2018年6月19日火曜日

ムラの未来・ヒトの未来-化石燃料文明の彼方へ / 序章 (p14~16)

 国際協力とは介入であるーーー
 介入の、その先に描く「理想」とはどのような姿なのか。

今回は『ムラの未来・ヒトの未来-化石燃料文明の彼方へ』の序章、
14ページから16ページを公開します。

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改めて言うまでもないが、中田と私は、長年、いわゆる国際協力という分野で仕事を続けてきた。中田流の言い方をするなら、「援助屋」というやつである。中田が常に言うように、この「援助屋」という表現には、多少の誇りと自嘲(じちょう)がない交ぜになっている。誇りの部分は、人類社会の理想に向かって困難な状況の中で仕事をしているという自負であり、そして自嘲の部分は、果たしてそれが何らかの成果をもたらし、目標とするものに多少とも近づいているのかという根本的な疑問がちらつく、その自分の心の在り様の部分である。

だが、「誇り」の部分も人類社会の理想とは何だと正面切って問われれば、ぐらつかざるをえない。畢竟〈ひっきょう)、人類社会の理想とは、具体的にどんな社会を将来作ろうとしているのかということであり、その具体的な社会像が描けない限り、単なるお題目にすぎないからだ。われわれの自嘲の部分は、まさにそこにある。そして、このことこそ私たちの前著『途上国の人々との話し方― 国際協力メタファシリテーションの手法』では書けなかった部分だ。

国際協力とは、相手側の状況への介入である。特に、私たちのように、農漁村、都市のスラムなど、コミュニティ単位で係わることが多い場合、相手が現在置かれている状況を変えるという方向で係わる。もっと端的に言えば介入するわけだから、大いにこちらの価値観を持ち込むことになる。その場合、自分たちがどのような未来をめざし、それがどのような価値観に基づいているのかよくわからないなど、これはもう笑うしかない。

私たちは、村に代表されるコミュニティ(共同体)が抱える課題を解決する。解決する主体はコミュニティであり、私たちはそれを支援するという建前になっている。だが実際は、課題の設定もその解決方法も私たちが持ち込むものであり、したがって、文化も生活習慣も、そしてそれぞれ抱える課題も違うはずの世界各地の村で、どこも似たようなプロジェクト、いやまったく同じ内容のプロジェクトを十年一日のごとく行っている。

その代表的な例が、農村で行われている貧困削減のための収入向上プロジェクトであり、大方は、何か商品作物を育てて売ろうというものである。その商品作物は、当該地域でもとから産出されていたものは希で、外から持ち込まれたものが多い。

外から持ち込むということは、すでにその作物を消費しているところを市場(しじょう)とするのであれば、新たにその市場に参入するということであり、当然ながら激しい競争に最初から晒されることになる。品質、流通経路などあらゆる面を開拓し、既存のシェアに食い込んでいかなければならない。


また、その作物を食べる習慣がなかったところを市場とする場合、消費者が日常的にその作物を消費するようにする、つまり市場を作り出す必要がある。また、作り出したところで、ある程度のボリュームになれば投機の対象になる。砂糖、カカオ、綿花、麻などの市場価格がどのように推移し、それに生産農家がどれほど翻弄されているかを見れば、それは明らかだ。それでなくとも消費者は飽きやすく、ある年もてはやされたものが翌年には見向きもされないなどはよくあることだ。

いずれにせよ、途上国の伝統的な村には、難題という表現でさえ控えめと言うほかない取り組みだ。単に商品作物を育てるという本来の農民としての取り組みのほかに、市場調査、商品の販売促進、コスト計算など、簡単に言えば会社の経営のようなこともやらなければならない。これを、長い時間をかけて学んでいけばできないことはないだろう。だが、プロジェクトの期間は通常三年から五年だ。プロジェクトが終了して外部者の投入(金銭的な投資のほか、技術的指導なども含む)がなくなった途端、作物の生産そのものがいつの間にか終わってしまうなどという例は枚挙に遑(いとま)がない。

(『ムラの未来・ヒトの未来-化石燃料文明の彼方へ』p14~16 より)




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