常にのどに小さな骨が引っかかっているような違和感---
四半世紀をかけて日本から途上国にまたがって多くの村々を目にしてきた著者2人。
彼らが感じてきた違和感の正体を解き明かすべくめぐらされた思索の集大成が
この『ムラの未来・ヒトの未来-化石燃料文明の彼方へ』です。
前回に引き続き、序章12ページから14ページまで公開します。
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私と中田は、この四半世紀近くを、いわゆる途上国の農村や都市のスラムと係わってきた。インド、インドネシア、ネパール、ラオス、セネガル、イラン、アフガニスタン、ミャンマー、カンボジア、バングラデシュと国名を挙げていくだけでも、いったいいくつの村を訪れたのか覚えていない。その中でも、鮮やかに記憶に残っている村もあれば、行ったことさえ覚えていない村もある。正確に言えば、私が覚えていないのだから、人に指摘されて、そんな村に行ったこともあったのかと思うだけの村だ。一方日本では、個人的な係わりがあった愛媛県、山梨県、兵庫県、高知県、そして岐阜県北部のいくつかの村しか知らない。それでも、私たちが不思議に思うのは、日本であろうと途上国の村であろうと、文化やその他諸々の違いを超えて、同じ運命を辿ろうとしているとしか思えないことだ。
それは、冒頭のエピソードに描いた陶器からプラスチックへの移り変わりに象徴されるものに、私が、常に喉に小さな骨が引っかかっているような違和感を覚え続けていたことに関係があるようだ。そして、その違和感が何によって来たるものなのか、それがわからないことによる居心地の悪さとも関係があるようだ。ただ、そのことは長年の宿題を棚の隅に放り出したままのように、まともに考えないようにしていた、というより、何をどう考えて良いのかわからなかったというほうが正直だ。
ところが、転機が訪れた。それは、中田が私の途上国の農村での仕事ぶりを参考に、実践的な優れた方法論を築き上げたことによる。その方法論という具体的な武器を手に入れたことで、この10年ほど、中田と私二人でその方法論を現場でさらに練り上げるという営みを続けてきた。それはまた、その方法論を通して私たちに新たな視野、というより私たちの思考にある種の風通しの良さをもたらす年月でもあった。そして、私がこの年月「喉に引っかかっていた小骨」について、それが何であったかを明らかにするための、十全とは言えないまでもほぼ十分な経験を積むことができた年月でもあった。
ちょうどそのようなとき、中田が、そのような試みを一気に後押しするような思考の枠組みを文章にした。その後押しを受け、私も長年の疑問に基づく思索を文章にした。この本は、そのような私たちの試みを形にしたものだ。ある意味、謎解きではあるが、そもそも、いったい何が謎なのか、何が「喉に引っかかっている」のか、私にもやもやしたものをもたらしているのか、そのことから中田は本書で解き明かしている。私は、中田が解き明かしたことが何を具体的にもたらしているのか、私がこの四半世紀、私の母国である日本と途上国を行き来することで理解できたことを書こうとしている。
したがって、基本は、あくまでも私と中田のこれまで体験してきた、いわゆる開発途上国の村や都市を通して、そして私たちが日々暮らす日本で、私たちが理解できた範囲のことだ。だから、村に関しては農村、しかも主に私が最も接することの多かった南インドの小さな山村にまつわる体験が基になっている。そういう意味では、私たちの知見の及ぶ範囲などたかがしれている。
この本は、学術的な本ではない。あくまでも、私たちの体験に基づいた村との具体的な係わりを基にした思索であり、これからどう私たちは生きていくのかの、実践的な展望だ。果たして本書がそうなっているかどうかは、読者の判断にゆだねるしかない。
(『ムラの未来・ヒトの未来-化石燃料文明の彼方へ』序章 P12~14より)
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