バンジャン村出身でカトマンズ在住のカミ・シェルパさんが同行してくれることとなった。
午前中は比較的スムーズな道のりで、車窓から見える景色を楽しんだ。山の間を大きく蛇行しながら流れる川、川岸の畑でサンサンと日光を浴びる色とりどりの作物(菜の花、麦の芽、蕎麦やジャガイモの花)、そして赤茶と白の漆喰で塗られた壁とスレート屋根でできた家々。時折、銀や青に光るトタン板や、ブルーシートで作られた仮設住宅も見られた。
午後は山道に入り、天井に頭を打ちそうになるほどのデコボコ道や、対向車とすれ違うたびに転落しないことを祈るような道を進んだ。それもそのはず、この辺りはつい最近まで車道ではなかったのだ。「車道」と言っても、見たところ、一度だけ重機が山肌を崩して道をつくり、その後に何度か車が通ることで段々と轍ができていったような感じだ。
12時間車に揺られた後、キジ・ファラテ村に着いた。ここはシェルパ族の集落なので、青と白を基調とした建物がほとんどだ。ここからさらに山道を1時間半歩き、バンジャレ村に着いた。
  





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3.  村の人はたくましい!仮設住宅と村の生活

今回滞在させてもらったのは、バンジャレ村(標高2,400mのシェルパ族の集落)にあるクッサン・シェルパさん(カミ・シェルパさんの義弟)の仮設住宅。全壊した家の隣に建てられており、クッサンさんと奥さん、十代の娘2人が住んでいる。
壁は木の板で、屋根は竹で編んだ御座のようなもの(本来は家畜小屋に使われるらしい)を敷き、その上にブルーシートや壊れた家で使っていたスレートを重ねている。
中に入ると6畳ほどの台所兼寝室。家にいる間は常に火を焚いているので、とても煙たいのだが、その分暖かい。奥には1.5倍ほどの広さの客間があり、こちらまでは熱が届かないので、吐く息が白くなり、壁の内側に霜ができるほどの寒さだそうだ。
仮設の材料の中で、政府からもらった支援は、屋根の一部を覆っているブルーシート1枚のみ。限られた支援しか受けていなくても、客間まである仮設住宅を自分たちで建ててしまう、村の人のたくましさに感心した。
それに、みんな働き者だ。料理はほとんどすべて長女がこなし、14歳の次女も家畜の散歩などの手伝いをしている。燃料の薪を山から調達するのは男性の仕事だ。
都市部と違って、ほとんどずっと火を焚いているため、いつでもお湯が手に入り、食器洗いも洗顔もお湯でできる。薪を取りに行く仕事をしなくてよい「お客さん」目線からすると、
「ガスも電気もないカトマンズより、ある意味便利かも・・・」
と少し羨ましく思ったりもした。
  




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4.  物資配布とさらなる支援のおねだり

支援物資配布は3回に分けて行った。
1回目はクッサンさんの家の前にバンジャレ村の人々が集まり、米の配布。
受け取り場所には竹の御座が敷かれ、ゲスト用の椅子と受付テーブルが置かれた。
事前に用意してくれた名簿から一人ずつ名前を読み上げ、呼ばれた人はまず名簿に署名をし、私たちゲストにカタ(チベット仏教の習慣で、尊敬の念を示す際や、別れの際などに相手の肩にかけるスカーフ)をかけ、米を2袋(60㎏)ずつ受け取るということを順番にしていった

物資配布に初めて立ち会う私は、出発前に事務所で
「配布の時にごねる人がいるかも・・・」
「万が一、名簿の準備ができていなかったときのために、空欄の名簿を準備していった方がいいよ。」
などと色んな人からのアドバイスをもらっていた。
この日は、そういった言葉を思い出しながら緊張気味で臨んだのだが、このスムーズなやり取りを目にして、大きな安堵を感じたのは言うまでもない。
次に行ったトタン板の配布もスムーズに進み、5枚束にしたトタン板を一人で運ぶ村の人の姿に、ただただ感心した。
   



少し困ったのは、ツゥプル・バンジャンでの米の配布のときだった。
ここでもバンジャレと同じようにカタを受け取り、代表者の挨拶を聞いた。違ったのは、バンジャレでは簡単な感謝の挨拶だったのだが、ツゥプル・バンジャンでは、長~い「おねだり」スピーチだったということ。
「これからも支援を続けてもらえるとありがたい。今回のように、外国とのつながりのある人が村に支援を運び続けてくれることで村は良くなる。」
このような内容を、表現を変えて繰り返し話していたらしい。
筆者や通訳のカミ・シェルパさんは、返す言葉もなく、「米の配布を始めましょう!」とその場を逃げ切るしかなかった。

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5.  「支援で村は良くなる」??

「これからも支援を運び続けてくれることで村は良くなる。」
という村のリーダーの言葉を聞いたとき、筆者は大きな違和感を覚えた。
そのセリフは、なんだか「この村には何もなく、私たちには何もできない。」と言っているように聞こえて、それは、村で実際に見た光景と矛盾していると感じた。

2日間バンジャレやツゥプル・バンジャンに滞在して見たもの。それは例えば、
・全壊した瓦礫を整理し、埋もれた家財道具をすべて取り出して仮設住宅の中で使って生活する様子。
・水や薪の調達、家畜や畑の世話などの重労働も毎日こなし、ゲストには村の材料でつくったお酒や食事をふんだんに振る舞ってくれる村の人。
・何十キロもある米袋やトタン板を一人で運ぶ姿(年配者、女性、子どもたちでもこの仕事を担っていた)。
・村の人でお金を出し合って再建中のストゥーパ(仏塔)。
      






短い滞在中に垣間見た、村の人たちのたくましさ。
この土地で長く生活してきた人たちには、生活に必要なものを調達する力やそのための助け合いの仕組み、彼らなりの優先順位ができあがっている、そう筆者の目には映った。

もちろん、災害に見舞われた人たちに対して、失った生活物資などの支援をするのは当然のことだ。しかし、この村に「継続的に支援が必要か?」「支援するなら何が必要か?」と考えれば、どうだろうか。

「これからも支援を運び続けてくれることで村は良くなる。」
という言葉に、筆者はその場で何も返すことができなかった。
このことについて、ネパール事務所の和田さんからこんな指摘があった。
「君なら、『自分の生活を良くしたい』と思ったら、何をする?・・・まず、『良い生活って何か?』を考えるだろう。」
あっ、確かに、そうか。あのとき、「良い村ってどんな村ですか?」と聞けばよかったんだ・・・。
村のリーダーのセリフに対して抱いた違和感。それは、村で見た光景と矛盾しているというより、そもそも、「村が良くなる」とはどういうことかが明確でなかったことから生まれたのかもしれない。
良い村とはどんな村か?
電気が通っている村?病院がある村?それとも1年中水に困らない村??
具体的な「良い村」のイメージがあってはじめて、「じゃあ、どれくらいの電気が必要?」「その電気は何に使う?」「どこから手に入れる?」「そのためにはいくらかかる?」などという問いかけを始めることができる。そういった問いかけと答えのやり取りの中でやっと、「村の人たちだけでできること」と「外部からの支援が必要なこと」が見えてくる。
支援というものに関わるにあたり、「どんな村が良い村か?」「そのためには何が必要か?」を当事者と一緒に整理していくことできるようになるために、「こんな時はどうする?」「あの時はどうしたらよかった?」という自分への問いかけを怠ってはいけないと、オカルドゥンガで答えられなかったセリフを振り返りつつ、思うのであった。

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6.  最後に―支援者のみなさまへお礼

1月23日~24日の2日間で、バンジャレ村とツゥプル・バンジャン村、および各村に隣接するパルシェ村とサルサ村の一部の住民へ、米150袋、トタン板273枚、および水道設備修理用の資材を配布した。
現地での聞き取りからは、「外部からの支援の多くは、世帯主別に作った名簿をもとにするため、他人の土地を借りて小作農をしている家庭は対象にならない」ということが分かった。今回は、地元リーダーのクッサンさんが名簿作成を担ったため、小作農家も含め、「これまで支援をほとんど受けていない」「家屋の被害が大きい」といった状況を踏まえて支援対象者を選ぶことができた。
後で聞いた話ではあるが、物資配布の翌日にクッサンさんの家まで訪ねてきて、
「これまで一度も支援を受けたことがなかったので、今回対象にしてもらって助かった。」
とお礼を言いに来た女性もいたそうだ。
このように、ささやかでもきめ細やかな支援活動ができたのも、ひとえに、ムラのミライへ支援をお寄せくださったみなさまのおかげだ。
この活動を支えてくださった日本の支援者のみなさまに、心からお礼を述べたい。

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注意書き

筆者:ムラのミライスタッフ・近藤美沙子
和田さん:ムラのミライ設立者、海外事業統括の和田信明